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浄土に人天や菩薩が…

 9月の伝道研究会。6月から同人を対象にオープンにしているが、平日の夜にもかかわらず、参加者が増えてきている。

 法蔵菩薩の四十八願の名称のところ。阿弥陀様の願いを聞くといっても、その一つ一つを味わうということは、滅多いにないのではないか。ここでも、私達は持ち前の鷹揚さ、懈怠の姿を余すところなく発揮している。テキストでは、四十八願の名称、願名が、ただ四十八個並んでいるのだが、その願の名前だけ読んでも仕方ないので、浄土聖典で、その願を一つ一つを、声に出して輪読していった。ただそれだけのことでは、何のことかも分からない方もあっただろうが、最低限の解説だけしか加えなかった。たとえば、親鸞様か、真実の願とご覧になられたり、逆に、常に十九願とセットで語られる「見道場樹」の二十八願のように方便の願としてご覧になられたりしている点だ。ほんとうは、現代語訳『浄土三部経』と照合しながらすすめていけば、もっとわかりやすかったのかもしれない。

 僕自身も、滅多に、こんな順番に音読するような読み方はしないのだが、こうしてみんなで声に出して、順番に読みすすめることで、気付かされることもある。形式はみな同じ「設我得仏……不取正覚」なのだが、その願いの対象になるものが、微妙に違うことが明らかになってくるではないか。

 国土(浄土)を建立荘厳するための願である、第1願や31、32願などは、仏国を荘厳するための願いである。

 また、仏自身の仏身を荘厳するための願が、第12、13願の光明無量、寿命無量の願である。

 仏国にしても、仏身にしても、いずれも、衆生済度のための国土であり、身であるのだから、そのお心は衆生済度の一つにある。

 そして、残りの大半の願は、さまざまな衆生を修めるための直接の誓願なのであるが、その対象が微妙に違うのが、面白い。

1、国中の人天

2、国中の声聞(14願)

3、国中の菩薩

4、十方の諸仏(17願)-これは、仏身と見ることもできる。

5、十方の衆生(18、19、20願)

6、他方諸仏国の衆生

7、他方国土の菩薩衆

ということである。だいだいが、1(前半の願に多い)、3(中盤の願に多い)、6、7(最終盤に多い)の、3つに分かれる。

 だから、こうして順番に読ませていただくことで、私達が浄土往生をさせてもらう、5の生因三願が、「十方の衆生よ」、「生きとし生きるものよ」という呼びかけになっていることが、目に見えて明らかになってくることが、有り難かった。

 そのうち、ある方が、「なぜ、国中(弥陀の浄土)なのに、人・天や菩薩などに分かれるのですか」と質問された。まったくそんなことに気付かなかった人あろうし、なぜ、それが問題なのかも分からない人もあっただろう。中には、「浄土に鳥や花があるのだから、人や天もいて当然ではないですか」という声もあった。でも、弥陀同体の悟りならば、浄土に、人・天だけでなく、声聞があるのもおかしな話ではないか。

 その場では、ほかにも皆さんがご自分の味わいを述べられたが、「来月の宿題にします」と、お伝えした。この問いにしても、自分で取り組み読むことで、軽いところではあったが、自然と起ってきたものである。それなら、すぐに答えを与えてもらってもまったくおもしろくないし、せっかくの伝研の意味がない。

 実は、浄土に人や菩薩などの差別(違い)の表現があることについて理由は、『大経』でも示され、親鸞様も、浄土和讃の中でお答えになっているからだ。

 もちろん、その先の、ではなぜそう順じるのかは、それぞれの味わいになってくる。

 もっとも、自分中心の極重悪人のこの泥凡夫に、自利利他円満した寂滅の境地の菩薩のお心がわかるはずはないのだから、うぬぼれにもほどがある話だが…。

 しかし、結局のところ、この四十八願は、誰に向けて、何を願ってくださっているのか。そこ一つに帰らせていただくことで、ここでお聞かせに預かれると思うのである。

 来月の皆さんのお答えが楽しみである。

 10月6日(水) 夜7時30分~9時50分

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