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得道の人あり!(2)

 日高同人のお宅を訪問して、個性的で強烈な日高同人のお念仏に触れたあと、聞法旅行の最終日は、「連続無窮のお働き」と題して、ご法話をした(前半)。もう生きた説法にあった後で、何もいうことはなかったが、いま体験したままをお話させてもらった。

前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ、連続無窮にして、願はくば休止(くし)せざらしめんと欲する。無辺の生死海を尽くさんがたそのゆゑなり。『化土巻・後序』

 凡夫の私の歩みは、その私の前を歩いてくださった数々の知識、同行のお導きのおかげによって、そのみ跡、その影を慕って歩ませてもらうだけなのである。まさに、前に生れんものが後の者を導いてくださり、後に続くものは、その前に歩くものを訪(とぶら)っていく。それが、また私の後をも続き、そのうねりが連続にして窮まることのない歩みとなり、けっして休止することなく、連なり続けていくというのだ。それは、ひとえに辺がない無辺の生死の苦海に沈む迷える生きとし生きるものが、最後の最後のひとりまで、すべてを救い尽くさんという、無辺光のお働きが止むことがないというものでもある。まさに、これは菩薩の四弘誓願であり、法蔵菩薩の無量寿、無量光のお働きそのものではないか。

 ところで、親鸞様は、半分だけ聞いたり、中途半端に喜んだり、名聞や利養のために聴聞を利用したりするような、半他力・半自力の聴き方を「聞不具足」、また同じく中途半端な信心を誡められるために、やはり『涅槃経』から「信不具足」の文を、いくつかを抜粋されて、何度も引用されている。その中のひとつに、

また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす。『信巻』・『化土巻』

 といわれている。せっかく真実に至る道、お念仏の道を信じ、連続無窮のお働きを聞きながらも、その道を実際に歩んでいる人を信じていない。もしくはそんな得道の人に出会っていないというのも、これまた信不具足で、この金言を深く了知して、離れるべきだと誡めされているのである。

 道があることだけではない。その道を歩んでいる人に出会ったのである。では、道はなんのためにあるのか。けっして、ただ道が完成したことを眺めて喜ぶためではない。その道を歩ませていただくためにあるのだ。しかし、私ひとりの力では、歩むべき道も分からず、また歩み方すらもわからない。それを、お釈迦様のお勧めとして、また阿弥陀仏の呼び声としてあるのだが、具体的には、それを私の一歩、半歩前を歩く導き手によって、つまり私の前を歩く現実の同行や知識となって、そのお導きによって真実を知らされ、私の小っぼけな(それでも昿劫から執着してきた)殻を破ってくださり、大法海に放り出してくださったのである。

 ただただ、謝しても射し難きご恩徳のたまものである。

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