慰労会と、『生と死の接点』
年に1度、お盆にある真宗カウンセリングの世話会。
世話人会があったり、発送作業をしたりした後で、慰労会を兼ねた会食をしている。年に1度だけ、お会いする人もある。
今年は、会報の発送作業が間に合わず、食事会だけになった。いつもぼくが幹事を務めているが、低予算の、会場を探してくる。だいたいよく利用するお店にするのだが、今年は、イタリアンにした。自力整体の後ではちょくちょく利用し、ランチのパスタはまあまあおいしいが、夜のコースは初めてなので、ちょっと心配だった。
平日なのに、お店は満席で流行っている。予約していたが、2階の掘ゴタツ席は一杯で、1階のテーブル席。アッサジーニ(小皿料理)で、料理の味は悪くなかったし、洒落てはいたが、ちょっと平凡かなーという印象がした。
ところで、同じ世代、よく似た立場のメンバーのひとりが、最近、住職を継承された。そこで、父親の老の現実、病の現実から起こる家族の抱えている話を聞かせてもらった。ウーン、状況は違うが、人ごとと思えなかった。たまたま、父を歯医者に連れていって、そこで河合隼雄の『生と死の接点』を読んでいて、ちょっと触発されていた。
成長し、青年期、壮年期に完成されていくであろう発達心理学的視点では、上り坂の人生の前半の頂点に達するまでの上り坂のライフサイクルが中心である。当然、自我形成の上でも、成熟した壮年男子をモデルにした上り坂型の視点のみが是とされる現代社会では、非効率的、非生産的、無駄の代表である老(または老人)は、痴呆や介護など厄介な代物としての地位しか得られていない。そんな傾向は、新しい変化の烈しい、近代社会では、ますます顕著になっている。もちろん、輝かしい「生」にしても、死、もしくは非科学的である死後の世界も排除され、極力避けられて語られるのだが、実は、その死や死後の世界からの視点を欠くかぎり、「生」の真の意味の豊かさや、本来の意義を見いだすことはできないはずである。
その意味で、人生のライフサイクルにしても、壮年以降の下り坂の、後半ライフサイクルでの、老や、老いた夫婦の有りさま、さらに死(さらには死後の世界も視野にいれた)にどう意味を見いだし、物語っていくのかが、その哲学こそがいま重要になってきている。しかし、近代化の過程で、自然科学の発達した、自我形成に重きを置くことで発達してきた社会では、聖なるものが失われ、全体から繋がりを失した個々が、荒廃として原野にひとり放り出されていている状況で、なかなか家族や夫婦、老いたもの同士の関係に、新たな視点からの意義を見いだすことは、ますます難しくなっている。
たぶん、老いた両親をどう接するのかは、実は単なる介護という福祉の問題だけでなく、自己自身の生・老・病・死をどう受け入れ、人生の後半をどう位置づけていくのかにかかわる問題だろう。「老」苦もわかっている、「病」苦もわかっている、「死」苦もわかっていると、分かった気になっているのも、常に第三人称のそれであっても、両親という身近な第二人称にしても、ましてや、自分自身の第一人称の老・病・死は、何もわかっていないのだ。
まさに、ぼく自身がいま直面していること、そのものだった。
50を前に、後半の人生という視点からみると、いままさに、青年期(思春期)以上の転機、変わり目を向えていると実感するからだ。同時に、これが難しいのは、柔軟に変化が受け入れられなかったり、急激な変化が危機的な状況(本人は無自覚の場合もあろうが)に追い込まれているケースにも、よく接するからだ。
上り坂の視点からではなく、下り坂の視点から、老・病・死を改めて眺めてみたらどうなるか。いまの私達の社会は、それを構築できないままでいるのだろう。
まあ、そんな小難しい話はサラッとしただけで、あとはワイワイ楽しんだ。
人数が半分になったが、もう少し、系列店の静かなバーに移って飲み直した。珍しくバーボンで、ワイルド・ターキー。なぜかスコッチよりも相性がいい。
ここでの話題は、現実的な夫婦の問題へと展開。子育てが終わり、子どもが自立して後での、夫婦二人の世界をプチ疑似体験されたメンバーの体験談。これが、とても面白く聴かせてもらったが、ある意味恐ろしく身につまされた。夫が「もたれこむ」のでもなく、妻が「抱え込み」のでもなく、夫婦は一心同体という共同幻想から覚めしてしまった二人が、どう向き合っていくのか。これも、人生後半の大きなテーマだなー。
夫婦というものは協力し合うことはできても、理解し合うことは難しいのかもしれない。二人で協力して生きている時、生きることの目標や自分の側の努力などは意識されるとしても、本当は相手がどのように感じ、どのように考えているかを意識していないのかもしれない。安易な一心同体的な了解によって、自分の苦しいときは相手も苦しく、自分の楽しいときは相手も楽しいだろうと思ってしまって、相手の感じている苦楽の質、および、自分との間の質的な差などに思い及びことはまずないのではなかろうか。 『生と死の接点』より
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コメント
>上り坂の視点からではなく、下り坂の視点から、老・病・死を改めて眺めてみたらどうなるか。いまの私達の社会は、それを構築できないままでいるのだろう。
身につまされる、濃ゆい話をありがとうございます。
経済の前提が「拡大」なのは、人間の性なんでしょうか?スローライフ的な反動も、ただ一つ言えるのは「世間虚仮」私がコケ。人生の下り坂、クサイものにフタ。そもそも、クサイと認識できてるでしょうか?
先日、父親の一周忌を済ませました。
阿弥陀経、正信げの後に「九十五種世をけがす 唯仏一道清くます」の和讃をいただきました。私がダメだと言ってるんじゃない、阿弥陀さんのダメだを聴かないといかんと思いました。
南無阿弥陀仏
投稿: 樹氷 | 2010年8月26日 (木) 19:29
樹氷さん、暑いね。このネームいいね。涼しげー。
ユングを紹介をされた河合先生の本に触発されて、ぼくなりに要約したものですがね。「たましい」や死後の問題にも、しっかり触れておられて、自然科学的な「ある」「ない」ではなく、「ある」としての視点から眺めたときに、立ち上がってくる世界を語ることの豊かさにも触れておられます。
ここにもありますが、下巻(正像末和讃編)ができました。この和讃の解説もありますよ。またよろしく。
投稿: かりもん | 2010年8月26日 (木) 23:34