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今年の教行寺法座

 例年、9月末にお招きをいただく教行寺永代経法座。プログの話題でも、恒例になっている。

 十条駅から近鉄なので便利だが、3度の乗り越えがある。田原本駅から西田原本では、外の道を歩いて王寺線というワンマンに乗換え、池部駅からお寺まではタクシーに乗らねばならない。

 ところが、今年は、例の阪神高速京都線と第二京阪が開通し近畿道と直結し、西名阪と通って法隆寺ICまで、一直線。これはかなり早いぞ。ICから、河合町佐味田までは、10分もかからない。1時間ほどの予定なので、初めて車で出かけることにした。新しい道なので、ナビ標示が追いつかずに、川や畑の上を飛びように車が走っていく。ただ、同じ高速道でも、すぐに「この先は別料金」となるので、6、7ケ所は料金所を通って小刻み課金されて、少々割高にはなる。しかしその分の時間短縮は大きい。会館からら教行寺まで、1時間以内。これなら、K先生に、華光会館にのご出講もお願いしやすいなー。

 さて、寺院布教は、なるべく平易な話題や言葉を使ってお説教させてもらっている。要点は同じだが、お聖教の解説が主になると、皆さん、それだけで敬遠されてしまうので、せっかくのご縁が勿体ない。

 今年は、「家で、テレビをみたり、講演会を聞いたりするのと、お寺でのご聴聞は違うのかどうか」という問いから入った。皆さんは、「違うな」と応えられる。では、どう違うのか。「仏様の話」だとか、「有り難い、結構は話だから違う」といった程度の反応が寄せられる。もう少し詰めて補足すると、「後生の一大事」の解決(生死を超える)教えをお聞かせに預かる。(世間の)迷いの延長の話か、それを超える話かは、大きな違いだということになってきた。

 それには、ただ話を話として聞いているだけではダメ。ここは、単なる知識でも、理解する対象でもない。そこを、皆さんに引き寄せて、何をお聞かせに預かるのか、どこを外さずにお聞かせに預かるのかを、具体的にお伝えしていった。あとで、お寺の皆さんとお話していたら、それこそ「結構な有り難いお話」をしてくださる先生はおられるが、案外、聴き方のポイントを具体的に絞って聞くことは少ない。だから、結局は、漫然と、なんとなく惰性でお参りして、大半が、有り難かったり、ためになるところだけで喜び、少し進んだ人でも、教義や聖教を覚えたりするような聴き方が多いのだと言われていた。

 要は、ご聴聞は、まず「自分」を問題にして聞くことである。

 でも、ここが難しい。普通は、「自分」で、「仏法」を問題にして聞いているのである。だから、無常も、罪悪も、お救いも、「わかってます」と応えられていく。聞けば、「わかった」気にもなる。でも、それは、いざとるなと、「それと、これとは別だった」と泣いていかねばならないような、いつも人ごと、一般論の聴き方で終わっている。もちろん、聖教や教義を対象にして理解したり、覚えたりするのでもない。

 お経に照らされた、教えを鏡として、仏様の目に移っている私をお聞かせに預かるのである。

 では、その如来様の目に、「私」は、一刻も争う緊急患者、無明業障の恐ろしき病におかされている、優先順位1位の大病人と映っているのだ。しかし、私の目には、「私」は健康と映っている。いや、悩みや苦しみはたくさんある。症状はボッボッと出ているのだが、私はただその苦しみ、痛み、症状さえ収まればいい、楽にさえなればいいというような聴き方をしている。そこで安心したいのである。というのも、どれだけの緊急を大病人なのかという自覚が、私にはまったくないからだ。これは、肉体の病気でも同じこと。たとえば、激しい痛みのある歯痛では、大急ぎで歯医者に通うが、命には別状はない。命に別状あろうが、なかろうが、ひたすら痛みを軽減したいのである。痛みが無くなれば、治ったと思っている。しかし、痛みも伴わず、静かにガンは内部で進行していく。ガン検診を受けて早期発見をしないかぎり、もし自覚的な痛みに襲われたとしたら、もうその時は手遅れになっているようなものだ。

 だから、表面の痛みをとるだけの対症療法では役に立たない。そのことをしっかりと告知してくださり、診察してくださる名医に出会うことが大切だ。しかし、どんな名医に会っても、信頼関係がないと、けっしてその指示を聞く気にはなれない。どんなにいい治療を受けたとしても、自己流で解釋して、勝手なことをやり続けているならば、症状が悪化するばかりだ。

 善知識に出会う。その仰せを、仰せのままにお聞かせ預かる。そして、お聞かせに預かったままを、お聞きしていく。それだけなのであるが、どこかで、歪めてしまったり、自分流で聞いたしまったり、喜びを小さなものしていくのである。

 一劫もかけて、私の症状、病気を隅々まで診断しつくして、治療法を考え抜かれて、この私のために極重悪人を必ず救うという「南無阿弥陀仏」の醍醐の妙薬は完成くさった。しかも、「あなたひとりのために作り上げたお薬を、はやく飲んでおくれ」と、私の目の前に回向してくださっているのである。そのことをひとつを教えてくださっているのである。

 そのことを、いまここで、教えていただいている。そのために、いまお参りしている。ならば、その仰せとおりに、応えていくだけではないのか。

 そして、ほんとうに私の如来様に会わせてもらう。そのために、この世に命をいただいたのだと思うと、こんな勿体ないことはないではないか。そこまで喜ばせてもらえるご法。ここにお集まりのおひとり、おひとりが、ほんとうに南無阿弥陀仏に出会われましたか。そこを腹の底から喜んで、お念仏されていますか。もし、まだそうではないという方は、仏様に出会って、ほんとうの幸せの身になっていただきたい。そうでないと、この人生は詮がない。

 まあ、こんな流れで、具体的な例話を交えてお話ししてみた。

 皆さんの手応えや、反応も、感じることができた。

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