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「幾度も お手間かかりし 菊の花」東京法座振返り

 先週末は東京法座だった。

 ここは、ずいぶん顔ぶれが入れ替わる。初めての方も多いが、特色としては、女性より男性が多い。しかも、年代も30、40、50代の壮年世代。

 実は、いろいろと書きたい思いもあるが、また機会をみたい。「分からない」「分からない」といって、方法論ばかり捕らわれる方よりも、「有り難い」「有り難い」と、縁他力の喜びのに留まる方のかかわりの難しさを痛感したからだ。

 でも、まずは簡単に法話の振り返り。4座もあったが、ほんとうは3座で、もう少し信仰座談会ができるようにしていきたい。いまは、顔ぶりが変化しているので、しばしお育てが必要なのかもしれない。

1) 正信偈の「極重悪人唯称仏~大悲無倦常照我」の源信様のところ。「極重悪人」とは誰か。私はわたしのことを、どう捉えているのか。「あなたは誰ですか」のワーク(これが面白い)をしたり、「常」と「恒」についてのお取り次ぎをした。

2)夜は、三帖和讃(上下)が刊行されたので、浄土和讃の構成と、そのなかから、現世利益和讃を声に出して頂いた。これは、法話のリクストがあったので、余分に加えた。

3)K先生の阿弥陀様のカルテを借用し、そこから、随煩悩、根本煩悩を具体的に見ていった。「極重悪人よ」と、わざわさ指されているのに、キョロキョロと余所見ばかりしている。まったく重病人の自覚もなく、症状にも無頓着では、阿弥陀様のお薬を飲もどころか、したい放題で、予後がますます思いやられる。

4)しかし、3)こそがお目当ての機。実は、その阿弥陀様のお心をいただかいないのが、「自力のこころ」である。そのことを、真宗の正意の安心のお領解を正しくお示しくださった、「領解文」で詳しくいただいた。

 ただし、3)のような煩悩を具体的にわが身に引き寄せて聞くことはわかりやすいが、4)の「雑行、雑修、自力のこころをふり捨てて」ということになると、急に観念的な理解になってくる。実機にあって、自力の壁にブチあたり、真に涙したものでしか、この最難関の関所を超えた喜びは湧かないであろう。単に、どこかに煩悩があったり、別に自力のこころがあるのではない。この私そのものが、頭の先から爪先まで100%地獄行きの極重悪人の身であると同時に、100%、弥陀に逆らい続ける疑いの塊なのである。その自分が死ぬことなのだから。

 ところで、K先生の「阿弥陀様のカルテ」のご法話に、患者名の前に、担当医というものを加えた。もちろん、そこは釈尊であり、七高僧や親鸞様なのであるが、その方々は顧問であって、直接、診断し、ご指導くださった善知識がおられる。「ああ、ぼくは、はっきりと、ここに担当医の先生をお名前を書けるなー。もしかすると、そこがぼくの喜びのすべてかもしれない」と、善き師に出会えた喜びを、改めて痛感したのだった。妥協することなく、自力の迷情が破れるところまで、しっかり命終まで、粘り強く、そして倦むことなく、ご指導(治療)下さったたまものなのだ。領解文でいうと、「師徳」ということにあるなー。

 明日からは、広島・九州合同支部法座。3)、4)あたりが中心になるだろう。

 昨年は、福岡での開催で、父と一緒に旅をした。しかし、今年は、一人だ。その代わり、福岡から、若手の先生がご法話をしてくださる。なんとなく一人でないということでも、気分はずいぶん違う。きっと、違った方向からの関わりも出来そうである。初めての方も何名かお会いできそうで、楽しみだ。

「幾度も、お手間かかりし、菊の花」(千代女)

 

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