参観日
朝から、『正像末和讃』の作業。調子よく進行して、このペースなら、今月末には、初校が渡せそうだ。のってきたが、昼からは、小学校の参観日へ。
昨日は、温かくて、いい具合。当然、事務所のあつい(厚い? 熱い? 暑い? そう信心に篤い)御方も、すでに夏仕様。半袖で、事務所は窓全開となった。 ところが、今日は一転、雨になって、ちょっと気温も逆どもりだ。さすがに、朝は、半袖1枚では寒かったのか、ぼくの大きめのシャツを貸し出して、着重ねである。
出かける時には、雨はかなり強く降っていた。この時期は、気温も、天候も、目まぐるしく変わる。
一年生の最初の参観日。桜はすっかり落ちたが、若葉が雨に打たれている。
4月なので、一年生の中には、まだ幼児のような小さな子もいる。体型だけでなく、態度も、園児の気分も抜けない時もある。さんすうの時間。4をおはじきで示して、「1と3、2と2、3と1」に分けることを時間をかけて確認していく。その後は、5が「1と4、2と3、3と2、4と1」に分かれることを、ひとつずつ答えてもらって確認をしながら進み、最後は、ふたりでおはじきを使ったゲーム形式で、数の分かれ方を覚えていく授業だった。ほんとうに、分かっていること、簡単なことから始まり(それでも、間違える)、段階的に進んでくための楽しい工夫がなされていた。易しいほうがいいのだが、あまりに幼稚すぎたり、簡単すぎてもまた飽きるので、このあたりの程度がなかなかうまかったなー。
それにしても、答え方、仕種、また間違い方も、そして、一生懸命さも、とにかくみんなかわいい。元気よく手を挙げて、先生に当てられると、一様に、親の方を見ては微笑み、誇らしげに前で答えていく。みんなが初々しい。たぶん、いまだけの特権か。
途中で抜けて、五年生の授業。体育。雨で体育館でのリレー競爭。見慣れた顔ばかりだが、あらためて躍動する姿をみていると、その成長ぶりに、びっくりさせられた。新一年生を見た後なので、その大きさにも驚いた。そういえば、カンロの一年生の授業参観も、ナナと同じ、おはじきを使った「5」の分け方だった。それが、いまや、親も一緒に考えないといけないような問題を解くようになっている。まだ小学校の間は教えられそうだが、そろそろお手上げになるだろう。
子供と一緒に歩いて帰って、雨なので、カンロを塾におくった。算数が少し苦手な時があるようで、本人の希望もあって4月から通いだしたが、なかなか習い事だけでも、忙しくなっている。
学ぶことが、どんどんやってくるが、それがどんどん吸収され、血となり、骨となって、大きくなっていく様子が、よくわかるのだ。
子供時代には、身体も、知能も、心も、一つ一つ段階的(特に飛躍的)に、成長の軌跡が、手にとるように分かるうちは、まだ楽でいい。すべてのカーブが右肩あがりなのは、見ているほうも、うきうき楽しくなる。しかしである。大人のなると徐々にその角度は弱まり、ついに平行線に近くなる。当然、自分でも、成長の実感や成果もわかりずらくなってくるが、まだ学ぶことは多いし、成長のあともあるだろ。しかである。ある時期からは、身体は衰えだし、アタマも忘れぽくなり、心も硬く、愚痴ぽくなると、成長どころか、後退する実感が強くなってくるかもしれない。それでいて、これまでの経験やプライドには固執して、なかなか厄介な代物と化していくこともあるだろう。
昨日も、食事のときに、子供が腹が捻じれるほど笑いころげていた。それをみながら、大人になったら、そんな大笑いをすることはメッキリなくなったなと、夫婦で話いた。ニコニコ笑うことはあっても、腹が痛い、死ぬほど大笑いすることは、いつごろあっただろうか。どこかで醒めているというか、何事にも馴れてしまっているのだと思うと、ちょっと寂しい気にもなった。それでも、ぼくにも今日見たような、あの初々しさがあったはずだ。そんな新鮮な、イキイキ感を忘れずいたいものだなーと。
帰宅してから、夕方までは約束のあった相談を1件。久しぶりの来館だったようだが、ぼくもリラックスして、すこしゆっくりと時間を過ごすことができた。
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コメント
喜びも体験も念仏も、何もかも奪われて、何もないところで喜べる信心とおっしゃっていますが、あなたがいっても重みはないんですよ。綺麗な連れ合いさんがおって、可愛い子供がおって、映画いけて、大病ひとつしたことない貴方がいってもね。
だったら、その全てを、幸せな生活をすべて奪われても、喜べるのですか?
もう、僕は疲れました。真宗のテープも100本近く聞いたが、もう、馬鹿らしくなりました。親鸞聖人というのは750年前の人です。その時代にはインターネットもなかったし、車も走ってなかったし、ロケット飛ばして宇宙に行くなんてことは想像にもつかなかったんですよ。だから、神様だの仏様だの、架空の存在を信じることが出来た。でも、今は違います。
宇宙飛行士の野口さんに聞いてみましょうや。どこに弥陀の浄土があるのか? アンドロメダ星雲の先の遥か彼方にあるんですか? いや、それは人間の知恵で
はかれるものではないのだ。それを思考停止というんですよ。
死んだら骨が残る。原子となって存在し続けるが、自分が人間であったことが分からない。これが科学ですよ。遺伝子が生まれ変わるということはありえません。
今更、750年前の原始人に戻って宗教やってどうなるのか?
聴聞を重ねると信仰脳が出来上がります。脳科学からいえばそれだけのことです。宗教はもう、すみやかに過去の産物として、歴史博物館に埋めればいい。事実、本願寺なんて観光地になっとるだけでしょう。
投稿: 阿波の庄松 | 2010年4月23日 (金) 17:31
うちは主人と娘が「てんねん」っていわれる性質なので二人の言動に大笑いさせてもらってます(もーなんでーって困るときもあるけど・・・)
あと息子が話す学校での先生や友達の話題かな
たまにテレビをみてばか笑いしてると、ドアを閉めてるのに勉強中の息子に聞こえて叱られます。
投稿: relax | 2010年4月23日 (金) 19:20
relaxさん>そうなんか、楽しそうで、いいね、家のなかに笑いがあって。まあ、わが家も基本的にそうなんだけど、時に、イライラが募ってね。これは反省です。relaxさんは、「てんねん」じゃないの?
阿波の庄松さん>荒れてきたね。
>だったら、その全てを、幸せな生活をすべて奪われても、喜べるのですか?
そうやね。確かにそれは嫌だなー。だって、この世の幸せを求め続けたいのが、ぼくの本性だもの。だから、そのために努力もしている。でもなー。無常って、それが役に立たないことでしょう。死んでいく時は、見事になにも残らないって。ぼくは絶対に嫌なのにね。ひとつ歯車が狂うと、何がおこってくるかわからない、そんなタネを日夜つくっている。結局、虚仮不実のこの世の幸せにしか執着していないことを教えてもらっていますよ。まあ、そんなこと言っても、外面的にも幸せなお前がいうことなど、なんの説得力もなんのでしょうから、いくら言っても、無駄やね。ゴメンネ。
投稿: かりもん | 2010年4月24日 (土) 00:44