こんな夢を見たら…
肌寒かったのが、急に真夏になったりで、体調管理が難しい。このところ、夜更かしが続いて、ちょっと風邪気味だと思っていたら、久しぶりに寝違い。でも、まあわりとライトなもので助かった。こんな時は、どうも嫌なリアルな夢が続く。ゾォーー。
仏像か、人形の汚れを拭いていたら、突然、その人形の顔が動きだして、ああ、やっぱり生きているんだと思ったら、突然、その人形に追い掛けられる。「ワァー」と絶叫すると、父に起こされた。夢だったんだ。それで「叫んでいなかったか」とたずねると、「いや。時間なので起しにきた」といわれた。昔のぼくの部屋。布団に横たわりながら、なんか変だなーと感じていたら、ゾクゾクするおそろしい感じに包まれる。なにか右側にいやな、おそろしいものが立っている。きっとまだ夢なんだと、早く目を覚まさなければと焦るが、なかなか目が覚めない。おそろしくて叫んで、目が覚めた(と思ったらが)、実はそれもまだ夢の中。どうやら夢の入れ子状態のようだ。そこからの記憶があいまいだが、ほんとうに目が覚めたあとも、ちょっと味わうだけで、からだがゾクゾクする感覚は残っている。首は、右側が痛い。あとも、この夢の余韻が残って、熟睡できなかった。
朝、自力整体に行くが、首は思ったより軽症。温まると、うまく動くようになった。寝ると、同じ姿勢がつづき固まる。特に朝方が痛くなるが、2、3日だけの我慢。そのあと、自力仲間のマダムと東本願寺まで歩いて、ランチ。客は、ぼくたちだけだった。どうか、ここもつぶれませんように…。今日は、メーンを魚にして、たっぷり紅茶を飲んだ。
一旦帰宅して、事務作業をすませてから、今日グランド・オープンした、京都駅南側のイオンモールkyotoへ。朝も通ったが、さすがにそれなりの人出だ。自転車なら5分ほど。今日は、オープンなので、映画館(T.ジョイ京都)が1000円。ネット予約したら、パーコードをかざすだけでOK。でも、ここは会員制やポイントがないので、あまり利用しないだろう。今年2本目の小林政広監督の『春との旅』を観る。グーッとまではこなかったが、脇の隅々まで実力者ぞろいで、けっこうよかった。
ついでに、モールの中を散策。外観もそうたが、やはり中もずいぶん広くてびっくりし、プチ興奮した。年間1000万人の集客をめざすとあったが、たくさん人が来ても大丈夫なわけだー。オープンセールのユニクロで、自力整体中に履く、ドライメッシュのジャージやショートパンツを購入。レジは長蛇の列で並んだけれどかなりお安かったので、満足。あいかわらず…。
さてさて、今週末の法座の予定です。以下のとおり。
1)華光誌輪読法座:5日(土)昼1時30分~5時
華光誌の誌上法話ですね。「法蔵菩薩のご修行」もいよいよ佳境へ。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/06/rindoku2009-6.htm
2)聖典講座:6日(日)昼1時30分~5時
今月は、悟朗先生の予定で、「正信偈講座」のつづき。地方法座は、まだ難しいが、会館の法座は、いまのところ行なえそうだ。まさに一座、一座。皆さんも奮って、どうぞ。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/06/seiten2010-6.htm
3)華光の法座ではないが、中仏通信教育同窓会(大阪支部)の皆さんが、参拝の前に、ご法座の機会をもたれる。以前、あるお寺が、大型マイクロバスでの参拝はあったが、観光バスでの団体参拝は初めてだなー。正信偈の勤行のあと、法話を2席でさせてもらう。座談会はないが、同人の皆さんも、ご一緒にお聞きくださってけっこうです。
日時:6日(日)10時~12時。勤行、法話
会場:華光会館(道場)
1年前ら、3)予定が入っていたので、残念ながら、ぼくは東京仏青に行けないが、5日・6日の2日間の日程で、4)初夏の仏青研修会in東京もある。ただし、宿泊は、すでに〆切済みである。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/06/busseisyoka2010-6.htm
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コメント
やはり、京都は違いますね。
地方だとホントに何もないんですよ。
ここのところ、毎日、求道心が沸いてきて、毎日、真宗のことを考えるんです。
まず、親鸞聖人が29才で信心決定された時と90才で遷化された時の信心は違いますよね? 29才⇒90才は信心の成長といいますか。
信心を得ると菩提心が起きるわけだから、行いが変わる。そして、今まで出来なかった19願の善が阿弥陀仏の力によってできるようになる。信の中には行が含まれている。それは自分で意識しなくても自然に阿弥陀仏の力で善を行っていけるようになる。だから、結果的に仏になれる。
人によっては信心決定してから聖道仏教が始まるとおっしゃる人もいます。信心決定したら、後は余生を楽しもう、念仏の日暮らしをしよう、なんて人はいないはずですよね。
投稿: 阿波の庄松 | 2010年6月 8日 (火) 08:51
求める気になったのは、いいね。
信心が成長したり、深まったりするのかどうか。
これは、まず他力回向信ですから、信の一念も、相続も、南無阿弥陀仏にはかわりはない。ただし、その味わいは、変化したり、成長したりするとは思います。
>信心を得ると菩提心が起きるわけだから、行いが変わる。そして、>今まで出来なかった19願の善が阿弥陀仏の力によってできるよう>になる。信の中には行が含まれている。それは自分で意識しなく>ても自然に阿弥陀仏の力で善を行っていけるようになる。だから、>結果的に仏になれる。
>人によっては信心決定してから聖道仏教が…。
このあたりは、ぼくの聞いてきたことはずいぶん違います。なぜ、捨てものである聖道門や19願の善に戻って拾わないといけないのでしょうか。その善で仏になるのなら、18願の他力回向ではなく、19願の諸行往生になります。南無阿弥陀仏ひとつで、もう満ちるのです。だから、行者にとって「非行、非善」です。
菩提心は、浄土の大菩提心(横超菩提心)と、自力、聖道の菩提心に分かれますが、この説では、ここが混同されていきますよ。行者の上に、一点(微塵も)功用を見ないのが、他力回向信です。善を收めて仏になるのでも、南無阿弥陀仏を称える功徳で仏になるのでもないのです。
回向される南無阿弥陀仏ひとつで仏になる。その回向された大信心こそが、浄土の大菩提心であり、願作仏心であり、度衆生心なのです。すべて他力回向の信心の法徳です。だから、信巻では「便同弥勒」といわれ、如来と等しいとまで、言い切られた。
にもかかわらず、我が身の現実の姿はどうか。まったく正反対の地獄一定の姿しかない。その悲嘆が、信巻に、「悲しきかな~真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし」のお言葉となり、さらに、父殺しの阿闍世こそがわが身の姿だと投影されていく、お目当ての機が示されていきますね。
だから、南無阿弥陀仏の名号法しかないんです。どこまでも、自己(機相)は、地獄一定。唯除された五逆と誹謗正法の身でしかない。別に、他力信が回向されても、この自性はまったく変わらないのです。しかし、その身にも、南無阿弥陀仏が満ち満ちてくださる。地獄行きの私の口からでる南無阿弥陀仏と申させてもらうだけしかありません。
いまたら、聖道門や19願の善に戻って收めることなど到底でなきないし、そんな勿体ないことをしている時間があるのなら、ただ「南無阿弥陀仏」と申させてもらいます。
投稿: かりもん | 2010年6月10日 (木) 01:40
≫まず他力回向信ですから、信の一念も、相続も、南 無阿弥陀仏にはかわりはない。ただし、その味わい は、変化したり、成長したりするとは思います。
成長するんですよね?
信巻には煩悩が減っていくと書かれています。ですから、親○会の高○先生などは信後の姿ではありませんよね。
≫行者にとって「非行、非善」です。
だから、自分の力ではなく、他力回向の力によって、行が出来るようになるのではないですか? 自分の力で行を行うのでもなく、善を行うのではないから、「非行、非善」というのではないのですか。
本当に信心決定したのなら、仏法、布教に人生をかけられるようになるということだし、抜苦与楽の力を得て、人を導けるようになるのではないでしょうか。
僕は今、元親鸞会の方の話を聞いていますが、華光会の方は信後の心ではないと批判しています。三願転入の道程を通らないので、親鸞聖人の教えと違うとも。南無阿弥陀仏と申して、心が変わらないのだったら、何のための南無阿弥陀仏ですか? 他力回向の心を受け取り、それがにじみ出てくるのが真実信心じゃないんでしょうか?
だから、自分を殺そうとした山伏にも「御同朋、御同行」と迎えることが出来る。また、浄土に行きっぱなしではなく、帰ってきて、衆生と共に苦しみ悩み、苦楽を友にしましょう、その一人は親鸞だよ、と、こういう心まで出てくる。これが信後の姿じゃないんでしょうか?
そういう心を持っている人がいますか?
親鸞聖人は暁ということをあげていますが、ここは
信心決定ではありません。暁は真っ黒な中に白い点が一点、入っただけなのです。信心決定はまだ、その先になります。この辺の解釈も華光会ではどうされているのか、疑問です。
最近では嶋○さんにメールしても、無視だし。まぁ、僕も教学では幼稚園レベルですから、話についてはいけないのですが。自分の感性レベルでどうも、華光には疑問があります。
投稿: 阿波の庄松 | 2010年6月11日 (金) 08:48
≫菩提心は、浄土の大菩提心(横超菩提心)と、自 力、聖道の菩提心に分かれますが、この説では、こ こが混同されていきますよ。
そんなこと、ないと思います。「浄土へ行きたい」、ではなく、「浄土へ行って仏になりたい」ですから。
地獄から逃れたいというのは天上界を目指す信仰であって、浄土を目指す信仰ではない。まして、仏になりたいなどの願いが起きているわけではないじゃないですか。
投稿: 阿波の庄松 | 2010年6月11日 (金) 08:57
なるほど。聞いてみないとわからないもんだね。
要は、他力の回向に遇うのだから、獲信者の上にも、心に変化(善や行の行い)が起こったり、慈悲や智慧がその人格からも滲み出て、念仏者にふさわしい行動や菩提の心が起こるのが、信心獲得者の真実の姿ではないかというわけやね。そうならない信後の心ではないので偽物だと。こんな感じかなー。
>そういう心を持っている人がいますか?
他の人は知りませんがね。もしそれが基準ならば、ぼくの心はお粗末そのもの。お恥ずかしいかぎり。ますますひどくなるかもしれないなーと。もし、それが基準で他から批判されるのなら、それも仕方ないわー。まるで、自力の菩薩行のように勇ましいもの。
残念ながら、ぼくの場合は、ご法に遇えば遇うほど、お念仏に遇えば遇うほど、まったく正反対の私(地獄一定)のしか立ち上がってこないなー。
繰り返しだけれども、浄土の菩提心は、法蔵菩薩様の起こされた菩提心だと聞かせてもらてます。それは、凡夫の私のために成就されたもの。しかし、それは凡夫に属して自由にするものではない。凡夫の器そのもののは何も変わらないまま、仏にして見せるという他力の願力をいただくのです。ここがすごいところというか、真実の方から飛び込んでくださったとしかいいようがない。
じゃ、それをいただいたのなら、「そのしるしがお前に生まれるだろう」-そのあたりを、今、言われいるのだと思うんだよね。
そう問われると、無漸無愧の身だけども、その「しるし」はあるんだよね。
その前に、当然、地獄に助かるために聴聞するのではないよ。だっていいまも地獄一定の身だもの。そして、もちろん、往相回向は、還相回向として働くのだけれども、衆生教化もきわもなくは、残念ながらこの身がある内は成就しない。仏じゃないということは、念のために確認しておくね。そして、共に、他力の働きだということですね。
そう、私が頂いた「しるし」は、絶対に私の中にはない、ありえないし、絶対に称えるはずのない口で、「南無阿弥陀仏」という、自利利他円満した智慧と慈悲の満ち満ちた真実そのものを称えさせてもらえることです。この六字が、すごい「しるし」なんだなー。(前と重複するけどれ)、この「南無阿弥陀仏」ひとつで満ちる世界のあることをお聞かせに預かった。もちろん、もしひとりでも多くこの心に目覚めてくれる、一緒に喜んでくれる人が生まれることは願っているけどれ、それはぼくの仕事じゃなくて、大悲の働き、南無阿弥陀仏さまのお仕事。
じゃ、ぼくは何をするのか。まず、凡夫の仕事をその生地一杯つとめらさせていく。そして「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を申す。そのお聞かせにあずった、阿弥陀様の喜びを称えさせてもらうしかない。もちろん、そのお念仏の輪が、ひとりでも多く広まれとは願っているよ。でも、ご指摘のような、勇ましいものも、慈悲も智慧もない。自分の苦労は愚痴るけれども、阿弥陀様の苦労は褒めたたえないものね。
そんなのは、信後の心じゃない偽物と言われたら喜んで、「ああ、そうなんやー。南無阿弥陀仏」。
だって、ぼくは虚仮(偽物)だもの。南無阿弥陀仏だけがホンモノ。真実。その心を聞かせてもらうだけだよ。
投稿: かりもん | 2010年6月12日 (土) 01:40