如来様にぶつかれ
さて、肝心の法座の中味である。
法話は、3座。「常識と他力信心」と題して、大信海釈をいただき、翌日は、大経の法蔵菩薩の発願から、重誓偈のこころをいただいた。かなり、ご法話は、丁寧にお取り次ぎした。高山の方は熱心に、お念仏をしながら聞いてくださるので、ついつい力が入って、長くなる。
今回は、東海組が3名に、飛び込みで富山から1名。日曜日に、さらに富山などからも加わり、結局、35名ほどのお参りがあった。
求道者は、苦しいところにたっている人たちが多かった。これからが聞法の始まりだったり、いまは結果を探らず、しっかりご聴聞してくださいという方もあった。すぐに衝撃的なことや、外側の烈しい衝動は目につきやすいが、実は、そんな派手なことがなくても、その内では少しずつお育てをいただいて深まっている。逆に、外面に派手というか、烈しい体験をするのに、まったく深まらない人も、たまにはいる。それを繰り返する人は、何か心理的な傷を抱えているのかもしれない。それはともかく、大方は、内面の深まりには、本人は気付けないものだから、どうしても、ハッキリした結果ばかりを焦る苦しい時期が続く。意識のレベルでは、なにも変わっていないからだ。それどころか、まったく闇に包まれて、むしろ後退したとしか想えないのである。宙ぶらりん状態ほど、苦しいことはない。聴聞に行くのも、絶対に嫌だが、さりとて行かないわけにもいかず、家にいても苦しいだけだ。何か、惰性でお参りしているが、さりとて聞き開けるようには思えない。口を開いても、どうも取り繕っているばかりで、本心もわからないというのである。実は、そんな時が、説き手側も、要注意である。八方塞がりで、こちらもその苦しさを変えてやりたいと、焦って何かを与えてしまいがちである。求道者側にしても、苦しいのだがら、何かすがりたい。そこに、渡の船で与えてもらうと、有り難いものや、念仏やプチ体験などを握ったり、取り込んだりして、出来上がろうとする人が多いのだ。しかし、そんな誤魔化しは、先輩同行の前では通用しない。みんな、同じ道を通ってきたので、よくわかっているのである。そこで、同行の中には、相手をよく理解しないままに、すぐにつぶしにかかる人がある。だいたいが、自分が我慢できないのである。それで、大事に握っているのもを強引に奪ってしまって、相手を傷つけたり、妙にこじらしてしまうことが多々ある。実は、そんなに無理をしなくても、破綻するものは自ずから破綻する。むしろ、そんなときほど、じっくり構えて、多少泳がせているぐらいのほうが、いいケースが多い。といっても、これもそれぞれのケースがあって、絶対的なものはない。ただ、誤魔化している時ほど、何かチクチクしている、針の筵はないでのある。本人がいちばん分かっているのは確かだ。
でも、ほんとうは、その苦しいところからが聞法が始まるのである。まったく何度も聞いても変わらない、分からないときこそ、苦しい私の内部では、大きな格闘が起こっているのである。そこを、お同行さんに励まされたり、叱咤されたり、ときにやさしく受容されたりしながら、私-如来との一対一に向き合う世界に出せてもらう。だから、本気になって、如来様にぶつかってみればいいのである。きれいごとではなく、わからないものは、わからないと、ぶつかってみる。ここで、遠慮はいらない。自分の生地一杯で聴くしかない。自力だろうが、他力だろうか、どうせ、私にはそれがわからないのたから。私の理解の浅さは、意識=自力、無意識=他力、程度でしかない。ならば、精一杯、如来様に尋ねてみたらいいのだ。
如来さまの、「汝、一心正念にして、直ちに来れ!」の、本気の呼び声が、ハッキリ届く世界があるのだ。
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