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『たましいのケア』~病む人のかたわらに~

 東京への車中、『たましいのケア』~病む人のかたわらに~を読む。藤井理恵、藤井美和氏の共著なのだか、二人は双子の姉妹。おひとりは、キリスト教病院のチャプレン(病院牧師)、もうおひとりは、「死生学」を教える大学教授、共に敬虔なクリスチャンで、キリスト教の精神に基づくたましいのケアの実践家である。
 たまたま、今月の初めに新聞のインタピュー記事を読んで感銘を受けたからだ。

0955 大きく2部構成で、前半は、病院牧師としての実践の立場から、病む人、死に行く人のかたわらにいるとはどういうことかが、具体例に即しながら語られていく。後半は、若い学生たちに「死生学」を教える立場からの、たましいのケアについてである。後半の著者である藤井美和氏は、好調な人生を歩みながら、突然、28歳で原因不明の難病に倒れ、生死を境の中で、「何のために自分は生きてきたのか。何か人のため、家族のためになしたのか。何も出来ていない」という思いが湧き、もしそのまま死んでいたなら、ただ「”人は究極の状況で、自分の生き方を問われるのだ。後悔しても遅いのだ”というとこだけを学んで死んだ」との思いから、「あんなに自分の人生に満足していたと思っていたのに、実は自分のことは自分かいちばんわかっていると思っていたのに、本当はちっとも分かっていなかった」という驚きを契機にして、その後、長い苦しいリハビリの末に、奇跡的な回復を遂げて、日本ではまだ草分け的な分野の「死生学」を若い人達に教授されている。

 この場合の「たましい」とは、霊性(スピリチュアル)ということ。つまり、人間を、身体的、精神的、社会的、霊的な存在として捉えて、これらが統合されて全人格となるという意味での「たましい」を指している。このわたくしの存在の根底にかかわる問いが立ち上がる時、つまり、死や病、老などの苦に直面した時に、これまでの人生で築き上げてきた身体的、精神的、社会的な拠り所のすべてがはぎ取られ、崩れさっていくときにこそ、ますます顕現されてくるのである。しかも、そうなれば、無防備で、無力で、繊細で、傷つきやすい「たましい」が、いわば裸のままに剥き出しになってくる。誰もが、裸で生まれてきた。しかし、この人生において、いろいろな服や鎧を身につける(それが生きがいだったり、意味だったり、崩れない幸せだと思っていたりするのだが)、結局、死に至る時には、この世で身につけたものすべてが、剥ぎ取られていくのである。

 (大経の三毒段ではないが)まさに地位の高いものも、低いものも、富めるのものも、貧しきものも、知識の有る、無し、家族の有る、無しにかかわらず、すべて独り生まれて、独り死んでいかねばならないのである。

 そんな死を前にしたり、根源的な痛み(スピリチュアル・ペイン)を抱える人を目前に、何をなす事ができるのだろうか。

 ここでは、テクニック(技術)や方法ではなく、晩年に顕著になるロジャーズのカウンセリングアプローチに類似している。クライエントと共に「いること」(プレセンス)そのものの質が問われてくるのであろう。結局、自己自身のスピリチュアルが、相手へと到達し触れていくのである。

 それは、わたくし自身の霊性(スピリチュアル)が問われると共に、わたくしが何に支えられているのかが、問われてくる。この世で身につけてきたものを手放していくとき、目に見えない、形にあわられないものこそが、実は大切になってくる。それを、いかに自分が大切にしてきたか。また自分を支えてくれていたかに気付かせてもらうのである。それには、家族や周囲の人達がかけがえのない存在として肯定されるも意味も大きいが、それだけでは不十分で、そこには人間を超えた、超越的な存在との出会いの重要性が強調されている。

 すべての人に平等に、100%訪れる死であるのに、そのことを意識しながら生きている人は極めて稀である。むしろ先送りしたり、今はなかったことにして生を謳歌しているが、しかし実のところ、死ぬことが意識にあがって、初めてどう生きるのかにほんとうに向き合わざるおえなくなる。「死に方」とは、「生き方」なのであり、生きることを、死ぬことを切り離して考えることはできない。しかもそれは、知識として「わかっている」第三人称の死から、家族や近親者の死である第二人称の死、そして、このわたし自身の死が問題となる第一人称の死と向き合うことでもある。分かっている知識や理屈から、共有し、体験する。

 日常で意識していなくても、死や病、老などの苦に迫られる時、改めてわたし自身が問われてくるのである。

 「何のために生きているのか」という意味が問われ、

 「誰からも愛されていない」という関係が問われ、

 「ここにいることが肯定できない」という存在が問われる。

 このような根源的な苦しさ、つらさに、痛みこそが、わたしの命の質に直結する問題で、そこにどう関わっていくのかを、謙虚で、誠実な語りでありながら、同時に、深い愛に貫かれた強さも感じさせられた。

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コメント

倶会一処。

先生…浄土で会いましょう。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年11月 2日 (火) 23:36

読んだよ。返信しておきます。

投稿: かりもん | 2010年11月 5日 (金) 00:52

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