選択本願
伝道研究会。今年になって、低調気味だったので、今回からは、メンバーを固定せず、同人会員ならばどなたでも参加してもらえるスタイルに変更した、第1回目。これまでのメンバーも、心機一転、時間厳守で、ちょっと緊張ぎみでのスタート。他に参加があるのかどうか、ぼくにも不明だったが、研究会というイメージや講師クラスの顔ぶれが中心とあって、皆さんも様子見という感があるのか、初参加者は3名だけ。これは、だいたい(少なめの)予想どおり。平日の夜、しかも2時間半だけなので、京都や大阪の方ばかりだが、中には日高支部(豊岡市)からの参加があった。
教材は、悟朗先生の講習会の「真宗の基礎」の輪読。まずは、「真宗基礎講座」で使われた、第1編「教義編」を取り上げることになった。これは、まだ昭和の時代、半日版の講習会のようなものて、しばらく続いていたものだ。その後、同じ箇所を、華光会館再建の折りに、興正会館を会場に、3日間の行程で「真宗基礎講座」と題して講義されている。手書きのテキストをもとに、ぼくが大急ぎで入力して、コピーして、会場に走ったことが思い出される。
教義編は、6章に分類されるが、まずは、その第1章の「弥陀の発願」第1項。そう長い文章ではないので、輪読した箇所の全文を記そう。
(1)法蔵の発願
「選択本願は浄土真宗なり」(末灯鈔)とあるが、浄土真宗の根源をたずねれば、弥陀の発願よりはじまる。
(五十三仏の出世)久遠の昔、錠光如来をはじめとして、次々に、五十三仏が出世され、無量の衆生を教化し、ついに成仏させられた。
(世王仏と法蔵)五十四番目の世自在王仏が出世なされたとき、その説法に感激した国王は、出家して法蔵比丘と名乗り、
(法蔵の選択)一切衆生を済度せんとの大誓願をおこされ、師仏の指導を仰ぐことにより、ついに五劫のあいだ思惟し、かっての諸仏のなしえなかった大誓願をおこれた。そして、
(四十八願)これを師仏の前にのべられたのが、四十八願といわれるものである。
というところだけ。五十三仏と諸仏との関係、さらには、大誓願が二度あるのは、どう異なるのか、中にはチン問(仏様って男性?など)や断線もしたが、それもまた楽しい。いろいろと活発に質疑がなされた。
ここは、お正信偈でいえば、
「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方」
弥陀の発願の、まさに、浄土真宗における「一丁目一番地」のど真ん中にあたる。
ところで、冒頭の「選択本願は浄土真宗なり」について、一言だけ。
これは、選択と書いて「せんたく」ではなく、「せんじゃく」と読むのだが、もともと、この「選択本願」とは、法然上人が、その著書を『選択本願念仏集』と題され、さらに、「本願章」には、 「選択とはすなはち、これ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て、人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり」と顕しておられる。それを受けた、親鸞聖人も、第十八願名について、「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく」と示されているように、まさに、「浄土真宗は選択本願なのだ」ということになる。この場合の浄土真宗は、小さなセクトとしての宗派名ではない。
法蔵菩薩の願い、ご本願は単なる願いではなく、「選択摂取されたご本願」ということになる。
世自在王仏のみもとにあって、そのご指導をもとに、二百一十億の諸仏の刹土を覩見された後、「二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す」と示されているが、法然さまは、選択と摂取は、言葉は異っても同じ意味であるとみられている。つまり、選択には、「選取」「選捨」の両義があり、それに対して、摂取には、「選取」の義のみがあるように見えるが、その選取はそのまま他の「選捨」であるので、選択と摂取とは同じ意味である。もちろん、ここでの摂取は、「摂取不捨」とは別義である。
では、なぜ、選び取り、選び捨てをしてくださったのか。そのおこころは、「出離の縁有ること無し」、諸仏方のお力では絶対に救われる縁のない私くし、なんとか救いたいの一点にかかっている。つまり、仏願の生起-そのお心が起こってきた背景が,ここにあるのだ。だから、誰のためのご本願なのか。なんの為の選択であり、五劫のご思案であるのか。そこに、自分が抜けると、単なるおとぎ話か神話であって、いつまでも、自分の問題にはなってこないのである。
まあ、そんなことが、十四項目に分かれて書かれている、その一つ目を読んだだけである。
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コメント
第2子が生まれ、もし男の子ならば「真宗(まさむね)」と名付けようと思ってます。
「選択本願は浄土真宗なり」
「弥陀五劫思惟の願、よくよく案ずれば親鸞一人が為なり」
親鸞聖人のお言葉はダイナミックで、感動します。
お目当ての機、弥陀の本願聴くのに五劫かかったこの私を見捨てず、拾い上げ捨て給わぬ南無阿弥陀仏が子供にも届け。
現実はなかなか厳しいですが。
どうやったら、家族も仏教を聴くようになるでしょうか?
投稿: | 2010年6月 4日 (金) 12:44
「浄土真宗は選択本願なのだ」
出離の縁有ることの無い、諸仏方のお力では絶体に救われる縁のない私をなんとか救いたいが本願の起り。
阿弥陀様の目に止まったのは哀れなあわれな、みすぼらしい私であった。つまり、私が正客である。
絶体に間違いないこと、わたしが目当でなく誰が目当と言えるのか。
絶体に勿体ないという思いは出てこない、この私の為の阿弥陀仏様の大慈悲であった。
伝道研究会に行きたかったです。
投稿: ババ | 2010年6月 4日 (金) 14:03
「真宗(まさむね)」さんじゃないけれど、名前がないので、ごめんなさい。一般論でしか答えられないので、書いても意味ないけれど、まず家族との関係はそれぞれなので、同じものはないですよね。とにかく私が聞かせてもらうことが第1番ですよね。そこから、仏法を大切にしている価値観を、連れ合いの方にも理解してもらうところへと進み、それを共有する関係へと発展していくのでしょうから、一足飛びの妙案はないですよね。
ババさん>ようこそ。そうですね。ちょっと遠いですよね。まあこれからで、まだ手さぐり状態かなー。もう少しボイントに焦点があたるような聞き方になると、さらにいい集いになるでしょうね。
投稿: かりもん | 2010年6月 5日 (土) 00:44
名前書き忘れました。すみません。。。
そうですね、自分が聴かせてもらうしかないですね。
仏壇のある実家に戻ったので、徐々にいろんな話をしながらじっくり行きたいと思います。父の1周期も近いですし。
余談ながら、最近P-VINEというレコード会社からブルースの名盤国内盤が初回限定1500円で発売されてます。なかなかお買い得かと。
しかし、つまるところスピーカーの良し悪しでその音楽が良く聞こえるかどうかが決まる気がしますがどうですかね?
ちなみに、私の愛車ハイゼットのしょぼいスピーカーには'60S~'70Sの音楽、ROCKSTEADYやらSKAやらが異常に合います。
投稿: 樹氷 | 2010年6月 5日 (土) 13:00
はい、なんとなく予想してはいました。
今月、蒲郡でお会いできるのか?
そうか、スピーカーなのかなー。そうなると、結局、何を聞いてるんでしょうかね。
仏法も、いいオーディオセットにすれば、南無阿弥陀仏がくっきり届くのかなー?
投稿: かりもん | 2010年6月 6日 (日) 23:08
>そうか、スピーカーなのかなー。そうなると、結局、何を聞い>てるんでしょうかね。
>仏法も、いいオーディオセットにすれば、南無阿弥陀仏がくっ>きり届くのかなー?
仏願のおいわれ、南無阿弥陀仏を聴くスピーカーもオーディオ環境も戴き物ですんで、聴くこちらの耳が悪くて音が割れてようがなんだろうが関係ないですよね。
どうしても、「もっといいスピーカーじゃないと、もっと音楽に身を任せて恍惚の境地に入らないと」という思い、環境づくりに走りがちですが、いつの間にか方向違いで、本当に何を聴いてるのか、「仏願の生起本末」鳴ってる音楽自体を聴くしかないと思います。
響流十方、今現在説法を聴かせてもらっています。南無阿弥陀仏
蒲郡にはお参りさせて頂きます。
投稿: 樹氷 | 2010年6月 7日 (月) 23:22
南無阿弥陀仏は宇宙に響く相当デッカい音で鳴っています!
スピーカーの前で鼓膜が破れそうです。
平気な顔して突っ立ってますが。
投稿: 樹氷 | 2010年6月 7日 (月) 23:29
ほんとうや。
響流十方と、今現在説法が獅子吼されていても、この腐った耳は、何も聞いてないものね。自分の都合だけ。
投稿: かりもん | 2010年6月10日 (木) 01:17