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2010年8月の24件の記事

猛暑

 8月も終わりというのに、残暑どころか、猛暑はまだまだきびしい。

 皆さまもお元気で、お変わりございませんか? 

 今日も朝から快晴。最高気温は37度を超えた。

 9月に入っても、この猛暑の勢いは衰えそうにない。週間予報を見たら、36、37、37、36、37…と体温越えの最高気温が並んでいる。最低気温も、26、26、27、27、26…と熱帯夜が続く予想。もううんざりだ。でも、この36度と37度の最高気温、26度と27度の最低気温の、この±1度の違いって、ホントに分かるの? 若干、違うのだろうかなー。

 子どもが、「暑いわー。夏休みにしてほしい…」と、連日、学校に行くのを、かなりグズッている。でも、残念ながら、夏休み終わったばかりなんだなー。1週間たらずで、早くも夏バテというか、残暑バテというか?早く終わりすぎた夏休みが、恨めしそうだ。

 歯の治療に連れて行くので、ほんの少しだけ早めに学校にお迎えにいった。いやいや、子どもたちもたいへんだが、先生も大汗で走り回っておられる。校門をでる時には、汗をを拭いながら歩いている校長先生に会った。

 大人にも、子どもにも、暑さの厳しさは同じ。もしかすると、生徒以上に、先生が、早く終わる夏休みを嘆いてられるんじゃないかなー。

Img_2328 今夜には、父のお見舞いに、名古屋から姉が帰ってきた。忙しい日程での里帰り。思った以上に元気な姿に、安心して様子。

 久しぶりなので、祇園の門構えがちょっと粋なお店で食事したのだが…。うーん、見事に…。このImg_2331あたりになると、場所代がかなり含まれていくるなー。そこは、お見事でして…。

 外にでたら、白河からの夜風も、若干涼しい? 若干だけ涼しいーかなと。気分だけでも涼しく、予想気温の±1度程度の違いの涼しさを感じられたかなと。

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歯医者

 2週間ほど前、歯茎に違和感があって、上桂にある歯医者に行った。

 「疲れで無理がきてるんやろうなー。少し前に無理することあったかなー。ちょっとゆっくりしてね」と、抗生物質ではない薬をもらって、いったんは収まっていた。

Img_2318 ところが、高山に行ったころから、また調子が悪くなった。膿が溜まっているのか、ボッコリと腫れてきたのだ。さいわいなことに、痛みはないが、かなり違和感はある。月曜日に、もう一度、歯医者に行くことにした。

 たまたま、数日前から、顔が腫れていた父と一緒に、歯医者通いだ。

 医者はひとりだが、なぜか4台の古ぼけた診療椅子が並んでいるので、隣で寝ながら待っている。

父「数日前ら歯茎が腫れて、実は、昨晩が山でして…」

先生:「ああ、本当や、腫れてるなー。疲れてられるのかなー。何か無理がありましたか」

父:「いいえ、まあ。昨日のほうが痛くて、山でして…」

先生:「山? ああ、そうか。こんな暑いときに、山に登ったら疲れるわー」

父:「いえいえ、その山じゃなくして、昨夜が、山場で、あのいまはもう峠を越しまして…」

先生:「そうか。峠越えをしてきたら、疲れるわなー」

 まあ、そんな掛け合いの冗談を聞きながら、親子で歯茎を切開して、膿を出してもらった。「親子同時に、同じ治療するなんてなー」と、先生も笑っておられる。

 二人とも、よほど悪業を溜まっているのか、切開して膿を出してもらわねばならない。すっきりしたが、もうしばらく通院が必要。

 車で往復し40分強。道は混むことがあるが、病院はいつも空いているので、待ち時間はない。治療は5分もかからないが、あとの世間話に5分以上はかかる。ぼくが行くと、だいたい子どもの話。今日は、なぜ夏休みが短くなったのか、教室にクーラーが入ったら、勉強できるようになるはずなのにと、ご夫婦で教育の現状を嘆いておられた。

 時には、最後の世間話の方が、長い患者さんもあって、この前は、夫婦で社交ダンスをしているという話が延々と続き、「そんな遊ぶ金があるのなら、ここに置いていってくれ」と先生が言い終わるまで、口を開けながら待っていた。人の治療中でも、面白い話になると、先生も加わることがあるからだ。

 BGMは、いつも快調に演歌が流れている。八代亜希になると、ボリュームがあがる。

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いきなり

 8月も残り1週間をきった。子ども時代なら、夏休みの宿題に焦りだすころだ。

 でも、8月31日までが夏休みなのは、昔の話。

 今日から、子どもたちは、小学校が始まっている。しかも、初日は「始業式」で、1~2時間でお終いというわけにはいかない。2学期制(10月が新学期)なので、初日から普通に授業も始まる。初日すぐ終わり、開始して1週間も、短縮授業と称して昼間まで、そんな言葉の響きも、悠長なゆとりも、昔のことになった。

 真っ赤な顔で大汗をかきながら、1年生の子どもが帰宅したのは、3時すぎだ。最初は、全校で掃除の時間があって、ギラギラの太陽の中での草むしり。「長袖、長ズボン、軍手して、しかも靴下履いてなんて、信じられんわー」と、こぼしていた。といっても、行事だけでなく、しっかり「国語、算数…」の6時間授業。当然、初日から給食があるのだ。

 ちなみに、今週の月曜日から、自主参加ながら、学校は始まっている。宿題がまだの子も、そこで指導もしてもらえるというのだ。え、宿題って、夏休みの間に、自宅でやるものだったのに、宿題のために、8月20日に、小学校が開いているなんてなー。それに、学校でやって、なんのための宿題なんだろうか。残り数日をきった時の、独特の焦燥感も、そして親子一如になって行なう、あの親子の絆も味わえないのは寂しい。

 なんとか二人とも宿題は終わっているのだが、昨夜は、夏休みの終わりを嘆き、朝は朝で、上の子などは、この世の終わりぐらいに半泣きになって、学校にいったそうだ。

 もっとも、いまは、教室にもクーラーが完備されている。

 昔は、余りの暑さに授業にもならなかったなー。みんな、下敷きで扇いでいたが、それを叱る先生も、とても暑そうだった。そんな時代が、妙に懐かしい。

 宿題を見てもらえても、クーラーが完備されていても、このクソ暑い中で、助走もなくて、いきなりエンジン全開を強いられる子どもたちは、確かにかわいそうだなー。

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城崎にて

 朝から、JRに乗って城崎へ。

 9月の聞法旅行の下見と、それに合わせて企画してくださった日高支部での法話会である。

 まだ免許取得前は、JRでお邪魔していた。大学生になったばかりで、30年も前のことで、まだ「白兎」という急行が走っていた時代だ。江原駅につくと、故谷本滝雄氏が、自転車でお迎えに来てくれていた。駅から、お宅までは近い。

Img_2315 複線化の区間も増えて、時間はかなり短縮されている。京都駅の31番線から出ている「はしだて」に乗って福知山まで。そこで、新大阪から来る「北近畿」に連絡している。車両は、かなり古い。終点の「城崎温泉」駅まで。だいたい2時30分程度かかる。車窓からは福知山城が見える。

 車中では、原稿の手直しと、河合隼雄の『ユング心理学と仏教』が、Img_2306かなり読めた。このところ、岩波現代文庫から「心理療法コレクション」として6冊文庫化されたシリーズを楽しんで読んでいる。あいからわず、仏教関係の専門書は読まない。

 ちなみに、帰路は、江原駅から乗車した。京都まで直通する「きのさき」という特急列車。途中で、舞鶴からの特急と連結したりすImg_2308るので、2時間15分ほどかかった。城崎からだと、直通も乗換もほとんど差はない。

 城崎温泉駅に到着。出口は一カ所。ここが送迎バスの待ち合わせ場所になる。Img_2307

 すぐ温泉街で、駅前も城崎の風情がある。

 観光名所も多いので、時間が許せばもう1泊して、城崎めぐりをするのもお勧めだ。

 支部長のRさんが仕事のやりくりをしてお迎えにくださった。
 会場の民宿「よしおか」までは、駅から3キロほど。車なら5、6分程度だ。すぐ近くのRさんの知り合いのお店で、ナンのついてカレーを食べたが、なかなかおいしかった。なんでも、Img_2309マスターの義姉がスリランカ人で、その直伝だそうだ。ちなみに、法座が終わって帰宅したら、わが家の夕食もカレーだった。まあ気が合うのか、合わないのか。わが家は、子どもたちが作った野菜カレーで、肉の代わりに麸が入っている。しばらくカレー三昧が続く。

 聞法旅行の会場は、民宿だがそれなりに広い。全館貸し切り状態で、好意的にお迎えくださる。料理も楽しみだ。座談会も、別の部屋を使わせてもらえる。温泉だが、大浴場がすこし狭目なのと、Img_2310時間の制約があるが、2日目は城崎の外湯めぐりをするので、それほど問題はない。それでも現地にいって、問題がいくつか分かった。宿泊は相当数が受け入れられるが、問題は、宴会会場である。60名以上で、舞台を明けると、お膳がならばないというのである。広間は3つあるのだが、一番大きなところで、48帖だそうだ。まあ、少々狭くても、肩を寄せ合って食べるのも悪くないかもしれない。
 あとは、日高支部での法座会場などで、いくつかのと変更点も起こって来たり、連休中で、すく近くの城崎マリーンワールドに向かう車で、混雑するとの予想があったりで、このあたりは不確定な要素もある。Img_2311_2

 講師室からは、気比の浜が見えていた。歩いても、5分ほどなので、朝晩の散策もいいだろう。

 準備や打ち合わせは、これからだ。

 すぐに日高支部の家庭法座の会場に向かう。円山川に沿って、40分弱。

 平日の昼間で、参加者を心配したが、10名の参加があった。お仕事でこられない方もあったようだ。

Img_2312 「先生、これかポッポちゃんですよ」と、ある方が写真を指された。
 前号の華光誌の日曜学校の同窓会の記事(69-3号の34頁)に、姉が書いていた。「生まれつきからだが弱く、もうすぐ死ぬので、早くご縁に遇わせてもらったのだよ」という言葉が、子ども心に突き刺さったとあった記事だ。
 幼くしてお念仏と共に亡くなっていた御方である。もちろん、ぼくはまったく知らないが、この方もまた、連続無窮のお働きによって、私を導いて下さった知識である。

 ここは、前の善知識の生が亡くなり、悟朗先生とのご縁ができて、すでに55年以上の歳月がながれている。まだ華光会館が完成する前のことだ。老、病、死の現実に、なかなか京都にもお参りできない状況になっておられる。さいわい、父も元気を取り戻し、今回の聞法旅行を楽しみにしている。母が、ここを訪れるのも何十年ぶりだろうか。日高(旧江原)での法座の集大成になると思うと、楽しみであると同時に身も引き締まる思いがする。たぶん、一期一会になるかもしれないし、今生での最後の出会いとなる人達と、お念仏と過ごす3日間である。

 〆切を過ぎたが、まだ8月末日ぐらいまで受け付けられる。どうそ、奮ってご参加いただいて、日高の古老たちの生きたお念仏に触れていただきたい。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/09/monpou2010-9.htm

 

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慰労会と、『生と死の接点』

 年に1度、お盆にある真宗カウンセリングの世話会。

 世話人会があったり、発送作業をしたりした後で、慰労会を兼ねた会食をしている。年に1度だけ、お会いする人もある。

 今年は、会報の発送作業が間に合わず、食事会だけになった。いImg_2286つもぼくが幹事を務めているが、低予算の、会場を探してくる。だいたいよく利用するお店にするのだが、今年は、イタリアンにした。自力整体の後ではちょくちょく利用し、ランチのパスタはまあまあおいしいが、夜のコースは初めてなので、ちょっと心配だった。
平日なのに、お店は満席で流行っている。予約していたが、2階の掘ゴタツ席は一杯で、1階のテーブル席。アッサジーニ(小皿料理)で、料理の味は悪くなかったし、洒落てはいたが、ちょっと平凡かなーという印象がした。

  ところで、同じ世代、よく似た立場のメンバーのひとりが、最近、住職を継承された。そこで、父親の老の現実、病の現実から起こる家族の抱えている話を聞かせてもらった。ウーン、状況は違うが、人ごとと思えなかった。たまたま、父を歯医者に連れていって、そこで河合隼雄の『生と死の接点』を読んでいて、ちょっと触発されていた。

 成長し、青年期、壮年期に完成されていくであろう発達心理学的視点では、上り坂の人生の前半の頂点に達するまでの上り坂のライフサイクルが中心である。当然、自我形成の上でも、成熟した壮年男子をモデルにした上り坂型の視点のみが是とされる現代社会では、非効率的、非生産的、無駄の代表である老(または老人)は、痴呆や介護など厄介な代物としての地位しか得られていない。そんな傾向は、新しい変化の烈しい、近代社会では、ますます顕著になっている。もちろん、輝かしい「生」にしても、死、もしくは非科学的である死後の世界も排除され、極力避けられて語られるのだが、実は、その死や死後の世界からの視点を欠くかぎり、「生」の真の意味の豊かさや、本来の意義を見いだすことはできないはずである。

 その意味で、人生のライフサイクルにしても、壮年以降の下り坂の、後半ライフサイクルでの、老や、老いた夫婦の有りさま、さらに死(さらには死後の世界も視野にいれた)にどう意味を見いだし、物語っていくのかが、その哲学こそがいま重要になってきている。しかし、近代化の過程で、自然科学の発達した、自我形成に重きを置くことで発達してきた社会では、聖なるものが失われ、全体から繋がりを失した個々が、荒廃として原野にひとり放り出されていている状況で、なかなか家族や夫婦、老いたもの同士の関係に、新たな視点からの意義を見いだすことは、ますます難しくなっている。

 たぶん、老いた両親をどう接するのかは、実は単なる介護という福祉の問題だけでなく、自己自身の生・老・病・死をどう受け入れ、人生の後半をどう位置づけていくのかにかかわる問題だろう。「老」苦もわかっている、「病」苦もわかっている、「死」苦もわかっていると、分かった気になっているのも、常に第三人称のそれであっても、両親という身近な第二人称にしても、ましてや、自分自身の第一人称の老・病・死は、何もわかっていないのだ。

 まさに、ぼく自身がいま直面していること、そのものだった。

  50を前に、後半の人生という視点からみると、いままさに、青年期(思春期)以上の転機、変わり目を向えていると実感するからだ。同時に、これが難しいのは、柔軟に変化が受け入れられなかったり、急激な変化が危機的な状況(本人は無自覚の場合もあろうが)に追い込まれているケースにも、よく接するからだ。

  上り坂の視点からではなく、下り坂の視点から、老・病・死を改めて眺めてみたらどうなるか。いまの私達の社会は、それを構築できないままでいるのだろう。

 まあ、そんな小難しい話はサラッとしただけで、あとはワイワイ楽しんだ。

Img_2290 人数が半分になったが、もう少し、系列店の静かなバーに移って飲み直した。珍しくバーボンで、ワイルド・ターキー。なぜかスコッチよりも相性がいい。
 ここでの話題は、現実的な夫婦の問題へと展開。子育てが終わり、子どもが自立して後での、夫婦二人の世界をプチ疑似体験されたメンバーの体験談。これが、とても面白く聴かせてもらったが、ある意味恐ろしく身につまされた。夫が「もたれこむ」のでもなく、妻が「抱え込み」のでもなく、夫婦は一心同体という共同幻想から覚めしてしまった二人が、どう向き合っていくのか。これも、人生後半の大きなテーマだなー。

 夫婦というものは協力し合うことはできても、理解し合うことは難しいのかもしれない。二人で協力して生きている時、生きることの目標や自分の側の努力などは意識されるとしても、本当は相手がどのように感じ、どのように考えているかを意識していないのかもしれない。安易な一心同体的な了解によって、自分の苦しいときは相手も苦しく、自分の楽しいときは相手も楽しいだろうと思ってしまって、相手の感じている苦楽の質、および、自分との間の質的な差などに思い及びことはまずないのではなかろうか。  『生と死の接点』より

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『三帖和讃』講讃(下巻)ついに完成!

Img_22854月から始まった編集作業。8月に入っても、まだヒイヒイいいながら続いた『三帖和讃』講讃(下巻)だか、ついに完成した!

 上巻は、『浄土和讃』118首、『高僧和讃』119首の合計237首で、1冊(303頁)だったが、下巻は、『正像末和讃』116首+自然法爾章の解説と讃歌のみで、1冊である。和讃の数だけでみれば、上巻に2/3、下巻は1/3に収まっているが、後半になればなるほど、詳細になってきたからである。さすがに頁数は60頁ほど減っているので、価格も、2100円(消費税込)と、少し安くなって、この手の書籍にしてはかなりのお値打ちだと思っている。

 2冊で、親鸞様の三帖和讃、全353首、すべての位置づけと、解説、現代語訳がなされているのである。

 白馬社の社長さんとも、「ほんとうにお疲れさまでした。やっとですねー」と、しみじみと、お互いの労をねぎらいあいながら、パラパラとめくっていたら、最終校正で訂正し、訂正された校正もFAXで確認したにもかかわらず、なぜか、校正前のものが印刷されている頁があって、おもわず、「エッー!」となった。当然、もう完成しているので、いまさら仕方がない。もし、そのミスまで気がついてくださる方があれば、かなり丁寧に精読くださった証なので、逆にうれしいかもしれないと、気を取り直して、とりあえずは、正誤表を入れることで、対応することになImg_2284った。

 これは、聖典解説の本なので、一般向けではないし、また学術的な専門書というわけでもなくて、父の和讃に対する味わい、ご法の喜びか滲み出る講讃であるのが、本書の特色だ。しかも、親鸞様が、和讃が完成された年齢(一応86歳)近い、85歳になって父の本が出版されたこととあわせても、感激は一入である。

 ただ上巻もかなり在庫が残っている。実は、在庫を抱えることが心配で、売れ行きが気になる。第一、来年以降だが、次ぎの計画も2、3あって、今回の出来が影響を及ぼすからだ。内容が内容だけに、万人向けではないが、それでも、関心のある方には広く読んでいただきたい。その意味で、タイトルに、「親鸞」の文字をつけたほうがよかったなーとも、後で考えたていた。

 もっとも、下巻の原資は、同人の中でもっともお若いであろう女性の、まさに貧者の一灯が陰の力となって実現している。こんなうれしいご喜捨はなかったのである。その篤い思いに支えられ、大きな力をいただくのだから、こんなたのもしいことはない。

 仏教書店や、アマゾンでは、9月に入ってからの流通になるようだ。

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高山へ~スジャータアイスと鉄板焼き豆腐編~

Img_2264 5月まで予定のなかった高山支部法座へ。

 もともと父の予定だったのを、日程を変更してもらいImg_2269、ご縁が整って実現した。

 猛暑の中での高山行き。飛騨高山は、夏も涼しい高地にあるので、依所となるお宅にも、クーラーはない。でも、年々暑くなっているそうで、日中、日差しが当たれば、厳しい暑さに変わりはない。

 車窓は、飛水峡。風向明媚なのはいいが、ワイドビューの広い窓が直Img_4931日光にさらされて、けっこう暑かった。車内で、おもわずアイスクリームを購入。スジャータの製品だが、「濃厚な味だ」と、わざわざ車内放送で紹介される高山線の名物だ。Img_4920

 この製品の名前は、苦行を捨て、ネーランジャー川(尼連禅河)で沐浴をされていた釈尊に、乳粥の供養をしたスジャータに由来していることは、有名な話。なんでも、社長がお寺の日曜学校での聞いたご法話からネーミングしたそうだとか。
Img_4889 それにしても、現地のスジャータ像はおもしろかった。悪路をジープーで向かった、彼女の出身の村にも、こんな像がある。コンクリトー製で、尊い聖地にふさわしくない、このキッチュ感がたまらい。このありたりの村は、電気も水道もない。脱穀も、手作業で叩きつけるもので、釈尊当時が偲ばれる風景だった。

 法座前の食事は、F家の近くにある、国八Img_2275食堂へ。観光客やライダーにも有名なお店。久しぶりだったか、夏に入るのは初めて。いつも12月と3月の冬季の寒い高山しか知らないからだ。なかなか人気店で満席で、外では人待ちの列も。
 グツグツと熱い鉄板料理を、熱風が渦巻く部屋で食べる。扇風機が回っているが、熱風が回るだけで、ここにもクーラーはなかった。うまいImg_2270が、プチ灼熱地獄で、随分、ノドが乾いた。ちなみに、鉄板焼き豆腐定食(写真は3人前)は、ゴハン、みそ汁つきで、630円也と、かなりリーズナブル。これにホルモンと、イカ焼きを追加して御馳走になった。Img_2273

 外にでると、涼しくて、みんなほっと一息。

 川と山に挟まれているので、夕方になると風も涼しくなっていた。随分、京都とはちがう。

 さて、法座は、夜の座から始まる。

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白浜への家族旅行(2)~アドベンチャー・ワールド編

Img_2104 2日目は、アドベンチャー・ワールドへ。

 お盆を過ぎた平日とはいえ、夏休み。それなりに混雑していたが、ここは広い。人込みはそれほどImg_2136気にはならなかったが、こたえるのは暑さ。なるべく涼しいところへと足は向きがちだが、子どもたちは、元気で外で遊びたい模様。

 とてもよく出来てきた(騙された)アシカのショーや、よく訓練されたImg_2177イルカのショーを見た。でも、例の『コーブ』を観た後だったので、この手のショーを見るのも、ちょっと複雑な気分もしなくてもなかったが、まあ、だいたいは感心していたなー。 

  エサをやったり、抱いたりと、動物に触れImg_2155合えることが多いが、ゾウにも乗ることもできた。でも、1人2000円! 小さな庭をグルーッと回るだけで、インドの20倍だった。さすがにパスした。 

 冷暖房が完備された部屋で、パンダが弛緩しきって寝ていた。

Img_2114 連れ合いが、「動物園の動物は、幸せなんだろうかな」と、ポツリ。本能的な生存欲求のうち、外敵や飢餓の心配はまったくなく、その点では安全な生活は保証されている…。一方で、狭い空間、騒音などは、相当なストレスがあるようだ。人間の目から見れば、檻に囲われて自由がなImg_2234いということになるのだが、第一、幸せや自由ということ自体が、人間の物差しにほかならないのだから、この問い自体が意味をもたないな。ならば、野生動物が幸せImg_2160なんていうこともない。畜生は、三悪道の一つで、愚痴(おろかさ)の無漸無愧の世界なのだから…。
 むしろ、これらの動物(畜生)と、自分とはどこが、どう違うのか。「違う」と、勝手に自惚れてみても、食って、寝て、休んで、働かされて…、もし真実も求めず、無漸無愧に生きるだけなら、何も違いはないじゃないかなーと。形は変わっても、その実態は、自分の姿そのものでもあるもの。

Img_2242 まあ、そんなことも一瞬は考えながら、ショーをみたり、子どもたちと遊園地で遊び、買い物をし、あとは、食って、飲んで、歩いて疲れるのだった。それでも、夕方Img_2244になって、ちょっと涼しくなってから、サファリー・パークへ。

 影が出来てきて、動物たちも多少活動的だった。

 おお、熊を発見。しっかりと撮影。こんな牙や爪に襲われたら、たまImg_2223ったもんじゃないーと、別のことで、野生動物のたくましさに感心した。

 大人は疲れたけれど、子どもたちは暑さにもめげずに楽しそうで、帰りに、白浜温泉で汗を流してから、深夜に帰宅。

 1泊2日のとても短い夏休みは、こうして終了。 

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白浜への家族旅行(1)

 夏の恒例の家族旅行。

 少し前までは、かなり豪華に沖縄(八重山)旅行だったが、連れ合いが大学院に行きだしてからは、近郊の2泊3日の海水浴に格下げ。それが、今年は、得度もあり、二人もと忙しかったこともあって、1泊2日の緊縮財政版。せめて、大人の都合ではなく、子どもを中心にということで、昨秋に楽しく、さらに高速が延べて便利になっ南紀白浜へ。海水浴とアドベンチャー・ワールドで楽しむことなった。

 ちょうどお盆を過ぎた平日だったので、宿泊料金も緊縮のホテルにした。だから、白浜ではなく、少し手前の南紀田辺に。第二京阪が門真まで伸びて近畿道と繋がったので、会館からすぐの上鳥羽ICから阪神高速を利用すると、ずっと高速で進める。渋滞もなくて、正味2時10分で到着した。母の実家の和歌山下津までなら、1時15分程度だ。子どものころは、奈良五条経由で、4時間以上かけて帰省していたのが、嘘のよう。びっくりするほど便利になったその恩恵を受けているのだが、便利の裏にある、開発や環境破壊には、どこかで後ろめImg_2017たさも多少はあるが、高速料金はそれなりにかかった。

 さっそく海へ。白浜は混んでいそうなので、ホテルからすぐの南紀田辺の扇ケ浜で泳ぐことに決めていた。Img_1995

 これが、思わぬ拾い物で、満足。施設もまだ新しいし、浜も空いていた。何よりも、施設料がほとんどかかならない。駐車代も、最初の1時間は無料。あとも1時間ごとに100円と、自転車並だ。しかも脱衣場のコインロッカーも、シャワーも、空気ポンプもすべて無料と、いまちょっとないサイフにやさしい海水浴Img_2010_2場だった。監視員が、ボートの空気抜きを手伝ってくれたし、盗難防止のために、コインロッカーの鍵まで預かってくれた。「この浜で不足しているところ、不満なところはどこですか」などと、アンケートもあって、なかなか意欲的だったので、単に 安いだけでなく、気分もよかった。

 知らぬ間に、二人も泳げるようになっていた。去年まで怖がっていた下の子も、顔をつけてバタアシで少し泳ぐ真似事だが、それでも、誇らしげだ。

Img_2048 岩場付近を少しシューノケリングすると、かなり魚が見れて、こちられも満足。かなり大きな魚もいた。囲われているイルカを見たり、イルカにタッチすることもできるので、子どもたちも喜んでいた。 Img_2061

 それにしてもお盆を過ぎたというのに、このうだるような暑さ。まさに海水浴日和だったので、かき氷がやたらにおいしかった。

 駐車代を300円だけ払って、白浜へドライブ。白良浜の水泳場はすごい込み具合で、最寄りのImg_2075駐車場は、2000円だったので、これは大正解。

 円月島や千畳敷は奇抜な風景で、また海も美しかった。上の子は、もが自由研究の課題にするそImg_2091うで、スケッチをしていた。

 お宿の方は、やはりそれなりにだったし、少しトラブルにもまきこまれたが、まあ、値段の割には健闘しているのじゃないかなー。

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四顚倒

 平日の輪読法座。

  お盆明けの平日とあって、いつもの顔ぶれに、福井から参加があった程度で、かなり少なめ。せっかく、悟朗先生も出席されたが、前半で退席となった。

 誌上法話「自灯明、法灯明」を輪読。

 常、楽、我、常の、迷いの四顚倒について。迷いの私の眼には、諸行は無常であるのを、いつまでも続いて変わりがないと見誤り、本来は、一切皆苦であるものに、楽や楽しみを求めて止まず、本来、諸法は無我であるのを、「我」と執着し、不浄な世界で浄と見誤ってく。まさに、顚倒し、ひっくり返っている迷いの私の姿を、具体的にお話していった。

 でも、その顚倒している「私」、いつまでも続き、しかも確固たる自己があると、我が思いや考え、気持ちを固執し執着し、それを浄だと信じきっている。無常で、無我で、不浄なる世界に、不滅の楽を求めて止まないほど迷いきっている。

 それに対して、仏様の世界は、ほんとうの無常を無常と悟り、苦を苦と悟り、無我を無我と悟り、不浄を不浄と悟られて、真実、無漏の「常、楽、我、常」に生きておられる。その世界から、迷いの四顚倒の私に向かって、ほんとうの浄土を、ほんとうの極楽を与えようとしてくださるである。

 なのに、その顚倒しきっているこの迷いの頭で、真実そのものの阿弥陀様が分かる、自分の都合で理解できる、なぜなら自分こそが正しいと自惚れきっているから、厄介なのだ。その態度で、仏法も聞いていく。それが、迷いであり、顚倒の姿。いつも自分の都合でしか聞けないのが、この私そのものなのである。

 だから、ほんとうの聞法とは、仏様を外側の対象にして、私の腐った頭で、「分かる」とか「納得する」という世間事ではないのだ。

 その顚倒してきっている私、自分自分を、そのままお聞かせに預かるしかない。そこを、如来様の教えによって、ただ教えてもらうしかないのである。

 迷っている、顚倒ししているそのままをお聞かせに預かるのである。

 すると、参加者の中から、今回の題目である「自灯明、法灯明」のところで、「法を依り所と、法に帰依するのは分かるが、そんな迷いきり顚倒しきっている、自らを依り所にするということは、浄土真宗の教えでは、どう味わえばいいのか」という質問がでた。

 まさに、ここが今回のテーマである。

 最初から答えを言わずに、参加の皆さんにも考えてもらった。

 皆さんは、浄土真宗で「自灯明、法灯明」を、どう味わっていますか?

 よく分からないなという方、またはそのことで少し話したいという方は、9月輪読法座に、ぜひ、ご参加ください。

 次回は、9月25日(土)昼1時30分からの予定。

 

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お盆

Img_1978 今日は、わが家の盂蘭盆会(うらぼんえ)。といっても行事案内にはなく、いつも家中で勤行し、そこに檀家さんが1家族だけお参りされる。昨年までは、子ども大会にも参加していたお孫さんも一緒だったが、今年はおひとりだけ。この方も、熱心な同人だったお母さんの勧めで、子どもの時に大会に参加されていたので、娘-孫と三代に渡っての子ども大会となった。

 お盆といっても、別に里帰りするわけでも、お墓参り(墓はない)に行くわけでもなく、お盆参りを終えてたら、家族で勤行するのだ。今年は、得度を終えたばかりのゆうこが、初めて法衣姿で出勤した。

 暑い中、父が、調声(ちょうしょう)をし、さらに40分ほどご法話もした。1週間前には、京都の同人宅での家庭法座で、勤行、ご法話をし、さらに懇親会にも残ったようで、かなり元気になっている。この調子なら、9月の日高支部への聞法旅行や、大阪支部法座なら、出席できそうだ。

 たまたま遊びに来ていたたカンロの友達も、一緒にご聴聞。阿弥陀経の勤行と、子ども向けとはいえ、難しいご法話を、1時間以上もつきあってくれた。

 16日の夜は、京都五山の送り火だ。以前は、屋上からは、「妙法」以外、大文字、左大文字、船形、鳥居形と見えていたが、隣の建物ができ、周りにもビルが立て込んできて、ドンドン見えずらくなっている。今年は、よく見えたのは、左大文字だけで、かろうじて鳥居形が見えた。一番、よく見えた船形はだめ。一応、写真を写したが、うまく取れなかった。

 じっくり味わうのには、京都テレビの完全生中継を見ればいいという人もあるが(確かに)、小さくても実物を味わいたい。ただ、新会館が完成時には、仏青や、京都支部でも、大文字を眺めながらの食事会を持ったことを思うと、ちょっと寂しくなったきた。

 それにしても、お盆を過ぎたというのに、日中の残暑は厳しすぎる。ただ、夜には多少はImg_1967、しのぎやすくなっている。今夜も屋上の夜風が、気持ちいい。ただ、風が強すぎて、子どもたちが楽しみにしていた花火は、準備をしたがちょっと無理だった。

 お盆参りで頂いた、大きなスイカを食べた。Img_1971子どもが二人でやっともてるほどの大きさだが、、甘くておいしかった。お盆参りでも、法要のお供えとしてお菓子の類を頂戴するが、中には、毎年、ワインを用意しくださったり、今年は、子ども用にかわいいハンカチをくださるお宅もあった。ほんとうに有り難い。

 ごちそうさまでした。

 

 

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下がり藤

  今日も、朝からお盆参り。すべて宇治方面のお宅。

 24号線を南へ。御香宮前を通り、大手筋(伏見桃山城の正面通り)を通って、大木が涼しげな明治天皇陵の道を横切って、宇治方面に向かう。次ぎの場所へ移動は、平等院の横を通り、宇治橋を渡って、三室戸寺から黄檗山万福寺へ。さらに、法界寺や日野の誕生院の近くのお家へ。宇治の名所旧跡のオンパレードだけど、今日はどこにも寄らなかった。

 駐車をして、法衣姿で道を歩いていたら、小さな子どもが、振り向きながらいった。

 「あ、お地蔵様だ」

 「お地蔵様じゃないよ、お坊さんだよ」と、お母さん。

 もしかすると、いい間違いではなく、地蔵盆(お地蔵さん)の時だけ、お坊さんを見るのかもしれない。

 ある家では、お盆で息子夫妻が帰省中で、3歳のお子さんが、興味津々、勤行に座ってくれた。 「この子にとっては、お坊さんという職業の方に接する初めてだと思います」と、お嫁さん。まあ、職業には違いはない。

 ハイ、はじめまして。

  お盆でも、一緒に阿弥陀経をお勤めして、15分~20分程度のご法話と、少しだけ近況をお聞きしたりする。同人宅を除いて、いまだに法話の座談にまでは至らない…。子ども大会のテーマの「感謝」に合わて、なるべくわかりやすい話につとめた。

 「感謝」の謝は、あやまるとも読むが、言編。ただ感じる(こころ)だけでなく、それを口に出して伝えることである。一般の感謝の言葉にはなにかといえば、「ありがとう」だろう。

 いまは何でもあるのが当たり前の時代。水も、空気も、電気も、食べ物も、食事のお世話も、服も、自分の命や健康も、有って「当たり前」だ。

 正月に起こった会館の水道ボンプの話題。目には見えないところで、さまざまなご苦労、おかげがあり、私のところに一杯の水が届く。少しでも、どこかで不具合がおこっただけで、止まってしまうのだ。でも、その当日は、「有り難い」と思ったけどれ、普通に出るようになると、すぐに「当たり前」になって、感謝の「か」の字もない。

 でも、何一つとして当たり前のこはない。わたしの知らない、目に見えないところに、深い深いご恩徳ある。だから、どんなことも、すべてが「有り難い」、有ることが難(かた)い、ご恩でないものは一つとしてない。しかし、この自分中心の私の心には、自分に好都合だったり、自分の欲望が叶えられることにしか、感謝できない。

 日常で場面でもよくあることだが、大好きなおかずなら「ごちそう」と大喜ぶする。逆に、大嫌いなものなら、不満や不平で、母親にあたったりもある。でも、食べものはもともとすべて命。好きなものも、嫌いなものも、同じ命をいただき、無数の皆様のおかげやご苦労があるのだが、結局、自分の都合でしか考えることができない。

 そして、私は、いつもいつも上を目指して、お山の大将になることだけを目指している。上(結果・成果)しか見ていないが、実は、私の足元にはおかげでないものはない。その命の死骸の上に、いまの私が生かされているのである。では、その一番の底の底、私の罪業の中おられるのがだれか。それが、仏様。一番、目に見えない縁の下の、ドロドロの業のなかにあって、私を支えて下さっているのだ。

 この輪袈裟の紋は、下がり藤。親鸞様が、藤原氏の出身で西本願寺の紋(実は、もっと新しく明治期のようで、いろいろあるようだか、まあ本題じゃないので)。普通、下るのは縁起が悪いのできらわれるが、「下」にも意味がある。

 普通、私達は、藤の花をどこでみかけるか。公園などの藤棚。実は、藤は、つるをのばすのに、自分で上に伸びることはできずに、他の木や柱などのおかげで上に伸びていくことができる。だから、野生で、近くに木などがないと、横に、横にしか伸びられず、きれいな花を咲かすことができないという。

 だから、他のものおかげで上に上にと伸びることができて藤は、上までたどり着くと、一つ一つの小さな花が連がって、頭を垂れ下がるかように、美しい花房を形造っていく。普通の花は、太陽の方に向かって咲いていくに、まるで、「ここまで伸ばしてくださり、ありがとう」と、頭を垂れるようである。

 ちょうど、一つの小さな花が連がって垂れ下がり、美しい花房を形造っている姿は、「南無阿弥陀仏」と、合掌して手を合わせ、口にお念仏を称え、頭を下げて礼拝するうのようである。

 しかし、藤の花ならぬ、この私はどうか。「ありがとう」とも感謝しない、頭も下げるのも大きらい。おかげがあるなんておもわず、自分の力で生きていると自惚れ、自分のことしかない。

 その私の絶対に会うはずのない両の手が合わさり、念珠をかけさせられ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称え、合掌し礼拝させされていく。これも仏様のおかげでないものは何ひつとない。全部、教えていたたき、いただいたものだ。

 だからこそ、「ありがとう」と声にだして伝え、「いただきます」と声に出して手を合わすよすに、合掌したら、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」(仏様、ありがとうざいます)と、声に出して、お念仏申しましょうとお話して、皆さんとお念仏して終わった。

 お家によって多少違うが、だいたいこんな趣旨を、かなりくだいたやさしい言葉でお話した。反応は…??

 「南無阿弥陀仏」は、決して先祖を慰霊する呪文でも、供養の言葉ではない。

 仏様がわたしを呼ぶ声であり、わたしのご恩報謝の念仏になる。

 親の呼ぶ声は、子が親を慕う声でせある。そして仏様からいたいだ、私達の「ありがとう」を超えた究極のご恩報謝のお言葉だからこそ、声に出して、称名することに意味がある。

 

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盆参りと、北山別院と、ルース・ヨンカーと。

 週末は、お盆参り。軒数は少ないが、京都の南から北へ移動する。

  午前中は、伏見の向島、上鳥羽と、近鉄電車で回った。午後からは、岩倉と一乗寺へと、こちらは車で移動。お盆のころは、京都市内の道路は、それほどの渋滞はない。でも、今年は、土曜、日曜に重なったために、中心部の幹線道路は軒並み混んでいた。細い道を通ると空いている。お墓参りや観光客の車も多いのだろう。岩倉までは、会館からでも50分はかかる。

 若いご主人が、ぼくの横で、ぼくより大声で阿弥陀経をあげ、お念仏してくださる。ちょくちょく間違われるし、時間もかかるが、それで一緒に勤行してくださるのが、なにより有り難い。もちろん、ご法話の問いにも、熱心に答えてくださる。

 帰路は、宮本武蔵の決闘の場である一乗寺下がり松の一乗寺経由。白川通Img_1951_2りを走っていると、北山別院の案内板があった。一昨日は、西山別院を参詣したので、ちょっと寄り道。白川通りを東に200Mほどあがって、北山別院に立ち寄る。近くには詩仙堂もある。

 初めてお参りするが、若き日の親鸞聖人が、比叡山から六角堂に百日間の参籠を行ったとき、雲母坂の行き帰りに身を清め、喉を潤したといわれる井戸である「御聖水(ごせいすい)」と、その横には、聖徳太子影向石もある、ご旧跡地だ。もちろん、このImg_19602あたりは伝承の域をでないのだろうが、それでも往時を偲ぶことができる。

 ただ、残念なことに、最近ここが有名になったのは、架空墓地問題で、宗派を大きく揺るがしかねないスキャンダルが持ち上がったからだ。結局、臭いものにはフタがされたのか、せっかくの「聖水」の地も、汚れた聖地となってしまったのか。

Img_1954 性格は違うが、覚如上人の墓前に展開する西山別院の墓地問題でも、別院、宗派と業者の間で、長年にわたる係争が起こっている。いづれも、墓地が絡んで、まったく浄土真宗の信仰や、ご信心とは無関係な、100%世俗の争いのようだ。

 事実関係はともかく、このゴタゴタが続くのを見ても、末法五濁であることには代わりはない。

 親鸞聖人が『化巻』に引用される『大集経月蔵分』による五五百年には、最後の五百年は、「闘諍堅固」の時代だという。また別には、僧侶は妻子や使用人をもち、訴訟などに頭をつっこむなど、俗人のような生活をおくり、仏法はそっちのこになるとも説かれている。

 法衣を着ていても、金と権力が集まるとロクなことはないようだ。

 もっとも、ぼくには、いまところ金にも権力にも無縁だか、性根がロクでもないのには変わりはない…。

 せっかくのご旧跡地も、こんな説明では台無しだ。気を取り直して、別院の坂をおりてきた道沿いにあるcafe「Gades」(カフェ・ガデス)に、法衣姿で立ち寄た。これは昨年と同じバターンだ。

 ぼくがジャズ好きなのをよく知る男前のマスターが、「このオランダのジャズボーカルを知ってる? 久しぶりにはまってるわー」と、熱心に勧めてくれる。「これがデビューアルバムなのに、この先楽しみだなー」と、かなりのお気に入りの様子。

 そのアルバムとは、ROOS JONKER(ルース・ヨンカー)の『Roos』(ルース)だ。 

Img_1964 なぜか、ぼくも昔から、オラングの女性ジャズボーカルが、大好きだ。かなり古いが、リタ・ライスに、アン・バートンの『ブルー・バートン』と『バラード&バートン』を愛聴している。確かに、このサルトな感じは、ぼくも好きだ。

  ジンジャーエールをベースにしたオリジナルのソフトドリンク(これがうまい!)を飲みながら、しばし一休みして、鋭気を養って、次へと移動。

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『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』

 ストーンズの最新映画の封切りに合わせて、1週間の限定でのレイトショーで、ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト(原題「SHINE A LIGHT」)が、京都シネマでアンコール上映された。ザ・ローリング・ストーンズの魅力がたっぷり味わえる贅沢な音楽ドキュメンタリーだ。

 仕事が立て込んでいたので、無理だろうなと諦めていたけれど、名作の誉れ高い1本。早めに夕食をすませて、最終日に滑り込んだ。お盆休みの金曜日の夜とあって、それなりの客の入りだ。

Shinealight_01

 2006年。ニューヨークのビーコンシアターでのライブ・ドキュメンタリーだか、小規模な会場ならではの臨場感が、なんとも素晴らしい。

  その監督は、巨匠、マーティン・スコセッシ。撮影やカメラも、アカデミー賞受賞者が名を連ねるプロの仕事。18台のカメラで、魅力をタップリと伝えている。

  冒頭は、ライブまでのメイキング風の映像。ライブ開始直前まで、決まらないセット、リストに、ヤキモキするスコセッシの姿が浮かび上がる。

そして、クリントン大統領一家が、ストーンズを激励にくる。アーナキーで、反体制的なアイコンだったのは過去の遺物。いまや、アメリカ大統領自らが、彼らの前説で、紹介MCを行なうのだから、時代は変わった。

  最初は、舞台裏も写すメイキングの映像なのかと思ったが、ライブが始まると一転。

  1曲目の「JAMPIN' JACK FLASH」から、ラストの「Satisfaction」までCadillacrecords_01、(映画自体は、タイトル曲の「SHINE A LIGHT」(光を照らせ、ということだよね)で終わる)、時折、クリスティーナ・アギレラやバディ・ガイ(この人がよかった。『キャデラック・レコード』という映画には、若き日のストーンズが登場する。グループ名のもともなっているチェスレベルのアーティスだったのでリスペクトされているんだろう)などのゲストの共演もいいけれど、やはり、ストーンズを中心に、ライブの構成も、映画の映像も、直球勝負だ。

  途中で幾つも過去の貴重なインタビューシーンが挿入されているが、デビュー直後や、2度目のアメリカツアー中、さらに、逮捕、収監された後のものなど最小限に押さえながらも、終始一貫した流れを作り出して、いまのストーンズを浮かびあがっている構成はうまくて、さすが。

  とにかく、還暦過ぎたミック・ジャガーが、超かっこーよすぎる。歌いまく、踊りまくり、ステージ狭しと走り回っても、そのパワーは一向に衰える様子がない。体型といい、ある意味で、驚異。一方で、キース・リチャーズのシワを刻んだ深い顔と、渋い仕種とがブレンドされて、なんともいい塩梅。

   きっと、この得体のしれないかっこよさが、rock'n'rollの本質じゃないかなと、思った次第。

   あまりストーンズに詳しくないぼくのようなものでも、ストーンズが満喫できる1本。

  余談ながら、Manu.さんのブログにも、この映画が話題になっていたので、ちょっとご紹介を。  http://manu.moe-nifty.com/manu/2010/05/the-rolling-sto.html

  劇場上映用の録音、音響なので、 DVDとは言わずに、臨場感が味わえる劇場ももいいですよ…(もうしばらくないかなー)。

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西山別院で得度習礼

 今未明、大雨にみまれた。豪雨と共に、いなびりと烈しく雷鳴が轟く。七が、「お父さん、お父さん」と呼んでいる。耳を押さえて怖がっていた。甘も、原爆の展示のことを思い出したようで、こわかったそうだ。台風の影響での大雨だ

 5時すぎから30分ほどが、もっとも烈しい雨となったが、連れ合いが得度習礼中の西山別院のある西京区では、1時間に100ミリを超すゲリラ豪雨となっていた。その最中、4時半起きをして、西本願寺へ移動。ご本山の晨朝勤行の臨んでいたようだ。この滝のような雨の中で、法衣姿で移動するのは、たいへんだったろう。

 6時をすぎると小康状態になっていたが、今日は、ときおり雨が混じる天気。

Img_1934 子どもたちを連れて、桂にある西山別院へ向かう。何年ぶりだろうか。得度してからは、もう30年、教師を終えてからでも、20年以上は経過している。

 実は、線路を挟んだ向え側に連れ合いが下宿しImg_1929ていた。学生時代から結婚する前まで住んでいたので、このあたりは生活圏だった。その意味でも懐かしい。

 解散式が少し長引いていた。親御さんたちであろう。雨が降るので、皆さん、軒下待機中だ。

Img_1936 「Sちゃん、じゃないですか」と、声を掛けてくる人あり。

 「エッー」とみると、びっくり。A先生の奥様だ。なんでもご子息が、同じ時に得度されているのだ。「おめでとうございます」。あとで尋ねてもみだ、班が違ったので、連れ合いとは面識がないまま終わったImg_1937_2ようだ。

 待ち時間を利用して、本願寺三代目の覚如上人の祖廟にお参り。

 覚祖いませし、西山に~

 そう、ぼくが得度したころは、毎朝、体操のあとに歌ったものだ。

Img_1931 もっもと、連れ合いの話では、今回は、体操も、歌もなかったという。古い建物で、寒い冬でも、暖房は火鉢で、勤行だけでなく、講義も、食堂も、まだ正座の時代だった。その年は、やたら寒かったことを覚えている。

 まもなく式が終わって、ピカピカに光輝く(ほんとうに剃りたては光るんだ)、ほやほやの僧侶たちが、出てきた。Img_1932

 ゆうこも、ちょっと目を腫らして登場。

 「釈光雲」の法名。

 感激して、泣いたのかなー。とにかく、11日間ご苦労さま。ちょっと疲れで痩せている様子。

 新聞、テレビ、電話(携帯もすべて没取)と、俗世間から隔離されて、しかも、毎日、「動くなー」、「寝るな、目をつぶるなー」と怒鳴れ、怒らればなしの11日間。5時起きで眠いわ、、正座はひたすら足が痛いわ、夜まで課題の練習に、厳しい試験はあるわ、ドンドン課題や行事がやってくるわで、想像以上にたいへんだったようだ。今日の普段の日常生活の身には、かなりハードな非日常だけれども、ちょっと考えれば、所詮、たった11日間だけ。

 結局は、どれだけ成績が悪くても(最後まで呼び出しがあるが)、無事にその間を過ごすと、みんな資格が得られるシステム。もちろん、信心の有無は沙汰は、一切ありません。ここは、見事。だって「習礼」なんでから、僧侶としての礼を習い、正信偈が正調であげられるようになり、あとは、僧侶の心得にあるように、ひたすら教団に従順することを誓う場といってもいいわけです。

 それでも、11日間の隔離からの開放感と、達成感で充実した顔もうれしそうだが、それ以上に、軒下で待っていた、親御さんたちも、ほんとうにうれしそうである。まずは、住職継承の最大の関門が、ここにクリアーできたわけ。学生なら、バイクでも買ってもらうのか、それもと、奮発して車もあるのかなー。

 ゆうこは、次長として、同じ班の特に女の子リーダー。終了後、班の子(学生が多い)を集めて、記念撮影。そして、さっそく華光誌を配布して布教活動だ。車で迎えにいったので、4名の若い子を拉致(?)して、華光会館の道場へ。

 ほんとうは、遠方のひとたちが、雨で濡れて困っているだろうと、シャワーを浴び着替えてもらってから、京都駅前での打ち上げに向かうのでした。

 11日間、ほんとうにご苦労さまでした。

 本人ももちろん、子どもたちも、ぼくもお疲れさまでした。

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お疲れだけど…。

Img_1915

 京都に戻って、町家の蔵を改造したカフェで、ゆったりと夕食。貸し切り状態。

 帰宅して七と一緒に入浴した。

 彼女がしみじみと一言。Img_1928

 「ああ、家は落ち着くなー」。

 6歳の子どもなりに、8日間気をつかったようだ。どんなに楽しくても、「ママがいないと寂しいもん」と、かなり寂しかったようだなー。この時期の母親の存在は大きい。 

 その連れ合いも、明日には戻ってくる。

 明朝、西山別院に迎えに行く。

 ぼくも子ども大会から仕事が立て込んでいた、かなりお疲れで、歯茎が腫れてきた。同じ桂にある歯医者経由で、お迎えに行くことにしよう。

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広島にて~平和公園編~

 義姉の家(連れ合いの実家)に、預かってもらっていた子どもたちを迎えに広島へ。毎月1Img_1883度は、広島市で法座がある。ただし、8月だけはおやすみなので、今月は広島行きがないはずだったが、プライベートでの広島。

 お盆の帰省が始まっていて、横も、前も、小さな子どもを連れた家族連れで、下りの新幹線は満席状態だった。

 8日ぶりの再開だ。下の子は、子ども大会前からなので、ゆっくり会うのは12日ぶりになる。ちょっと照れくさそうなしぐImg_1890さをしていた。

 まだ、台風の影響はない。それでも、厚い雲の覆われて、ときよりバラバラと雨交じりだったが、路面電車に乗って、平和記念公園に向かった。子どものころ乗っていたImg_1885京都市の路面電車が今も走っていて、懐かしい。料金は、大人でも、150円とかなり安い。

 原爆ドームへ。史上初の原子爆弾の投下は、このT字の相生橋を目標にしたと言われている。この橋の近くに、義姉が経営する会社があるので、発声訓練を受けに、しばしばここには通っていた。Img_1877

 このドーム上空で原爆が炸裂したと思われがちだが、実際の爆心地は、ここから2、300mほど離れたところにある島病院(島内科・外科)だ。実は、連れ合い(当然、MAYさんも)のクラブ仲間でもある同教生のご実家の上空Img_1887だ。噂には聞いていたが、ここは初めて前に立った。記念碑・案内板がひっそりと立っている。 

 川岸には、広島市の花でもある、「キョウチクトウ(Img_18932夾竹桃)」が咲いていた。原爆により、その後75年間は、草木も生えないといわれた不毛の焦土のこの地に、いち早く咲いた可憐な花は、多くの市民に希望と光を与えたという。今年も鮮やかに咲いていた。

 よく事情のわかっている上の子は躊躇していたが、平和記念資料館へも入った。入館料は、大人Img_1894が50円、子どもは30円だ。パンフレット代にもならない。ぼくは、中学生の時と、広島であった聞法旅行以来なので、今度が3度目。それでも、子どもたちを連れきたかった。

  初の米国大使の出席した65回目の原爆の日が終了した直後のお盆休みとあって、家族連れや外国人も含めて、Img_1905館内はかなり混雑していた。

  上の子は、負傷者の惨烈な写真に、かなりショックを受けていた。ぼくは、以前とはまた違ったところで、感慨深かった。衝撃的なものよりも、何気ない子どもたちの日常の遺品や親への言葉が胸に迫ってきたのだ。日常が瞬時に一転し、壮絶な悲劇が待っていることが、まさに衝撃である。

Img_1902 実物大の原始爆弾も、思った以上に小さいなものだ。人間がこの手と、心で造った一つの兵器が使用されて、何十万もの尊い犠牲と、その後の心身共にいい知れない苦しみが、いまだに続いているのである。

 被爆者の死亡や高齢化が進み、悲劇Img_1904風化していく恐れもある。

  65年たった今も、いまだに核兵器のない平和な世界は実現していない。

 戦争を知らない世代のぼくたちは、現実の世界も含めて、まず事実を知ることからしか始まらないのだ。

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終わった~~~~

 終わった~~

 たったいま、やっとやっとで、「三帖和讃・講讃」(下)の校正が終了。最後は、必要な箇所だけをFAXでやりとりして、あとは、明朝、出版社からOKが出来たら、それで、ぼくの仕事は完了だー。

 最終盤は、お盆の印刷所の関係で、かなり慌ただしく、月曜日、土曜日の夜、さらに今週の月曜日の朝と、火曜日と出版社の方にあって、その間にも、頻繁に電話やFAXで連絡を取り合って、やっとこさで完了。

 最後になって、索引の不足分が気になったり、「あとがき」の訂正をしたかったけれど、もうこれはきりがないのであきらめないと…。

Img_1852_2

 ちょっとみるたびに、アカが見つかって、実は、こちらもスッキリしてない部分もあるけれど、とにかく1年2ケ月続いた「和讃」の校正作業が、これにて終了!

 あとは、8月末の完成を待つばかり。実物を手にしないと、また安心できないけどね。

 書店の流通やネットは、9月になってからです。

 おもわず、これまでのゲラ刷りを積み上げて、記念写真。

 さらに出版社に渡した分があるから、楽に本の丈を超して、25センチにはなるだろうなー。

 お疲れさまでした。 

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懐かしい

Img_1844  昨年、99歳で亡くなった同人の1周忌法要。ほんとうは、少し早いが、お盆を兼ねて、この時期に、初盆と合わせてもたれた。

 例によって、故人と一番親しかった方が、心を合わせて、声をだして勤行してもらうために、日常聖典を持参もした。

 だから、法事だけれども、長い三部経ではなく、「阿弥陀経」を、皆さんと一緒に、とてもゆっくりあげる。もちろん、その間は、Img_1848携帯は電源を切ってもらう。

 まず、簡単にお経の意味を説明。そして、善導さまの、「経は縦糸」という意味をお話して、さらに、「経、教、鏡」と、私を照らす鏡であることをお話する。法事の勤行は、故人をしのぶだけでなく、自分を照らす鏡なのであると。その後には、お経のImg_1850心を聞かせていただく、「お説教」があることも説明した。もっとも、ここでの法話は、華光会館のようにはいかない。だいたい20分ぐらいだが、それでもご法話はしっかり話している。

 持参した聖典だけで足りずに、自宅にある聖典もだしてもらったら、華光会館で作製した、手作りの「礼拝聖典」があった。ああ、懐かしい。表紙も手製、表紙の金文字も一冊一冊違う。中味も、一Img_1851字一字、手書きで、謄写版印刷されている。父から、この聖典を作る苦労を聞かせてもらったことがあるが、かなり長く使用されていた。いまは、市販のものを使っている。

 もう一冊あったのは、『子どもの聖典』の改訂版の前。これも、その後、2度進化して、いまの形(赤い表紙)になっている。こちらも手書きで、ペラペラしたものだか、歴史を感じる代物。まだ「子どもの聖典」ではなく、「礼拝のしおり」になっていた。

 共に、会館には残っているのが、いづれも保管用だ。古い同人宅では現役なんだなー。

Img_1843 法要が済んでから、皆さんと近くのお店で、ご馳走をいただいた。

 例によって、故人の思い出を全員に一口ずつ。これも、葬儀の後の初七日、四十九日、と三度目。息子、娘世代、孫世代に、曾孫世代まで。この一年。どんどん故人のことは遠くなる。しかし、改めため、故人をしのぶ、皆さんの言葉が尊かった。故人のさまざまな面が窺えるか、それだけではない。結局、故人を通して、ひとりひとりが問われる共に、いまこの場にいるひと達がの心が一つになる感覚が、ぼくにも伝わったきた。

 

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こんなはずじゃなかった

 連れ合いも子供もいないので、仏の子供大会が終わったら、数日は、羽を伸ばして、のんびりする予定だった。

 ところが、子供大会の最中に、「和讃」の最終校正が届いた。荷物の片づけや留守中の事務を優先していると、珍しく催促の電話。印刷所のお盆休みもあって、8月末までに発行するためには、急いで作業したいらしい。映画はやめて、気ぜわしい中で作業。本文の校正は、いちおう終わっていたが、念のため簡単に確認すると、まだ見つかる。でも、どこかでやめねばならない。今回のメーンは、和讃の索引部分の校正。試行錯誤で、どうにか形式は決まったが、いろいろあって、PCではなく、手作業での確認が必要なのだ。

 どうにか、今日の夕方には、作業が完了。急いでおられて、すぐ取りにこられたが、「これから大急ぎで作業して、索引の部分だけ、明日は日曜日でも持ってきます」とのこと。でも、明日とはなー。事務方も夏休みにはいるし、ぼくも明日は朝から、年忌やお盆参りで、留守にしているだ。作業は、月、火、水と、最後の全力投球だ。

 あれれ もう子供を広島に迎えに行かねばならない。木曜日には、連れ合いも戻ってくる。

 6月にあった「大阪中仏通信卒業生の集い」での法話の手直しの期日も、お盆までにと約束した。

 ああ、こんなはずじゃなかったのになー。

 それでもね。洗濯に、掃除に、いろいろ家事もあるのに、なぜか、気楽でもあるなー。

 せっかくの独身生活、せめて、明日の夜だけでも、リフレッシュして、少し羽を伸ばしましょうかー。

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仏の子供大会~野外活動・追ハイ・ファイヤー編~

Img_1573 仏の子供大会の野外活動。前回は海水浴(水泳)のことを書いところで、思わぬ子供時代の思い出で終わってしまった。残りの追跡ハイキング、キャンプファイヤーを簡単に。

追跡ハイキング、略して「追ハイ」とか、Img_1571「追跡ハイク」と言っているが、これを楽しみに子供大会にくる子もいるほどで、一番の人気行事。もともと、悟朗先生が、50年前にボーイスカウントで学んできたもので、それ以来、華光流にアレンジ行なっている。

Img_1584 行き先は、先発陣以外はしらない。道にかれた→や×などの記号を探して、進んでいく。その間に、手紙や関所があって、クイズや課題にも取り組んでいく。班ごとにまとまって進むことがポイントだ。だから、ただ早いだけでもダメで、Img_1587記号を探す正確さと、チームワークが求められている。だいたい、この行事で一位になった班が、優勝にもっとも近いのである。

  今年は、稀に見る猛暑なので、心配した。出発地点では、ネコImg_1596もバテていた。天気はよかったが、やはり緑も多く、風もあって、どうにか無事終了した。ぼくは、本部で待機し、ゴールした班の送迎係。ゴールの神社の日陰は、それなりに心地よかった。だいたい、山道かImg_1601、田んぼの中を進むが、浄土真のお寺でも関所がもたれた。

 今年は、初めての会場だったが、距離も手頃で、バラエティーに飛んだ、なかなかイイコースだった。

Img_1611 追ハイの後、戻って一休みしたら、すぐに、夜のキャンプファイヤーのスタンツ(出し物)づくりにはいる。これは、班対抗。追ハイ同様、スタンツの出来が、優勝に左右される。ベテランの班長は、出発前から、アイディを考える。保護者や大人も、Img_1619寸劇をやる。だいたい、お笑いだが、一部、仏法ネタがはいる。ほかにも、シークレットで飛び入り芸もある。ぼくも、横山やすし風の「あるおっさん」のネタで、大いに笑いをとったり、真面目な釈尊役だったりもするが、今年は、撮影に回ったので、持ち芸の披露はなし。これは、元気な年Img_1620に、数年にあったほうが新鮮。

 野外だったの、久しぶりに、本格的なキャンプ・ファイヤー。ゲームが新しくて、すごく新鮮。エールマスターもハリキッテくれて、盛り上がった。どんなに大声をだそうが、走り回ろうが、ここならまったく迷惑Img_1730にならない。

 子供たらのスタンツも、短い時間で、それなりに検討していた。大人のスタンツは? 昨晩、スライドでみた「ウサギさんのお供え」を、凡夫版にアレンジ。毎度ながら、ちょっと悪のり感がいい。保護者のオバアチャン方の、ちょっとオフビート感が、ゆるくて面白い。

Img_1733 最後は、みんながシッミリと火を囲み、残り火を眺めたら、ジーンとしてきた。

 楽しい一日も、こうして静かに過ぎていくのである。

 ここまできたら、子供大会も、あと1日。毎年同じメニューながら、同じことは一度としておこらない。日頃、経験しないようなハイテンションになった気持ちも、ちょっとセンチなったりする夜だ。

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羽をのばす

 2日に子供大会から戻ってきたぼくと入れ替わるように、その日から、連れ合いが、11日間の得度(とくど)習礼に出かけた。いろいよ僧侶になるのである。この時期、ぼくにはお盆参りもある。子供大会の翌日には子供たちは、広島へ。連れ合いの実家(義姉宅)で過ごしてもらうことになった。同世代の従姉妹がいるので、二人とも大はしゃぎ。でも、8日間も、家族がバラバラになるのは、これが初めてだ。

 ぼくも、独身時代に戻ってのんびりしたいと思っているが、子供大会から帰ったら、事務方もおやすみで留守番や子供大会の片づけと、なかなかゆっりくはできなかった。

 それでも今夜は、外で楽しく飲んで、明日は映画と、久しぶりに羽を伸ばす予定。

  が、夕方には、正像末和讃の最終稿の進捗状況の問い合わせの電話もあって、これが済むまでは、夏休みとはいかないようだ。

   それでも、番犬からしばし開放されて、かなりのんびり…。

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仏の子供大会~野外活動・海水浴編~

 仏の子供大会は、いろいろな行事がある。

 野外活動では、海水浴(水泳)、追跡ハイキング、キャンプファイヤーが、三大行事。それに、室内オリンピック(今は、省略して楽しみの夕べ)が加わることもある。

Img_1467 昨年は、華光会館だったので、海水浴がプールになった。漁村の会場の時には、追ハイのコースがなくて別のものになったり、時に、ファイヤーが室内ファイヤーになったりするが、今年は、海、山が揃ってたので、野外活動は充実していた。ただ、下見段階では、水泳場や追ハイも3月時点だったようで、その点ではかなり心配もしたが、さいわいうまくいった。Img_1465

 海水浴は、初めての日本海若狭湾へ。バスなら20分で到着するので、楽だ。しかも、大きな水泳場でないので空いていたし、水もきれいだった。少し雨まじりの曇天だったが、水もあまり冷たくなく、ほとんど波のない状態。子供たちも、楽しそうに泳いでいた。恒例の楽しいゲームもある。これも、子供大会Img_1485の伝統あるゲームだ(今年は、お爺さん、お婆さん)。

 そして、みんな(いまは探すのも難しい)この水泳帽。世代遅れで、逆に、すごく目立つ。今年も、少し離れたところに言っていた子供たちが、すぐにわかった便利なもの。これもImg_1508、ぼくには、子供大会の風物詩。  

 ところで、子供大会の海水浴といえば、子供心に忘れられない強烈な思い出がある。毎年、水泳の始まる前に、水泳注意として話題にする、年に1度だけ思い出す思い出だ。

 小学校5年生の子供大会。日高が会場で、日本海での海水浴。その日は、猛烈な波で、小さな子供たちは、波打ち際でも十分楽しめた。ちょっと泳ぐと、息ができないほどの波に飲まれた。ぼくたちの横には、水泳教室のグループが来ていて、しばらくすると女性の生徒さんが溺れた。指導員が救出に向かったが、次々と波にさらわれ、結局、最初の女性は助かったが、二人の青年が目の前で水死した。さっきまで、楽しそうに元気にしていた人たちが、次ぎの瞬間には、泡を吹き、目を剥いた苦痛の形相の姿で、浜に引き上げられてきた。ちょうど、ぼくが海からあがった時に、二人の遺体も、ぼくの目の前に引き上げられてきたのだ。その恐怖というのか、苦悩の形相を、目の当たりにしてしまった。からだにはべったり砂がついている。すぐに、カラフルなレジャー用のタオルが顔に掛けられたが、なんともその不似合な色合いが、強く印象に残っている。

 死体を前に、みんなスイカが食べられず、しょんぼりと宿に戻った。バスの中で、はしゃぐ人はだれもなった。

 その夜には、恒例の地獄のスライドを見たのである。

 そして、帰宅した数日後、強烈な夢をみたことが、少年期のぼくの聞法の大きな契機になったことはいうまでもない。子供心に、ぼくに、死ぬことが実感できるとか、できないとかは関係ない。無常が実感できなくても、自分の思いとは無関係に、次ぎの瞬間には死が訪れるのである。生と死は、いつも背中合わせなのだ。しかも、出かけていくのは、ひとりぼっちなのである。たった、ひとり。真っ暗な、寂しい世界に堕ちていく…。

 その思い出が、なぜか、今年スライドの全体会で、突然、蘇ってきた。「ああ、ぼくの真横で、泡を吹き、目を剥いた苦痛の形相で亡くなっていった人は、ぼくの仏様だったんだー。仏様が、こうして命を捨ててくださっているのだ」と。

 35年ぶりにそう実感したのである。涙がこぼれて話が詰まった。お念仏がでてきた。

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仏の子供大会~かみなか農楽舎編~

Img_1331 今年も、仏の子供大会の4日間が、無事に終了しました。ぼくにとっては、1年間で、一番濃厚な4日間だと思いますね。朝6時から、夜12時まで、海に、山に、火に、水に、そして勤行や法座と、ここまでくると、ある意味「行」みたいなもので、やはりしんどい。今年も、2日目夜、地獄のスライドと、全体会で話た後に、ダウン。頭が痛く、猛烈に下痢と、そして嘔吐。昼間の水泳で冷え、クーラー風下で、話した影響があたのかも…。その夜の反省会は休んで、寝かせてもらったおかげで、なんとか4日間、元気に乗り越えることができました。これは、Img_1519昨年も、スライドの後の夜に同じ症状で、同じようにダウン。うーん、さすがにこのプログラムをやり遂げるのには、歳をとったのかなー。伝道の願いに加えて、体力、気力もかなり必要な大会。でも、おかげて、多くの成果が得られたのは、自分ひとりの力ではなく、スタッフの先生方や手伝いの高校生、保護者の皆さん、そして参加の子供たちのエネルギーに、歓喜の笑顔、真剣な涙と、先生方の成長の姿に、ぼくも動かされ、そして支えられているという実感ですね。当然、それには、「仏の子」たちに願いをかけられた、仏様のおかげでもあるわけです。とにかく、50年以上、同じようImg_1555なプログラムで、毎年、毎年、まったく新鮮な集いが続いていることが、ある意味、驚き。

 会場は、湖西線の近江今津駅から、バスで30分ほどの、福井県若狭町にある、「かみなか農楽舎」。初めての会場で、しかも下見は、若手の先生にまかせていたので、それなりの不安もあり、しかも、個性的な会場(田舎体験、農場体験の施設)で、実際、施設や方針で、予想以上の戸惑いや、打ち合わせImg_1459不足での不自由もあったけれど、それはそれで、臨機応変に。

 ぼくの部屋は別館の三畳ほどのところ。どんなところかと思えば、農機具倉庫の2階の屋根裏部屋。ある種、虫の大国。窓をあけると、馬がエサを食べ、となりにはダチョウが……。写真の馬は、部屋の窓からの風景。周りには、ニワトリ、七面鳥、ウサギなどが飼育され、子供たちも、自由に犬を散歩Img_1460連れ行ってたりと、なかなか面白い環境。

 食事も、よかったことも、戸惑うことありながら、まあ、いろいろ経験できたり味わえて、それなりに楽しかったなー。3日目には、やっと慣れてきて、また来年も、少しプログラムを見直して、ここで、やってらどうかなーという話になっていた。まあ、これはこれで、また話題に…。Img_1462

 初日は、雨。一時土砂降り。2日目も、3日目も、どこかで雨が降る天気。4日目の朝方も雨だが、6時30分の起床の時には、止んでいて、結局、それでも、野外活動にはまったく差し障らず、さいわい。ある意味、ここは、都会の猛暑は一服で、大きな病人や怪我人のなかったことには、この天気は、好都合。緑豊かで、周りは土。Img_1561も通って、朝晩は、涼しくなる。今朝、京都の町を歩いて思ったこと、なんて、蒸し暑いか。もうクソ暑ーいこと。たった4日間でも、からだは涼しいほうになれていくんですね。

 詳しいことは、また行事をおって写真を交えながら、ボチボチと。Img_1557

今日は、S子先生と、子供大会の荷物の片づけ。準備は数日かかるのに、荷物を片づけるだけなら、2人で、半日もあれば十分。翌日に、片づけができるのだから、(体調不良があったものの)トータルでは、案外、元気に過ごせた大会だっのかしもしれない。

 参加のみんな、スタッフ、先生方、保護者の方、ほんとうにお疲れさまでした。

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