三帖和讃で味わうこと(1)
三帖和讃の下巻である、『正像末和讃』の初校の校正作業が、折り返しをすぎた。
ほんとうは、もう少し刈り込んでからの初校の作業でもよかったのだが、1校以前の、いわば0校という感じで預かることになった。それでも、上巻の『浄土和讃』の初校の作業に比べると、雲泥の差で、整っている。上巻の編集作業中に、何度も、編集者とルールについて打ち合わせをしたので、先方も、ぼくもかなり迷うところが少なくなっている。それに、前回は、途中で、大きく段組が変更されたり、字体が変わったりで、最終的なレイアウトが決またのが、3校目の段階になった。それで、結局、6校正も出せねばならないほど、苦戦した。その点、今回は、この調子なら、普通どおりに3校で校了となりそうだ。
今回の作業で、いちばんこころに残っているのは、これまで1首、1首の和讃を単独で味わったり、語句の解釈を読んできた和讃を、体系的に全体を窺いながら、その1首、1首の和讃の位置づけが、よく分かるようになったことだ。
たとえば、『浄土和讃』にある、「現世利益和讃」。「南無阿弥陀仏をとなふれば」で始まる15首。とても有り難いものであるが、ただ、ここだけ味わうと、なにか異質な感じもしていた。しかし、『浄土和讃』全体の構造をみてみると、この和讃の意味がハッキリとしていくる。
全体の趣旨をあらわす巻頭和讃(2首)につづいて、「讃阿弥陀仏偈和讃」(48首)で弥陀の浄土の依正二報(つまり、浄土の環境と、浄土の主体である、阿弥陀仏と、聖衆方)のすばらしさ、そのお徳をさんざん誉め讃えて、その浄土の教え、その浄土に生まれる正因が説かれる浄土三部経を讃える「三経讃」が続き、その浄土や弥陀を誉めるのは三部経だけてなく、釈尊一代の諸経の代表的なものがそうであると、「諸経和讃」で補強されたあとで、そんな他力念仏の来世での広大な証果を讃嘆しておいてから、その御利益は、ただ来世だけでなく、今生(現世)でも、広大ですよ、と続くプロセスのなかに、「現世利益和讃」がおかれているのである。なるほど、来世の御利益の上に、現世の御利益があることが、これでハッキリするのである。しかも、そのあとも「諸経和讃」の一種ともいうべき「大勢至和讃」をあげられるが、これは「三経讃」の補強すると共に、勢至菩薩は、源空(法然)上人のご本地であると結ばれている。つまりは、それは七高僧すべとに通じることで、その代表として、恩師である智慧の法然上人へとつながることを示して、『浄土和讃』を結びと共に、次ぎの『高僧和讃』を導きだす役割も担っているのである。
それは、『高僧和讃』に入っても、正信偈のように、龍樹菩薩から始まり法然上人までの七高僧の行跡を讃えると共に、教義上の発揮を示して、褒め讃えられるのだが、中でも法然上人は特別で、行跡、発揮以外に、追讃として臨終のありさまが細かく追加される。そこで述べられることは、「光明」をもって、法然様を褒めたたえることで、師を、阿弥陀如来の智慧門(光明無量)から現れた勢至菩薩のご化身として仰いでおられるところへと、つながってくるのである。まあ、なんともすごい構成力である。
そんなことを語りだすとキリがないのだが、いまは、『正像末和讃』も、「三時讃」58首や、「疑惑讃」も、ほぼ終わって、明日からは、「皇太子聖徳奉賛」に入る。その「三時讃」の恩徳讃にいたって、これまてさんざんみてきた和讃が、体系的に眺めてると、ますます尊く感じられたことに触れたかったのだが、前置きのところで力尽きてしまった。これは次ぎの機会に。
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