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収穫大の「真宗法座の集い」

 今年の真宗法座の集いも終わった。

 毎年、思うことだが、一度として同じ内容で終わったことはない。

 顔ぶれが変われば、内容も変わる。よく似た顔ぶれで、その時の心境の変化で、また違う味になる。昨年がよかったから…、これまだが〇〇だから…、という固定した見方や期待では、結局、今、ここの私がお留守になってしまう。今年は、今年の、いま、ここでの出会いがあるのである。

 第一、ぼく自身の心境にしても、昨年とはまた異なっている。心境が異なれば、態度も当然変わる。主催者であり、世話人のぼくが、より広く、受容的に接することができるようになって、そのことが、自然と皆さんにも伝播していくと、知らぬまに皆さんも、そんな態度になっておられる。世話人の存在が、透明であると感じてもらった時ほど、皆さんが、自由に、また自分自身で変わっていかれるのだから、有り難くも、不思議である。

 終了後の分かち合い。最初に全員で、車座に座った時と大違い。ぼくも含め、参加の全員の顔つぎがおもしろいほど変わっているのた。最初は、固かったひと、心配顔だったひと、辛そうなひと、不安げなひとなど、みながまだヨロイを着ていた。それが、一応に笑顔になり、やわらかくなり、その中で、それぞれの抱える課題に向かう力をもらったようだ。ことばがなくても、そのひとの中にしみ込んでいった、ご法の躍動を、イキイキと感じることができるのである。

 今回は、最初のぼく自身の参加の意図どおり、最近のぼくが指向している方向性のグループを持たせてもらった。まさに、パーソンセンタード指向の念仏法座(もしかすると、入れ代わることもある。この二重性が特徴だ)といっていい内容で、参加の人達を尊重しながら、出会いがあり、それでいて人間的な出会いを超えた念仏に始まって、念仏に帰っていく場を共有しあう。そんな集いだった。

 そんな穏やかな、温かい雰囲気の中で、各自が、自分自身の課題、聞法上の淀や行き詰まり点が、自然と浮かび上がってくるような集いになっていった。それは、ぼく自身の上でもそうであって、ひとから強制されたわけでも、批判や指摘されたわけでもないのに、皆さんの態度に触発される中で、炙り出しの文字が浮かびように、クッキリと浮かびあがり、それがここしばらく続いてる課題、プロセスがつながっていくという有り難い体験をさせてもらった。

 とにかく、いろいろと気付かせてもらうい、法座での課題に対する解答やヒントや、新たな問題をいただいたり、とにかく収穫が多い集いであった。

 そう、このブログのダイトルどおり、「実践的! 真宗法座論」を、地で行く体験的な法座になったのである。

 それで、ここで気付かせてもらったこと、体験させてもらったこことを述べていきたい。

 それが、これからの真宗法座、もしくは華光会の法座へと、必ず展開していく、「核」になるものだという確信があるからである。

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法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

お久しぶりです。
高速道路の料金、四国だけ3000円になり、益々、京都が遠のきました。お電話させてもらうにしても、1時間話せば、4~5000円はかかるでしょう。
ですので、ここに書かせてもらっているのです。

今日は御一代記聞書の陽気、陰気についてです。
これは(陽気というのは)、
自力の廃った人が正しく善悪を行えるようになった状態だという風に聞きましたがどうですか?

まず、自力が廃り、正しく善が行えるようになっていけば阿弥陀仏の救いに遭えると僕は聞きました。機の
深信が立っただけでは救われているとはいえないと。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年4月13日 (火) 04:57

↑珍しい教えですね。
S会元講師の上田氏の話(「浄土真宗 講義」というサイトの「自力を捨てる」という演題)と同じ主張ですね・・・

投稿: るい | 2010年4月13日 (火) 13:43

真宗法座の集いでは大変お世話になりました。
最後に丸くなって座ったときは、参加者みんながひとつの家族のような、そんな温かさに包まれているような感じがしました。参加前は不安でしたが、1泊2日皆さんと過ごした後は解散するのがさみしかったです。
ありがとうございました。

投稿: キャロル | 2010年4月13日 (火) 18:47

キャロルさん>ようこそ。今回は、違うグループだったので、あまりお話はできませんでしたが、法友が増えてよかったですね。仏法は、ひりとひとりの後生のしのぎです。でも同時に、弱い凡夫はひとりぽっちでは聞法は出来ないし、聞き間違いだらけ。そこを、前を歩く法友、知識に励まされ、教えられ、時に叱咤されながら、念仏の白道を歩ませてもらうのだと思いますね。後生の一大事、一をつけて大事に聞かせてもらってください。

阿波の庄松さん>お久しぶり。
るいさん(初めまして)も指摘されていますが、ぼくもこの説はちょっとどういう意味か理解出来ないです。どなたの説かは知りませんし、また興味もありませんが…。
 蓮如さまの陽気・陰気は、宿善の遅速、已今当の往生について述べられている条のことでしょうか。
 真宗は、自力を捨てること=他力に帰すことであって、それから善を積むことではありません。相対的な善悪から離れるわけです。万善万行の南無阿弥陀仏に満たされるわけですから、善悪の問題には用事がなくなる。それに、親鸞聖人が、「自力のこころを捨つというは、やうやうさまざまの大小の聖人、善悪の凡夫が、
みづからの身を善しと思うこころを捨て
身をたのまず
悪しきこころをかへりみず……」(唯信抄文意)
といわれるように、身の善悪から離れて、ひとすじに弥陀をたのむことなんです。
あと、「機の深信」だけが単独で立つこともありませんよ。これは、機法二種一具で、かならず、法の深信と一具です。単独のものは、単なる罪悪感であって、深信とは申しません。
こんなところで、理解いただけましたか?
それとも、別の点が聞きたかったのかなー?

投稿: かりもん | 2010年4月14日 (水) 01:20

本当にありがとうございました
司会者研修会に続き、自分を知る(心に触れる)
よい機会となりました。
色んな意味でこれからの自分がなんだか少し
楽しみです
今週末、今度は名古屋でお会いしましょう。
ではでは、宜しくお願いします。

投稿: 蓮華 | 2010年4月14日 (水) 23:26

蓮華さん、ありがとう。
そうですね。2月、4月と、従来の法座とは違った意味で、いいご縁でしたね。確実に、蓮華さんの世界も拡がってるんじゃないかなー。

そして、連続の登場やね。そうか、特製ジュースも飲みましたか。マクロも、ローも、欧米、とくにハリウッドなんかでも、かなり流行ってるようですね。

日曜日お世話になります。楽しみにしてます。

投稿: かりもん | 2010年4月15日 (木) 00:53

そう。
るいさんのおっしゃるS会元講師の上田氏の話なんですけど…。説明不足だったかもしれません。書いてる僕もさっぱり分からないのですから。では、気を取り直して次の話にうつります。

お育てについて。

求道者を卵に例えると、熟していない時点で「あなたは悪人ですよ。」と責めたてるとカラ(自力)が割れても、黄身と白身がドロッと出てくるだけの結果になる。それどころか、責められることから自分を守ろうとするので逆効果になる。

卵が充分に育つとヒナがかえり、カラ(自力)が自然に割れる。これが信心決定だそうです。

お育てとは卵が充分に育つまで心を守ってくれなければいけないだそうで。だから、例えば、殺人犯を責めても意味はないそうです。

この話について、どう思いますか?
僕は華光大会でみなから責められ、それがトラウマとなり、参詣できなくなりました。どうして、僕を責めるのですか? もう、充分、今までの人生で傷ついてきているのだから、心を守ってもらいたい。華光会には何か、無常観、罪悪観で責めたてろ!という教えでもあるのですか?

投稿: 阿波の庄松 | 2010年4月21日 (水) 04:27

 阿波の庄松さん、めげずに気を取り直して、かきこんでくれんですね。
 法座で反論されたり、責められたようとういことが、またつらさが思い出されたんですね。たぶん、そのものがトラウマというより、これまでの過去の辛い経験が、その場で受容してもらえなかったことで、何度も蘇ってくるんじゃないかと思いました。
その意味では、言葉は真宗の用語を使い、後生の一大事を解決する場である法座に参加しているけれど、実際は、この世で傷を癒されたかったり、もっと甘えたかったり、認めてもらいたかったりするあなたがいるのだなーと聞かせてもらいました。
 そして、もうひとつ聞き手側が、ただみんなから責められたとしか思えなかたったのですから、その点では反省することは反省しないといけませんね。そう思いますよ。でも同時に、これから先の言葉は入らないかと思いますが、少なくても、その人達は、あなたを一人前の求道者として認め、本気になってなにかを伝えようとされたのではないかとも思っています。それにしては、それだからこそ、もう少し相手の資質を見抜くだけの配慮が必要だったのかもしれません。
 ただ、ぼくには某氏のように、宿善・無宿善を見抜く力がないので、常に、「いますぐ来い」の南無阿弥陀仏の勅命を聞いてもらいたいとおもうだけです。

投稿: かりもん | 2010年4月22日 (木) 01:41

後生の一大事について

よく死んだら地獄に落ちると聞きますが、僕は「もう、俺は既に落ちているんだ!」と反発する心がありました。

上田氏の講義では「死んでも終わりになりませんよ。また、その業を背負い、生まれ変わりを繰り返し、果てしなく苦しみ続けていく。これが後生の一大事ですよ。」と聞かせていただいた。

ですから、自殺しても終わりにならない。それで終わりになるのだったら、火傷した時、安楽死すればよい。わざわざ、80才、90才まで生きていることはない。苦しいだけだから。死にたくても死ねないから、
生きるしかない。その生きる中で真理を求めているということです。

≫実際は、この世で傷を癒されたかったり、もっと甘 えたかったり、認めてもらいたかったりするあなた がいるのだなーと聞かせてもらいました。

どう受け取って頂こうと自由ですけどね。前にも聞きましたが、この世の中、弱肉強食なんです。

僕は薬害エイズの川田龍平にも会ったことがありますが、彼ら被害者は真宗からすると「自分が悪いから、そういう目に逢った。」ということですよね?

だから、何が悪いんだと聞くと「それは仏様しか分からない。」とおっしゃる。思考停止ではないですか。

差別を受けている側の人間の罪とは何ですか?
僕はここが一番、分からない。

求道者とおっしゃいますが、みな、たいした苦しみは抱えてらっしゃらないように思う。そういう苦しみを抱え、道を求めていたのは中村久子さんくらいだと思います。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年4月22日 (木) 16:26

世の中しんどいことばかりだと思う今日この頃、お気持お察しします。

>差別を受けている側の人間の罪とは何ですか?
>僕はここが一番、分からない。

大事なのは、法の鏡に写る自分の姿を認識する事じゃないでしょうか?

差別される自分、その事を自業自得だと納得できる時なんて、気分が良い時位だと思います。因果の道理がわからない、ヤケクソの自分が見えて来ます。

納得した上で南無阿弥陀仏じゃないですよ。

自分が本当に欲しいものと、阿弥陀様が下さるとおっしゃるものは違うと思います。

自分が本当に欲しいものとは心の平安とか、満足感とか。

地獄に落ちている自分と、それを救うぞという南無阿弥陀仏を聴くしかないと思います。

横槍ですみませんでした。

投稿: 樹氷 | 2010年4月22日 (木) 22:34

≫自分が本当に欲しいものとは心の平安とか、満足感 とか。

あはは。馬鹿にしないでくださいよ。そんなものは壊れる幸せじゃないですか。仏説比喩経のフジつるにぶらさがった人間に落ちてくる五滴の蜜じゃないですか。

法の鏡とおっしゃるが、それが見えないから苦しんでいる。俺は被害者だという意識が抜けない。この業理論というやつは差別を生んできた。あの人は過去世で
悪いことをしたから、障害者になったといわれ、忌み嫌われ、それが差別思想につながった。

キリスト教は確かに戦争を起こした。でも、聖書の教えに従い、障害者を決して差別はしなかった。現在のバリアフリー社会はキリスト教の影響が多分にあるんです。

そもそも、お釈迦様の500年後に出てこられたのがイエスキリストですから。

俺は教会でも自分の何が罪なのか?をよく質問したが、納得いく答えは貰えなかった。原罪を受け継いでいるから罪人とか。もし、聖書の預言が成就して、世界の終わりが来たら、業なんていってられないだろうよ。みんな、死ぬんだから。そこでクリスチャンだけが救われるんだから。

まぁ、今は僕は教会に通っていないので、負け犬の遠吠えですけどね。

前の書き込みで書いた真宗・求道者の卵の話は、細川厳氏の話です。氏は「機を責めること」には意味はないと書いています。それで出てくるのは黄身と白身だから。必要なのは親鳥の熱。それがお育てだと。

華光会ってずいぶん「機を責めること」をしてきたんじゃないんですか。だから、そのなごりが残っている。教義的にはよいことを教えていると思うが、あのような座談をするんだったら、こちらもそれ相応の態度になりますよ。顔を真っ赤にして本音を吐き出していかざるを得ない。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年4月23日 (金) 04:40

樹氷さん、ありがとう。別にコメントなんだから、横槍でも、大いにけっこうですよ。

阿波の庄松さん、ずいぶんの憤慨してるね。うまく理解されずに、どこかで否定された気分で、ますます怒りが込み上げてきて、ぶつけずにおれんのかな。

もし座談会がいやなら、座談会にでないという参加の仕方もあるんじゃないの。実際、大勢の人の前に出たり、表明したりするのが、しんどい人も増えていて、そういう参加の方もふえてるようです。

ただ、ぼくは、いまの自分に引き寄せて、具体的に自分のところを聞いていかないと、いつまでも、弥陀の本願は人ごとになると思っているので、そういうお勧めをしていきます。それは、確かにしんどいことでもあるかもしれないので、あなたのおっしゃるように、ますます配慮が必要になっているとは思っています。でも、あのときのご法話でも伝えたように、そんな人こそが、弥陀の本願のお目当てなんですからね。そこで遇っていくしかないんじゃないかなーと。

投稿: かりもん | 2010年4月24日 (土) 00:24


> 求道者とおっしゃいますが、みな、たいした苦しみは抱えてらっしゃらないように思う。

おっしゃる通りと思います。

私、むかし、ある友人に、「死ぬのが怖い」という
「悩み」を、けっこう真剣に吐露したのですが、
ひととおり聞いてくれて、彼は、
「ぜいたくな悩みだな」と言って、
「アフリカの飢えた子どもたちはそんな悩みも持てない」
と言いました。

なにも言えなかった。
ほんとうにそのとおりだと思いました。

投稿: Moz | 2010年4月24日 (土) 00:40

本音で書いてみえるので、自分も本音で書きます。

私の家族も色々あって、最後父親が自殺しました。

そういう境遇に身を置いている事を「自業自得だ」と思う時もありますが、「何で自分だけが」と思う時もあります。

でも、納得できるか出来ないかなんて事は関係無いのです。仏教はこの世は何でもありだぞと教えているし、因果応報は真実です。

こういうと洗脳されてるとお思いでしょうか。


私は、念仏によって地獄行きか極楽行きかなんて知る由もありません。じぶんの心に確固たる答えを求めても無駄です。

では何を聞くか?阿弥陀仏が必ず救うぞと誓っておられるところを聴くんです。

いずれの行も及び難き身なれば、地獄はいちじょう住処ぞかし


親鸞聖人の述懐を何と味わっておいででしょうか?

自分の心は当てになりませんよ!

投稿: 樹氷 | 2010年4月24日 (土) 12:25

≫仏教はこの世は何でもありだぞと教えているし、因果応報は真実です。

私は22才の時、真剣に自殺を考え、北海道へ行った。
凍死なら楽に死ねるんじゃないかと。でも、睡眠薬を準備していなかったのと親のことが心に浮かび、死ねずに帰ってきてしまった。何でもありは分かるけど、因果応報は納得できない。自分は悪くない、自分は被害者だという思いしかないから。某氏の話によると、他人を責めても現実は何も変わらない。結局、その現実を受けていかなければならないのは自分なんだと。

でも、俺は悪くない、俺は親の不注意によって火傷させられた被害者なんだという被害者意識しかなく、いつも、そこで苦しんでいます。

僕の家から庄松の寺まで一時間くらいなんですが、庄松は体験を語っていないように思う。只、その言動、その行動から、信心を頂いたと客観的に見てとれる、信心というのはそういうことではないのかなと。

≫もし座談会がいやなら、座談会にでないという参加の仕方もあるんじゃないの。

そうですね。僕はもう、座談はパスさせて頂きます。座談をやっている間は一階・事務局で過ごさせて頂きます。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年4月28日 (水) 07:24

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