平日の輪読法座で感じたこと
珍しく月曜日の輪読法座。
週末は、地方の出張や宿泊行事があるので、だいたい月曜日はOFFにして、映画を2本は見に行くと決めている。今日も、せめて、朝に1本と思ったが、雨も降っていたし、咳も続くので、無理をしないことにした。残念。
久しぶりの平日の昼間、雨も強かったので、参加者が少ないかもと思っていたが、広島からの参加者もあり、おめでたで少し休んでいた人が、久しぶりに顔をだしてくださったりと、それなりに参加者はあった。
巻頭言は、求道者の内的葛藤がテーマだが、少しだけ、かかわり側の問題点も指摘しておいた。このあたりは、カウンセリング態度や心理的姿勢にも、学ぶ必要を感じている。外側の言葉だけでなく、そのうちの中での変化や心境にも、敏感になって、その声なき声を聴かせてもらうことも大切なのである。
「聖教」は、「選択本願は浄土真宗也」の一文。まあ、ここはかなり難しい表現があると、ぼくも思ったいた。
案の定、中には、どうも難しかったと感じていた人もおられた。特に、聖教の質問から、最近問題にしている、大経の法蔵発願の段を説明をしたのだが、これが余計に難しく(というより、あまりにもスケールが大きくて、まさに超世の悲願で、人間の尺度では計れない)なったようで、その上、みんなのように、うまく発言もできずに、だんだんつまらなくなって、付いていけないというのである。ところが、ここからが不思議なのだが、そのあたりのつまらない気持ちを語ってもらって、それを、みんなが受容的に聞いていくと、その頑だった心が、どんどん開いてきて、「話せない」という口が、なぜか饒舌になっていかれた。しかも、聖教の話は、全部難しくてダメかというと、「正信偈のところは、とてもよくわかりました」と、そこは喜んでおられることが、ハッキリしてきた。すると、さきほどまでの、頑な顔が、にこやかな雰囲気になっていかれるのだから、なんとも不思議だ。
ぼくたちの心は、簡単に、どちからに100%で決めつけていく。詰まらなかったら100%ダメとなる。まあ、そのほうが楽だから。でも、疎外感で、そこを表明しておこないと、次の参加もいやになることもある。それなら、その気持ちを正確に見つめ、表現することで、ほんとうは得をするのだ。外側の問題にしてもそうだ。質問を受けても、「ありません。わかりません」と片づけないで、丁寧に、ここはよく分かっておもしろかったが、ここがわからなかった。または、ここはつまらなかったが、それでもここまではOKだったとか、このあたりがわからないかったと、もし表現できるのならば、場に深みがでてくる。自分の気持ちだってそうだ。そのようにきめ細かく表現できるようになれば、話し手にとっても、聞き手にとっも、有り難いことだ。それには、自分の否定的な、もしくネガティブな気持ちに気づき、表現できるように、心がけてみることも肝要だし、そんな話題も語れる雰囲気の集いになっていかねばならないと思っている。その方向性は目指しているが、いくつかクリアーにしなければならない課題があることも、確かだ。
終了後も、少し話が続いたが、出版社との打ち合わせがあるので、お開き。下巻の作業も、いよいよ大詰めだ。校正も、とうとうあと1回になった。そして、あとは、索引と、ぼくが「あとがき」を書けば、すべて揃う。そうなると、晴れて、8月中には発行の運びとなる。上巻が300頁だったのに対して、下巻は、240頁。少しは、値段が安くなるかもしれないが、このあたりは、まず中味が完成してからの相談。
思えば、上巻の最初の校正作業は、7月から始まっていいる。間が開いた時機もあるが、1年の渡る長丁場も、来週で、いよいよラストスパートに。最後の詰めだ。
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