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耳が残る

 昼過ぎ、以前から電話やメールで相談に乗っていた同人のお母様が、お亡くなりになったとの訃報が入ってきた。

 今週の月曜日には、意識が混濁する状態になられた。それまでの電話相談では追いつかずに、どうしても父に会って相談したいといわれたが、法座の翌日ということあって、ぼくが対応することになった。急だったが、うまい具合に、1時間程度なら時間が取れた。

 最愛の人が、目の前で、苦しみながら死の淵にたっている。子には、耐えられなほどの悲しみ、不安、そして苦しみが去来している。その人も、激しく動搖して、ぼくの顔をみるなり、泣き崩れられた。さらにそこには、まだ元気なうちに、せめて意識のあるうちに、なぜ仏法が伝えられるないのかという、深い後悔の念もあった。

 真宗は、平生業成の教えだ。だから、臨終でも間に合う教えでもある。しかし、身体も、心も錯乱した臨終間際では、間に合わないこともある。だが、意識はなくても、まだ人間としてのいのちがつながっているうちには、最後の最後まで、この耳の機能だけは残ると聞いている。お念仏は称える力はなくなっても、「南無阿弥陀仏」の六字の御名を聞くことはできるのではないか。だから、いちばんご縁が深く、そのご恩を受けた子の口を通して、耳元で、「南無阿弥陀仏」と、ひたすらお念仏をすることを勧めた。そして阿弥陀様におまかせする安心の世界のあることを、その大悲の広大さを、最愛の子の口をとおして、易しくシンプルに話すことをお伝えした。苦悩を有情を捨てずにやるせない大悲の親は立ち上がられた。まさに、母と子が、まごころををこめて寄り添う、その姿こそが、南無阿弥陀仏そのものではないか。

 どんなご因縁があってか、この娑婆に、親と子として生まれさせていただいたのある。

 そして、その深い、大きな慈愛のおかげで、私は大きくしていただいた。同時に、成人するとまた、違った複雑な感情や葛藤で相まみえることもあるのが、親子である。その縁は、この世のなかでも、もっとも深く、大きく、厄介で、かつもっとも素晴らしい関係だといっていい。

 たった1日半ほど間だったが、さまざまな周りの懸念や配慮もある中でも、お念仏を伝え、そのお心を言葉にして、最愛の人をお念仏の中でおくることができたというのである。

 いま目の前には、母の死という、子にとってもっとも過酷で辛い、事実が覆い包んでいる。切り裂かれたような悲しみの渦中。しかし、その悲しみに寄り添い、包むように大悲の念仏は生きて働いてくださることも、彼女は感じていた。

 それは、自己中心の私の都合のよい聴聞を破り、聴聞不足の私へのいのちがけのご説法の姿であると同時に、その死を通して残された父親、子供たちには、元気ないまの時にこそ、お念仏の教え、仏様のお心にぜひ出会ってほしいとの願いとして、動きだしていることを、その人の懺悔の言葉を通じ、さらに自信教人信の態度を通じて、ぼくも有難く教えていただいた。

 南無阿弥陀仏

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