残り15分から~輪読法座~
9月の華光誌輪読法座。
最近、参加者が固定してきたが、今日は、久しぶりの方もお参りくださった。小人数の集いで、10名の参加。このくらいのほうが、座談会や輪読会は活発になるものだが、特定の人に発言が偏ったりもする。もう少し積極的な参加者があってもいいのかもしれない。
「自灯明・法灯明」の続き。浄土真宗で、これをどう味わうのか。ブログもここに触れる予定だった。
ぼくには、まだ聞法旅行の余波もあって、その時の余韻や味わいを聞いてもらったりしたが、全般にはちょっと盛り上がりに欠く展開。残り30分ほどになって、都合の悪い方が、一人、二人と帰っていかれた。残り時間も20分。最後の分かち合いにはいって、残ったひとりひとりが、感想を話していた。
ある京都の同人が、自分の心境を語りだされた。日頃は、自分からは積極的には話されない方である。要は、どうもスッキリしない、モヤモチしたものがあるというのである。しかし、先生から、「もう一度聞き直せない」と言われていることが、ひっかかっているというのである。
そんなことはないのですよ。確かに、一度煮えた米は、もう生米には戻らない。しかし、後生の一大事、油断あるまじきことである。私の出て行く後生がかかっている。大事のなかにも、大事をかけて、,ここは大切にお聞かせに預かりたい。むしろ、不審があるのなら、誤魔化せず、妥協せず、念仏や体験で逃げずに、また喜びを取り込まずに、わが胸を打ち出して、「どかぞお聞かせください」と、頭を垂れてお聞かせに預かる態度こそが、浄土真宗なのではないか。ハッキリしたら、往生決定、それで卒業顔で、わが胸がお留守になって驕慢に陥るより、ずっとずっと尊いと、ぼくは思っていますよと、お伝えした。
スーッと 顔色が変わった。真剣な表情。逆に、自己の喜びに、ハッキリとダメを出されたと受けられたようだ。自分でダメだといいながら、どこかで、「これでいいのではないか」という思いもあったのではないか。だから、励ましてもらったり、もう少し頑強に補修したり、少し軌道修正すればいいのではないかという、「だいたい」という奴が、この腹底なのである。
でも,それでは、あまりに悲しい。浄土真宗は「だいたい」のお救いではない。だいたいのご本願や、ほぼ間違いないお救いではなく、100%の絶対のお救いだ。そして、絶対に堕ちていかねばならない0点の私ではないのか。常に、0か、100かである。
「わが胸はダメでも、如来様はなんと願って、呼びかけてくださっているのですか」と尋ねたら、「そのまま来い、直ちに来い」と呼んでくださっています、との即答の返事。
その前に、「南無」というは「帰命」、その帰命には、勅命(直ちに来れ)と、信順(仰せに従い、お召しかなう)の意味がある。まず、先手の「仰せ」があり、それを耳で聞き、順っていくだけだなのだが、そんなやさしいことが、とても難しく、迷いを重ねているのだという話をしていた。だから、ここからの話は早かった。
「『そのまま来い、直ちに来れ、必ず救うぞ』との勅命があるのを聞いたなら、その仰せに従って、いますぐに応えていくだけしか用事はないのではないか」と、お話し始めた端的に、それ以上のお勧めも、促しもないのに、「ハイ」と、返事されたかと思うと、サアッ、サアッと立ち上がり、仏壇の前へ。そして、これまで聞いたことのない声で、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」との号泣念仏か始まったのだ。
周りのものは、みんな唖然とするばかりだ。まず、その方が、そんな不審を抱いていたことを告白されるとも、またこんな烈しいお念仏をされることも、そして、誰ひとり強くお勧めをしていないのに、ほんとうに自然に勅命を従っい、押されるように動かれたことも想定外だった。しかし、そのすべてが尊かった。文字通り一歩踏み出された姿勢が、有り難かったのだ。
あとは、その方とご一緒に、お念仏をさせていただくだけだ。
時間は関係ない。ご法座は、最後の最後まで、何がおこるかわらかないなー。
この後も、前々日の法要から感じた、Kさんのお父さんを偲ばれるお話も、また有り難く、大きなお徳をいただいた。南無阿弥陀仏
| 固定リンク
« 満月の夜に | トップページ | 町内会のバス旅行 »
「法座と聞法」カテゴリの記事
- 初盆(2023.08.11)
- 夏の仏の子供大会開催!(2023.08.06)
- 広島での法事(2023.01.22)
- 大阪での葬儀(2023.01.21)
- 葬儀から報恩講(2023.01.14)
コメント
華光誌輪読法座のご縁を頂き有難うございました。仏に成ることのできない私におかけ下さった南無阿弥陀仏のご苦労をお聞かせ頂きました。亡き父への何よりの供養になったと喜んでいます。
父は寝ても覚めてもお念仏の人でしたが、朋同行の批判は一言も申しませんでした。父にとってはお同行のお一人おひとりが我が身を照らす仏さまだったのでしょう。常に人として真実の目覚めが大事と教わりました。
半世紀以上の永きにわたる華光と父とのご縁の発端の我が家の小さな仏壇は、経年による劣化は否めませんが、父の手により驚くほど磨き込んであり、7回忌を終えた今も尚、底光りの輝きを放っています。
合掌
投稿: KURO | 2010年9月26日 (日) 01:11
KUROさん、ここのコメントもお久しぶりですね。この度は、いろいろとお世話になりました。また、最後にお聞きした、お父様への思いは単なるこの世の父子関係を超えた、如来様との関係に通じる話で、ほんうとに有り難かったです。このコメントにもあるお父様の態度も、真似ていきたいものです。
投稿: かりもん | 2010年9月27日 (月) 00:23