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母と子、子と母

Img_2677  毎年、7月の第一日曜日に開かれているY家での支部家庭法座。いつも、庭には、ハスが咲いている。

 今年は、個人的な都合で、10月に変更してもらった。

 広島駅に集合して、ジャンボータクシーなどに分乗。幸いに、Y家のお仕事なのである。運転はご長男さん。彼も、子ども大会には、ずっと出席してくれていた。いま、そのお子さんを出席させてくれている。もともとは、アメリカから逆輸入で、仏法が入ってImg_2681きた。そして、母から娘へと繋がったのが、いまのYさん。そしてその子から孫へと、ご縁が続いているので、子ども大会を含めると、4世代目にあたるご縁になる。

 中国道を島根の方面に向かって、安芸高田市の高宮町へ。だいたい70分ほどだ。

 雨の中での法座になったが、広い縁側を開放して、庭からの風は心地よい。

 ご法話は、「タネ」の話から、「縁」他力と、「因」他力について。
Img_2676 仏法を聞き始めて、(それこそ)ご縁にあってくると、いままで気付かなかったおかげに気付かされる。ひとりで生きているんじゃない。母の胎内にいるときから、いやこの命さえも、すべてをいただき、その後もいろいろなおかげ、さまざまないのちのご因縁によって生かされていることに、気付かされてくるのだ。そして、ほんとうに生かされていることを喜べるようになってくる。しかし、どれだけ感謝し、また歓喜の涙を流そうとも、ほんとうに喜ぶべきことは何かをしっかりと聴かせていただかないと、その法悦に誤魔化されてもいく。だから、ご縁にあったことだけを喜んで、そこで止まっている人も多い。でも、そのご縁は何のためにあったのか。その大本の「因」のところまで聴かせてもらわないと、せっかくの阿弥陀様のご苦労が、単なる感謝の日暮らしや生活上の喜びの念仏だけで終わってしまうのである。
 私の持ち物、「タネ」の中味を聴かせていただく。地獄行きの悪業の身を聴かせていただく。同時に、それは、その悪業にかけられた阿弥陀様の願いの大本、大悲のお心を聴くことにほかならないのだ。絶対に、善の華や実などを咲かすはずのない悪業の種から、無根の清浄の信が生まれてくる、その仕組み、おいわれをお聞かせに預かるのである。私にかけられた尊い尊い縁のなかでも、如来様の仏縁を増上縁と言っている。すぐ目につく、縁他力の尊さは、その本である因の他力の裏打ちされているものなのだ。
 今回は、初聴聞の方も多かったので、なるべく平易な話につとめて、最後は、クソしかでない「顔」から、清浄の「南無阿弥陀仏」が満ちあふれてくる不思議を味わっていただいた。

 そのあとの信仰座談会。25名ほど。それぞれの今日のご縁、仏法とのご縁をお聞きしたが、これがとても尊かった。まるまる2時間、みんなが、そのご縁やご法話の感想を話し、一周回っただけで、ちょうど時間切れになった。個別のやりとりはできずとも、個々人の唯一のご縁を、その場に座る同行の全員で共有し合えた得難い時間だった。

 家庭法座なので、近所の方もおられる。息子さんのお勧めでお寺の坊守さんもお出でくださる。別院におかれたカウンセリング学習会のチラシから、ここにたどり着かれた方もある。娘さんに促された初聴聞のお母さん。認知が入ってお家におられなくて、一緒にお出でになった方もおられる。よくわからないままお友達とお出でになった30代の男性は、ちょうど1年前のこの家庭法座で、「おとぎ話のようだ」と、正直に初めて発言くださった方のお誘いだ。その方を誘った女性のご縁も、また不思議。そのひとつひとつの糸が、巧みに絡み合って、皆がここに座っておられるのである。もちろん、昔からのご縁の方もあるのだが、誰一人として、同じご縁の方はおられない。それぞれが、それぞれのご因縁によって、ここに集い、何故か同じご法を聞き、喜び合う身になったのである。そのひとつひとつが、不思議としかいいようのない尊いものであった。

 詳しい記述は控えるが、今年になって、不慮事故で子どもなくされたことがご縁として、新興宗教から決別してここにたどりつかれた初参加の女性の深い悲しみ。一方で、最愛の養母を、無残な事故死で幼き日に亡くし、無常をご縁に母を慕うかのように、聴聞を始められた方の涙の喜び。9月の支部法座のあとの「懇親会」をご縁に、娘さんの泣きながらの懇願で、初めてお参りされたお母さんと、お子さん。一方で、熱心な母親の仏法の勧めに、反発し、逆らいながらも、いまその疑謗が縁となって、仏法を喜ぶようになったご兄妹。熱心な祖母が、孫へと仏法がつながり、逆に、そのその子から逆流するように母親へも法水が流れようともしていた。

Img_6205 母が子を、時に子が母を、立場を変え、入れ替わりながらも、後を慕い、先を訪ねて、共に導きあいながら、唯ひとつの仏道を歩ませてもらうのである。

 終了した時に、知らぬまに、ぼくの心も温かい法水で満ちていた。まったくそれぞれが異なった話でありながら、その底には、大悲のお心が、その底に流れているのだ。

 私をしっかりと包んでくださる「かなしみ」のみ心であるからこそ、孤独で、寂しく、苦しみだけの私が、安心して悩み、そして喜べるのも、その大悲の心がその大本であることに気付かせていただいたのだ。

 玄関には、悟朗先生が、金文字で書かれた「大悲」の額がかかっていた。

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