下がり藤
今日も、朝からお盆参り。すべて宇治方面のお宅。
24号線を南へ。御香宮前を通り、大手筋(伏見桃山城の正面通り)を通って、大木が涼しげな明治天皇陵の道を横切って、宇治方面に向かう。次ぎの場所へ移動は、平等院の横を通り、宇治橋を渡って、三室戸寺から黄檗山万福寺へ。さらに、法界寺や日野の誕生院の近くのお家へ。宇治の名所旧跡のオンパレードだけど、今日はどこにも寄らなかった。
駐車をして、法衣姿で道を歩いていたら、小さな子どもが、振り向きながらいった。
「あ、お地蔵様だ」
「お地蔵様じゃないよ、お坊さんだよ」と、お母さん。
もしかすると、いい間違いではなく、地蔵盆(お地蔵さん)の時だけ、お坊さんを見るのかもしれない。
ある家では、お盆で息子夫妻が帰省中で、3歳のお子さんが、興味津々、勤行に座ってくれた。 「この子にとっては、お坊さんという職業の方に接する初めてだと思います」と、お嫁さん。まあ、職業には違いはない。
ハイ、はじめまして。
お盆でも、一緒に阿弥陀経をお勤めして、15分~20分程度のご法話と、少しだけ近況をお聞きしたりする。同人宅を除いて、いまだに法話の座談にまでは至らない…。子ども大会のテーマの「感謝」に合わて、なるべくわかりやすい話につとめた。
「感謝」の謝は、あやまるとも読むが、言編。ただ感じる(こころ)だけでなく、それを口に出して伝えることである。一般の感謝の言葉にはなにかといえば、「ありがとう」だろう。
いまは何でもあるのが当たり前の時代。水も、空気も、電気も、食べ物も、食事のお世話も、服も、自分の命や健康も、有って「当たり前」だ。
正月に起こった会館の水道ボンプの話題。目には見えないところで、さまざまなご苦労、おかげがあり、私のところに一杯の水が届く。少しでも、どこかで不具合がおこっただけで、止まってしまうのだ。でも、その当日は、「有り難い」と思ったけどれ、普通に出るようになると、すぐに「当たり前」になって、感謝の「か」の字もない。
でも、何一つとして当たり前のこはない。わたしの知らない、目に見えないところに、深い深いご恩徳ある。だから、どんなことも、すべてが「有り難い」、有ることが難(かた)い、ご恩でないものは一つとしてない。しかし、この自分中心の私の心には、自分に好都合だったり、自分の欲望が叶えられることにしか、感謝できない。
日常で場面でもよくあることだが、大好きなおかずなら「ごちそう」と大喜ぶする。逆に、大嫌いなものなら、不満や不平で、母親にあたったりもある。でも、食べものはもともとすべて命。好きなものも、嫌いなものも、同じ命をいただき、無数の皆様のおかげやご苦労があるのだが、結局、自分の都合でしか考えることができない。
そして、私は、いつもいつも上を目指して、お山の大将になることだけを目指している。上(結果・成果)しか見ていないが、実は、私の足元にはおかげでないものはない。その命の死骸の上に、いまの私が生かされているのである。では、その一番の底の底、私の罪業の中おられるのがだれか。それが、仏様。一番、目に見えない縁の下の、ドロドロの業のなかにあって、私を支えて下さっているのだ。
この輪袈裟の紋は、下がり藤。親鸞様が、藤原氏の出身で西本願寺の紋(実は、もっと新しく明治期のようで、いろいろあるようだか、まあ本題じゃないので)。普通、下るのは縁起が悪いのできらわれるが、「下」にも意味がある。
普通、私達は、藤の花をどこでみかけるか。公園などの藤棚。実は、藤は、つるをのばすのに、自分で上に伸びることはできずに、他の木や柱などのおかげで上に伸びていくことができる。だから、野生で、近くに木などがないと、横に、横にしか伸びられず、きれいな花を咲かすことができないという。
だから、他のものおかげで上に上にと伸びることができて藤は、上までたどり着くと、一つ一つの小さな花が連がって、頭を垂れ下がるかように、美しい花房を形造っていく。普通の花は、太陽の方に向かって咲いていくに、まるで、「ここまで伸ばしてくださり、ありがとう」と、頭を垂れるようである。
ちょうど、一つの小さな花が連がって垂れ下がり、美しい花房を形造っている姿は、「南無阿弥陀仏」と、合掌して手を合わせ、口にお念仏を称え、頭を下げて礼拝するうのようである。
しかし、藤の花ならぬ、この私はどうか。「ありがとう」とも感謝しない、頭も下げるのも大きらい。おかげがあるなんておもわず、自分の力で生きていると自惚れ、自分のことしかない。
その私の絶対に会うはずのない両の手が合わさり、念珠をかけさせられ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称え、合掌し礼拝させされていく。これも仏様のおかげでないものは何ひつとない。全部、教えていたたき、いただいたものだ。
だからこそ、「ありがとう」と声にだして伝え、「いただきます」と声に出して手を合わすよすに、合掌したら、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」(仏様、ありがとうざいます)と、声に出して、お念仏申しましょうとお話して、皆さんとお念仏して終わった。
お家によって多少違うが、だいたいこんな趣旨を、かなりくだいたやさしい言葉でお話した。反応は…??
「南無阿弥陀仏」は、決して先祖を慰霊する呪文でも、供養の言葉ではない。
仏様がわたしを呼ぶ声であり、わたしのご恩報謝の念仏になる。
親の呼ぶ声は、子が親を慕う声でせある。そして仏様からいたいだ、私達の「ありがとう」を超えた究極のご恩報謝のお言葉だからこそ、声に出して、称名することに意味がある。
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