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伝道研究会

 今月の伝道研究会は、永代経法座の振り返り。

 参加者の都合で、当初の案内から日時が変更にある。それ変更はメンバーに伝えていたものの、案内状との混乱があって、参加者は4名だけ。前回も、3名からスタートするという具合で、今年に入って集まりが悪い。それについては、そろそろ次ぎの段階に向かって発展的に進む時期かのかもしれいと感じている。

 主に、各先生方の分級座談会の分かち合い。今回、ぼく自身が感じたことは、短時間で(1時間以内)で、顔ぶれの入れ替えがある時の座談では、参加者の自主的な動きを待つというより、ぼくがアクティブに動いた方が、効果的だということ。それには、ぼく自身が自由であること。自分の構えや防衛に敏感に気付いていることの大切さを、より感じた。その点、ご法の力は偉大で、どんどん自分の着ている上着を脱がされていく。3日間の法座が進むよつれて、「ぼくは、こんなにも厚着をしていたのだなー」ということに気付かれることがある。

 そのおかげで、今回の法座なら(特に1階での座談会)、ふたつの動きになった。

 ひとつは、まったく反対の表現でお勧めできたこと。詳しくは書けないが、特に長年の聞法歴があり、これからの聴聞も信頼がおける人には、いまのその人の思い込みやはからいを氷解するような、意外な言葉がけが展開するということである。その人の場合は、捨てるとか、飛び込むとか、称えよといった言葉がけでなはく、「決めよ」という表現を使った。一聴すると、自力的に聞こえる表現で、ご本人の決定(けつじょう)を促してみたのだ……。そこでは、説き手も、聞き手も、「こうあらねば他力ではない」「信心を獲るときは…」という方法論や概念に囚われてばかりで、せっかく活きた本願力のお働きが死にものになっていると思ったからだ。同時に、相手への信頼感もある。だから、そこを飛躍するには、それに先に気付いたもののまったく違う角度からの働きではないか。

 もうひとつは、言葉以外での表現のアプローチ。これまでも、ある種、寸劇仕立てや、からだを使った聞法、役割(ロール)の交代やゲシュタル的な(エンプティーチェア)関わりで、やはり、ここでも、求道者のこだわりからの淀みや袋小路からの飛躍のために、その場、その場でひらめいたことをおこなってきた。それが、今回なら、「わかりません」という方に、言葉ではなくて、絵(こころの天気)で、そのいまの感じを表現してもうらことが、ひらめいた。躊躇しないで、すぐに用意して、に参加したい人だけが行なったが、こちらも、当人も、「わからない」「なにもない」と、すぐに括ってしまって、それ以上の探求も表現もやめてしまうことは、ある種安易だが、あきらめないで、何かを感じている、何かが動きだしていることが見えている以上、その言葉になりずらい思いやこれまで表現してこなかったからだの感じに触れることができて、またそこから、僕自身が感じさせてもらえることも、自由に表明させてもらうことで、さらなる響きあいがあったことは、ひとつの収穫だった。

 その声にならなかった言葉が、絵をとして解き放され、また言葉となって気づきが起こって時、そのプロセスをご一緒していたぼくの頭にひらめいた言葉が、「無碍光」だった。

 ふたつのアプローチを通して、それが即=信心獲得という形ではないが、そんなガチガチに固まった予定概念がひとつほぐれる、そんなきっかけにはなったと感じた。

 その他のグループも有意義だったようで、特に救護室での3名限定の少人数のグループも、数を重ねるうちに、だんだいとその意義があらわになってきた。なんでも、3日間、通した参加者もあったようだ。ほかにも、対人関係の苦手なひとは、分級座談には参加しないという形の選択もありうるし、若い先生方によるグループや、お同行中心の集まりなども、それぞれに意義があった。多様な集いを幅広く持つためにも、今後も、個々人がさらに一層の力を付けていくことが大切になってくるだろう。

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