高山法座の法話は3回。今回は、焦点は一貫していて、「法蔵の発願」のおこころというべきもの。東京法座と同様に、最初は、、『大無量寿経』についての外観を、丁寧に窺っていく。皆さんに確認を取りながら、このお経の性格と、位置づけ。親鸞さまが、ご本典に、『大無量寿経』-真実の教、浄土真宗-と細註され、次ぎのように述べらている。
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで、功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
ご本願こそがもっとも大切な肝要であり、本願名号を体(本質、そのもの)として出来上がっているのである。しかも、これは、お釈迦様の出世本懐の教えでもある。だから、親鸞さまは、お正信偈には、
如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり
と示されている。つまりは、大経が出世本懐であるということは、実は、唯、阿弥陀様のご本願を説きたいがために、この世にお出ましになったわけである。お釈迦様のご本意はそこにあるのだ。
では、この私は、何のために、この人間界に生まれてきたのか。金儲けのため? 好きな人と結婚し、幸せな家庭を持ち、子ども育てるため? 生きがいを求めて、自分のなすべき仕事をやり遂げるためなのか。それとも、ただ食べたい、着たい、遊びたいで、欲望のままに樂しむだけの人生か? 幸せになるためといっても、私のほんとうの幸せは、この身を樂しませ、家族を大切にし、金儲けしたいだけなのだろうか。自己実現、自分成長……なにを求めているのだろう。
そんな私に、はっきりと示されているのが、「弥陀の本願」を聴くために生まさせていただいという、仏様のお言葉である。これは、単なる答えでなはい。答えであると同時に、私自身を貫く厳しい問いではないか。正解を覚えてもしかたがない。自らに問うてみるしかないのだ。まさに、わが機にまかせず、機を責めるのである。真反対の生き方をしている私に、ほんとうに「弥陀の本願」を聴くため生なのか…。
そして、「唯、弥陀の本願を聴くためだ」というのなら、脇目をふっている時間はない。焦点を絞って、阿弥陀様のご本願のお心を聴かせていただくだけである。
それで、『大経』の法蔵発願の因(選択思惟)のご文を、ひとつひとつ窺っていった。
なぜ、私は53仏の諸仏の救いに漏れたのか。なぜ、本師本仏たる阿弥陀仏が、正覚の座を捨てて、法蔵比丘となりさがり、頭を下げて教えを請われたのか。なぜ、一劫(大経異訳の荘厳経)もかけて善悪の粗妙を覩見されたのか、なぜ、五劫もの時間をかけて、最高の行を選択摂取されたのか。そして、だれのために、選択本願をお建てくださったのか。しかも、重ねて誓い、そして、選びに選んだ行を、大満足、寂静の境地での兆載永劫のご修行中に、なぜ、一念一刹那も不満やためらいや、不審が起こられなかったのか。そして、聖人は、お正信偈に、
(時)法蔵菩薩の因位のとき、(所)世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えん。
とあるが、なぜ、兆載永劫のご修行が省略されているか、などの問いを通して、本願の生起してきたお心、法蔵様の発願のお心を窺い、その結果である、選択思惟されたご本願についてお話をさせていただいた。
最後の座で、『三帖和讃講讃』上巻の24頁にある、五劫の「劫」の説明を、を、磐石劫や芥子劫だけでなく、器世間世界の無常である(壊劫(20中劫)→空劫(20中劫)→成劫(20中劫)→住劫(20中劫)を一大劫とする説などを、テキストを元に詳しくいただいた。詳しくいただけばいただくほど、まったく想像だにできない、歴史的な、もしくは科学的な、人間の次元などでは計り知れない、真実の世界のことだとしか思えなくなり、思わず知らず、「これで文句のある人は言ってください」と出てしまった。すると、誰も何も言われない。「文句がないのなら、南無阿弥陀仏です」と。
そうだ! ぼくの中は、文句タラタラ、それしかないのである。それがである。不思議にも、こんな、ある意味ではデタラメの、ある意味では人間のはからいを超越した真実が、私独りためのご苦労だったと、知れているのである。それは、そう思うとか、思わないとか、これが正解とかではないのだ。まさに、「そうなのだ」と、絶叫せずにはおれない事実なのである。愚痴や文句しかないのには変わらないのかに、同時に、南無阿弥陀仏の真実か満ち満ちてくださり、私の口から「南無阿弥陀仏」と出てくださっている。
これこそが、真実のまことの選択本願の念仏!
法蔵菩薩様が、ここにおられます。