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4月の輪読法座

 華光誌の輪読法座。

 華光誌69号2号。巻頭言の「南無阿弥陀仏の偉力」を輪読し、悟朗先生、85歳の自己内省と、法悦の境地をみんなで味わった。

 冒頭から一部を抜粋する。

「後生の一大事」「自他力廃立」等、求道にとっての肝要な言葉の概念的な理解に止まって、その人間受生の肝要な事実は、つい見逃しがちである。そんな日々を重ねていた時、フト自らの受生の目的であるこの事実の再認識を迫られる時がきた。(略)。
 気がつくと、もう85歳である。人生余すところ、もう幾許もない。足元に無常が迫っているというのも、つい観念的になっている。(略)。こんなことを昿劫以来、繰返て何ともなかった実績だけは充分である。しかも、「われは、既に往生の一大事は解決済み!」との概念だけを積み上げて、傲(ごう)然としてきた。

 私達も、ともすれば正解だけを覚え、それを口に出すだけで満足するような聞法をしてはいないか。何のために人間に生まれてきたのかと問われれば、「人間受生の目的は、仏法を聞くため、後生の一大事を解決だ」と、正解がすぐに口にでる。しかし、それが言葉のうえの概念的な理解で止まっていては、まことに空しい。ほんとうは、どうなのか。ほんとうの私の腹底にある心は、実はまったく違うではないか。正解になっていくのではなく、その違いを知らされることが、すべてである。それは、無常の身ということしかり。85歳の先生をして、差し迫る無常も、つい観念的にしかとられらず、「既に聞いた」という傲慢不遜な思いであるとの自己内省が綴られる。せいぜい、健康や身体に不安を感じることはあっても、ほんとうに無常にこころを寄せて、聞法精進することはないではないか。あくまで、人ごとの無常、遠い世界の死を眺めることで、無常観が終わってる。そんな、ゆるい聞法しか出来ず、観念的にしか聞けない、自己に気付かせてもらえるのはどこでだろうか。

 それは、実は、私にかけられた、他力の働き、如来大悲の働きの出会うほかにはないのである。なぜなら、このとてもとても救いようのない、私の腹底を見そなわしてくださり、出来上がったのが、超世の悲願なのだからである。

 今日の座談で、なかなか信仰座談会で、自分を問題にする、表明する、または、自分の気持ちを感情に巻き込まれて爆発させるのでも、また歪めないで伝えていくことは、とても難しい。それには、やはり法座での長いお育てあってのたまものなので、少し慣れやコツといったものも必要だという話題になった。そのとき、初めて出会った学生世代の青年が、こんな発言をした。「ぼくらは、ネットやテレビゲームで育って、自分の欲しいものがあれば手に入れることができるし、欲望を満たすことばかりで生きてきた。そこでは、他人のことばかり気にしている。あの人はどうか、他人をアラを探して批判したり、そんな人に(自分が)どう見られているのかばかりが気になって、ほんとうに自分ことが見えていない。だから、自己を振り返る、つまり反省することもできないのだ」と。いやいや、若い人だけではない。それは、どんな世代でも同じだし、まったく、ぼくの姿でもある。

 なぜか。いつも私の基準は、私を物差しにしか考えられないからだ。当然、実感のない、罪悪も無常も、そして南無阿弥陀仏も、弥陀の本願も、観念的な神話や物語程度にしか考えられない。それは、当たり前だ。この私が実感できたり、理解できることだけが、真実の世界なのだから。しかも厄介なことに、私達の目は、外側を観察し、または警戒するために、外みるようについている。だらか、いつも外ばかりキョロキョロ見ては、批判し、評論家がうまくなる。と同時に、その他人の目にうつる自分ばかりを気にして、不自由に生きているのが、実態ではないか。それでいて、傲慢な全能感にも包まれているのだから、なんとも厄介である。

 そんな中で、「私を問題にし、具体的に聞け」とお示しくださるのが、仏法である。しかも、そのときの基準が、実は弥陀の本願なのだ。わたしから見たら、ウソでしかない、信じられない、南無阿弥陀仏だけが、この虚仮不実の世にあって、末通る唯一のまこと、それを基準に、もしくはその光に照らされた自分を聞けということである。内省や〇〇観といっても、結局、私の力では絶対にお手上げだいうことなのだ。

 それなのに、まったく不思議なことに、常日頃は自分を中心に人を裁くことにしかない私に、南無阿弥陀仏が至り届くことで、その法の偉力によって、実は地獄行きの私、虚仮不実の末通らない私のほんとうの姿を知らされていく。それは、真実だと思っていた自己が、実は虚仮そのものと知れることであり、ウソだと思っていた南無阿弥陀仏こそが、実は真実なのだという、大転換の世界がある。それが他力回向の世界なのである。

 まことに、仏法聴聞とは不思議なものだな。

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コメント

 かりもん先生、昨年8月と10月の東京法座にお参りさせていただいたマッサージ師です。3月に国家試験に合格し、学校を卒業しました。
 卒業した月に、それまで「分からん、分からん」と泣いていたのが「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と変わってしまい、不思議不思議のほかはありません。

 如来さま、ご開山さまを踏みつけ、お同行を蹴散らしている阿呆の私にかけられた阿弥陀さまの願いは、絶えることなく私に届いています。

 どこどこまでも自分の思い最優先で頭の下がらぬ私ではありますが、頭を下げさす力を仰ぎ、我が身に後生の一大事を問うていきたく思います。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

投稿: 純朗房義信 | 2010年4月25日 (日) 06:23

ご無沙汰としています。
 ぼくが覗くブログを通じて、ご活躍の様子は窺っていました。うれしい、コメントありがとう。
 やっとご聴聞の出発点に立たれたのかなーと読ませてもらっていました。実は、これから聞かせてもらうんですよね。そして、ほんとうに地に足がついてから、どこに行かれるのかが、楽しみなんです。
 もし、またお会いする機会があるようなら、またお話聞かせてください。

投稿: かりもん | 2010年4月25日 (日) 22:39

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