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仏縁

  さて、福岡での法座。

 この地にも、お釈迦様の尊いお命が捨てられているおかげで、いま、ご法縁が結すばれるわけです。

 少しずつだけれども、九州も、人のつながりご縁が広がっている。初めてお参りくださる方、ネットだけでこられた方もある。そうかと思うと、子ども大会からのメンバーが、いつのまにか4名も揃っていて、仏青大会と間違えそうだ。

 昔の華光同人のお母様のご縁で、華光会館にやっとやっとたどりつかれた方の記事を書いたことがある。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-352a.html
 その方が、今度は、妹さんや、姪御さんなど4名でお参り。特に妹さんは、終始、本人も分からないまま、泣きながらのご聴聞。これもひとえに、お母様のご威徳のたまものである。最後に、お声をかけたら、また泣かれた。どうか、お母様が、聞き抜かれた後生の一大事の解決に焦点をあてた聴聞に進んでもらいたい。

 また、この1年にわたり各地の法座に熱心に聴聞し続けておられた方がある。(この方には、何度めの「重誓偈」のご法話になるのだろう。重ねすぎ?)。座談で、「聞けない自分、変わらない自分」に出会って、聴く心のない私にこそかけられたご本願の尊さに、涙してくださったことが、とてもうれしかった。自分はまったく変わらない。でも、その変わらない自分に、ほんとに出会うと、変わらないままで、実は変わっていく不思議があるんですね。だって、分かるはずのない南無阿弥陀仏に、この私が願われているのですから。そのことに、初めて触れる身になったのだから、こんな大転換はない。傍目からも、最初の聞法姿勢からは、著しい変化。それにしても、妙だなー。発言は、「私の中味、本質はまったく変わらない」というのに、実は、その内実の変化が著しいのだから…。

 その聴聞の姿勢が、ほんとうに尊い。

 阿弥陀様は生きて働いておられる。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、働いておられる。

 いろいろな方に出会うにつけて、一座、一座の法座、ひとりひとりのご縁を大切にしていかねばと、改めて思わされた法縁だった。

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法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

お東の天満別院で本願寺派の司教の話を聞き、その後、示談してもらいました。一番、聞きたかった業の問題については研究していないとのことで聞けませんでした。

結論からいうと、もう、浄土真宗は辞めようと思います。

僕が気になるのは後生の問題ではなく、どうして、このような、ひどい目に遭わなければならなかったのか?という因果の問題です。

そこを仏様にしか分からないことだと思考停止して、これ以上、聴聞は続けられないと決断しました。
真宗では因果の道理について詳しく教えられていないと思います。

そこで私は真如苑に戻り、その問題を探求していこうと思いました。母はもう、10年目を迎えています。
お釈迦様の最後のみ教えである大般涅槃経と真言密教が根本で、接心修行では霊能者の前に座ると自分の心、自分の生活ぶりをその通りにいわれます。大般涅槃経にある「如来常住」の働きで、仏様がいつも自分を見ているから、分かるのです。不思議ですよ。

私は聴聞をしていて、仏様を感じられないことに悩んでいました。座談にしても、所詮は凡夫の言葉だと思います。

因果の問題に蓋をして、これ以上、聴聞は続けられない。そして、あくまで私見ですが、三業に現れない信心というものはないと思っています。本当に信心決定しているのなら、真宗界が放っておかないでしょう。
妙好人のように全国的に有名になっていくのではないでしょうか。

長い間、ブログで僕の愚痴、つぶやきに付き合ってくださり、ありがとうございました。本当に醜い心からの叫びですので、聞いている方は大変だったと思います。申し訳ありませんでした。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年8月13日 (金) 13:57

 突然のお別れですね。ちょっと驚きました。

ブログ(それともPC)の調子が悪くて、コメントしても、アップができずに返事が遅くなりました。

 とても残念ですが、阿波の庄松さんの思いに、いまのところ沿うことができなかったようでね。ブログ上でのおつきあいでしたが、少しずつ態度も変わっておられるように思っていたし、最後には、丁寧なお詫びの言葉までいただきました。この点は、ありがとう。コメント欄は寂しなりますね。

 子ども大会の間はしばらくおやすみ(他のブログのコメント欄でお見かけしましたが)されていましたが、その間に浄土真宗に見切りをつけたというか、いまの自分の苦しみに答えるないようなら、ほんとうの信心じゃないというところでしょうか。

 きっとあなたの苦しみ付き合い、またそれ以上に悩まれたであろうお母様と同じ道を求められることも、たいせつなことかもしれません。

 いまは何を書いても無駄でしょうから、やめておきます。それより、またおつきあいしてもいい、(過去から)いまの自分を聞いていくご縁があるようなら、またお出でください。お待ちしています。

 どうぞ、お体ご自愛ください。そして、ほんとうに満足される解答が得られますことを願っております。

投稿: かりもん | 2010年8月15日 (日) 00:42

阿波の庄松さん、もう見ておられないかもしれないですが、僕は結構ファンでした。やり場のない心の叫びみたいなものが、ダイレクトに伝わってきて、ビンビンきました。久々にブログを見たら引退されるとのこと、残念です。個人的には、確かに今の不幸の原因が知りたいのはよくわかります。だけど、仮に知ったところで未来が何かしら変わるのかな?とも思います。また、気が向いたら来られたら?二足のわらじでも全然OKだと思いますよ。

投稿: ネコ丸 | 2010年8月28日 (土) 00:27

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