« 動物園  | トップページ | 『ジャック・メスリーヌ』~ノワール篇~,~ルージュ編~ »

東海支部法座

 東海支部法座。

 まったくの新人はいなかったが、新しい人が多くて、ここでしか会わない人は、なかなか名前と顔が一致しないほど。参加の1/3以上が、まだ同人ではない方たちだ。

 歎異抄の第九章のお心をいただく。

 かなり丁寧に解説し、そのおこころをお取り次ぎしたつもりだが、全般に、反応はいまひとつの感もあった。もちろん、それもある程度承知のうえで、当然、しっかり聞いてくださる方もあれば、かなり深いところで味わてくださる方もある。相手の心境はどうあれ、お聖教をお取り継ぎしてお伝えするのだがら、手抜きはしない。

 それに、ここでの親鸞様のおこころがいただけるかどうかが、自力と他力のたいへな分かれ目だとも思ったからだ。

 ご聴聞は、ただ理屈でわかるだけでも、気持ちや気分の持ちよう、有り難い感情の問題ではない。

 ともすれば、自分の力の範囲で、つまり自分の頭や感情の範囲で、聖教を理解したり、念仏を有り難かったりしている。

 だから普通は、そこでおこる「問題」で、悩み、それを受容されたらうれしかったり、癒されたり、ほっとしたり、その逆なら落ち込んだりして、一喜一憂しているのだか、ほんとうの聞法とは、そのゴチャゴチャ考えている、思っている、悩んでいる「私」そのものが、仏様の教えによって問われくるのである。

 結局、ゴチャゴチヤ言ったり、泣いたりしているけれど、あなた本性は、どうなのだと。

 だから、なんでもありで、なんでも出て来る、私のこころや思い(これはけっして止まないのだが)、そこに捕らわれて虜になって悩み、問題にしているだけなのか、それとも、そこから一歩出て、その自分に目を向けずに、唯一、変わらない真実である弥陀の本願を頼りの身に、丸まるならせていただけかのか、ここの変わり目が、自力と他力の違いだといっていいのかもしれない。

 その意味では、私達が日頃、使っているような信じる、信じないのレベルや、喜べる、喜べないという感情のレベルで、「弥陀の本願」を信じるのではないのである。

 ほんとうに信じることなどできない、つまりは絶対に救われることのない、私に出会っていくしかないのである。しかし、そこには、その救う手がかりが微塵もない私をめがけて、絶対に仏にしてみせるという弥陀の大悲、大願がかかっているのである。いや、そこにしか願いはないといっていい。

 それにである。私が分かるとか分からんとか、有り難いとかもう嫌だとか、宿善どうたら、聴聞がどうたらと、気持ちや理屈が言えるのも、結局、だれのおかげだというのだろう。

 いままで数々の無数のいのち、仏様のいのちを奪い、そのおかげの上に今日の私の迷いのいのちをながらえせてもらい、さらにその上に、深い深いご因縁があって、いまの真実を聞く場に足を踏み入れさせてもらい、お念仏を教えてくださる知識、同行に出会い、そして、いま「南無阿弥陀仏」称え、聞く身にさせてもらっているのではないか。

 そんな足元も省みずこともなく、何を聞くというのでしょうかね。

 法座終了後、懇親会に出た。これか楽しみだ。華光との縁で、ますます造悪無碍の一道に拍車がかかった同人方と、飮酒(おんじゅ)の罪を犯したので、少し酔っぱらっている。それでも、片づけをすませて、子供を寝かせた。あとは、眠いので、今夜は、はやく寝たいと思っている。ただ、それだけなのである。有り難そうな殊勝なことを書いていても、凡夫の自性は、疲れたら休みたい。ただ自分が楽したい、幸せになりたいと願う、それだけのつまならい物柄でしかない。

 しかしね、その私のこの腐った、地獄を造る口から、「南無阿弥陀仏」と出でくださるのですよね。この南無阿弥陀仏が他力そのもの。南無阿弥陀仏を離れ仏様はおられない。それが、私の口から飛び出してくださてっいる。

 なんと不思議な、勿体ないことじゃないですかね。それで降参ですよね。 

|

« 動物園  | トップページ | 『ジャック・メスリーヌ』~ノワール篇~,~ルージュ編~ »

法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

ここに座らせていただけるのに、どれほどの仏様いのちと御苦労をいただいているのか。
私がむさぼっているのは仏様の命だと、初めてこの身に聞かせていただきました。
厚く厚くお育ていただける幸せを思います。
私をみそなわしたご法話ありがとうございました。

投稿: カイババ | 2010年4月19日 (月) 12:39

カイババさん、お世話になりました。
そうですね。如来様のいのちをむさぼって、大きな顔をして生きているわけですからね。だから、今度は、如来様に食べてもらう番なので、四の五の言わずに、食べてもらえばいいんですがね。

投稿: かりもん | 2010年4月19日 (月) 23:34

あぁー、そうです。私は私の心に捕らわれて虜になっているのです。ぽこぽこハンマーを持って、モグラたたきの穴をじっと見て、出てきてはたたき、出てきてはたたきしているのです。「必ず救うの阿弥陀様の心」を疑う心です。たたいてもたたいても出てくるのです。
もうそこはほっておいて、顔を上げたいです。

投稿: キャロル | 2010年4月20日 (火) 16:04

キャロルさん、ようこそ。あ、モグラ叩きだったんですね。確かにこれは、キリがないです。叩いても、叩いても、叩いても、出てきます。だから、元を断つしかない。でもねー、元を断つにも、死ぬまで止められないのが、自性ならどうするのか。
そうなると、死ぬしかないなー。古い自分、自力の自分のいのちが終わり、新しい他力のいのちに生まれ変わる。そんな自力なんかにかまわないで、他力にまかせていく。それがなんと、「南無阿弥陀仏」たったひとつで済む世界があるんです。どうか、一刻もはやく、ご本願を仰ぐ身になってください。

投稿: かりもん | 2010年4月21日 (水) 00:58

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 東海支部法座:

« 動物園  | トップページ | 『ジャック・メスリーヌ』~ノワール篇~,~ルージュ編~ »