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四顚倒

 平日の輪読法座。

  お盆明けの平日とあって、いつもの顔ぶれに、福井から参加があった程度で、かなり少なめ。せっかく、悟朗先生も出席されたが、前半で退席となった。

 誌上法話「自灯明、法灯明」を輪読。

 常、楽、我、常の、迷いの四顚倒について。迷いの私の眼には、諸行は無常であるのを、いつまでも続いて変わりがないと見誤り、本来は、一切皆苦であるものに、楽や楽しみを求めて止まず、本来、諸法は無我であるのを、「我」と執着し、不浄な世界で浄と見誤ってく。まさに、顚倒し、ひっくり返っている迷いの私の姿を、具体的にお話していった。

 でも、その顚倒している「私」、いつまでも続き、しかも確固たる自己があると、我が思いや考え、気持ちを固執し執着し、それを浄だと信じきっている。無常で、無我で、不浄なる世界に、不滅の楽を求めて止まないほど迷いきっている。

 それに対して、仏様の世界は、ほんとうの無常を無常と悟り、苦を苦と悟り、無我を無我と悟り、不浄を不浄と悟られて、真実、無漏の「常、楽、我、常」に生きておられる。その世界から、迷いの四顚倒の私に向かって、ほんとうの浄土を、ほんとうの極楽を与えようとしてくださるである。

 なのに、その顚倒しきっているこの迷いの頭で、真実そのものの阿弥陀様が分かる、自分の都合で理解できる、なぜなら自分こそが正しいと自惚れきっているから、厄介なのだ。その態度で、仏法も聞いていく。それが、迷いであり、顚倒の姿。いつも自分の都合でしか聞けないのが、この私そのものなのである。

 だから、ほんとうの聞法とは、仏様を外側の対象にして、私の腐った頭で、「分かる」とか「納得する」という世間事ではないのだ。

 その顚倒してきっている私、自分自分を、そのままお聞かせに預かるしかない。そこを、如来様の教えによって、ただ教えてもらうしかないのである。

 迷っている、顚倒ししているそのままをお聞かせに預かるのである。

 すると、参加者の中から、今回の題目である「自灯明、法灯明」のところで、「法を依り所と、法に帰依するのは分かるが、そんな迷いきり顚倒しきっている、自らを依り所にするということは、浄土真宗の教えでは、どう味わえばいいのか」という質問がでた。

 まさに、ここが今回のテーマである。

 最初から答えを言わずに、参加の皆さんにも考えてもらった。

 皆さんは、浄土真宗で「自灯明、法灯明」を、どう味わっていますか?

 よく分からないなという方、またはそのことで少し話したいという方は、9月輪読法座に、ぜひ、ご参加ください。

 次回は、9月25日(土)昼1時30分からの予定。

 

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