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東京講演会法座

Img_2791 東京公開講演会法座。今年で第4回目になる。

 会場の最寄り駅を降りると、昨年同様、会場の案内板をもったY君やO君の姿。ご苦労さまです。途中の公園では、公共の主催でのフリマをやっていて、人込みを縫うように、会場へ。受付には、お願いしていた仏青の若い女性がお二人が座り、すでに皆さんの手でセッティングも完了していた。司会役には、高山からYさん。カメラマンやDVD録画係の方は、プロの同人。お久しぶりの参加である。ポスター係、書籍係、接待係、お花係、会計、お声かけ係…と、皆さんが総括の責任者の元、それぞれの役割を少しずつ分担してくださっている。確かに、経済的な意味でも、役割や仕事面でも、同人の皆さんの過重な負担を避けるようにと考えているのだが、それでいて、いつも単なるお客さんで受け身の法座で終わっていると、せっかく、同人の手が運営されている華光の意義が半減するのではないか。華光大会などの支部当番でもそうだが、多少の負担があっても、たまにはみんながひとつになって、目に見える形で、お世話をいただくことにも大きな意味がある。

 普段は、すごく当たり前のようにしか考えていないが、ひとつの法座が成立するのでも、会場があり、講師がおり、主催があり、お世話方があり、参加の皆さんが足を向けてくださるおかけで、そんなご縁が幾重にも重なっていることが、ほんとうは有り難いことだ。
 私の狭い考えでは、なるべくしんどいことはしたくない。自分に、損か得か、好きか嫌いか、役立つか,役立たないかなどの自分の都合、自分の物差しでしか考えられないのだ。しかも、自分を中心にした相対的な見方に固執し、絶対視するところに、凡夫の迷いがあるといっていい。それは、阿弥陀様の大悲心、他力回向のお心とは、まるでまるで真反対である。そんな自分であることを教えていただくのである。

 その意味でも、これもまた尊いご法縁であったが、参加者はいままでより少なかったのは、ちょっと残念だ。それでも、初めての方、遠方からわざわざお出でくださった方、久しぶりのお方も、チラホラとあった。

 講演というか、法話内容は、自分自身の求道の歩みを振り返りながら、聞法、求道の要点について。ぼくには、小学校5年生の時、そして、19歳で得度した直後と、大きな転機があるのだが、実は、それだけでなくて、そこに至るまでにも、ぼくが気付いていないだけで、あの手この手のご方便やお育ていただいたのである。まさに、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」である。そうとしかいえないのである。この遇い難い人身を得て、聞き難い仏法を聴かせていただいた。たまたま出遇わせていただいたのだ。もちろん、それは、ぼくの方からはまさにそうではあるが、しかし、阿弥陀様の方は違うのだ。このわたしが地獄で泣いているのを一目ご覧いただいたのが不憫の始まり、それ以来の悲願であり、宿願がかかり続けていたのだ。阿弥陀様の方から、ただ一方的に、私の意志や思いに関係なく、ずっと届けられて続いていたのである。ズッーと、ズッーと、ズッーと叫び続けていた呼び声に、たまたまいま出会わせいただいたのである。

 ああ。

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