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華光誌作業中~偽物念仏、本物念仏~

 華光誌の編集作業がつづく。

 要領よく作業できるようになったので助かるが、宿泊法座と宿泊法座の間での作業なのでなかなかたいへん。今回は、14(日)15日(月)の九州法座の日程がネックになっている。月曜がを挟むので、作業が難しい。それに、今日は、連れ合いが、ちょっと体調を崩して、子どもの送迎やら、外に食事に連れていくと待たされるやらで、ちょっと時間もとられたが、まあまあである。

 今回は珍しく記事が不足気味。原稿も、随想や通信は、小粒(短め)なものが多い。

 かなりページ合わせに苦労して、本当は次回に予定していたものも掲載した。

 何気ない言葉に有り難さを感じている。

 ある方の体験記の短い言葉。

 お念仏しかない。「お念仏してみなさい」と、勧められても出来ませんでした。今お念仏しても、これは偽物のお念仏、本物ではありません。「するものか」とさえ思いました。

 そうなんですよね。「今念仏しても、これは偽物だ」という心こそが、熱心な求道であるように見えて、仏敵の心なんでしょう。
 お念仏に偽物なんかない。お念仏こそが真実であり、本物なんでしょう。「念仏まこと」!ただ、私の称えごころが、「空」(から)であり、偽物なだけ。そこを聞くんですよね。

 どこかに、本物の念仏があるんじゃない。私の口からでる「南無阿弥陀仏」こそが、常に真実、本物そのもの。どこからか呼び声が聞こえるんじゃない。ウソの私、偽物の私の口からでる、真実の「南無阿弥陀仏」こそが、私に呼びかけ、呼び覚まし、浄土に呼び返す仏様の呼び声なんです。どこか遠くに「本物」があると思って、その念仏を外に探して、本物になろうと握りかかる。その私が本物になろうとする心こそが嫌らしい、恐ろしい。私は、どこまで言っても、正真正銘(?)の偽物の塊、不真実の權化といっていい。その私の不真実の口から、「南無阿弥陀仏」の真実が飛び出してくださるまでに、どれほどの法蔵菩薩のご苦労があり、お手間があったか。虚仮不実の私を見ればみるほど、勿体ないじゃないでかね。「するものか」という疑い一杯の私の口をこじ開けて、飛び出してくださる南無阿弥陀仏に、今、すでに会っているんですからね。

 でも、私は、有り難いから、泣けたから、スッキリしたから、無意識に飛び出したから「本物」だと証拠にする。あくびがでるか、白けるから、他所事だから、無理に称えてるから、すぐに終わるから、「偽物」と決めている。要は、自分の心の出来不出来だけが心配で、問題にしている。「おまかせしたか、していないのか」という「称えごころ」ではなくて、ほとんどが、有り難いか空しいかの感情か、意識か無意識の区別を「称えごころ」と勘違いして、ダメ、ダメと、私が勝手に決めつけているわけです。とんでもないなー。阿弥陀様のご苦労は、どこに行ったの?虚仮不実の自分が、真実があるのでしょうかね?

 実は、凡夫往生の証拠は、私の喜びや確認にあるんじゃない。「支証(証拠)は、南無阿弥陀仏だぞ」と、蓮如さまが仰っている。そう南無阿弥陀仏こそが、これほどハッキリ、クッキリした証拠なんだというわけです。だって真実の塊もんだもの。

 別の方の短い随想の一言。

 どうにもならない心の内をどうにかしようともがき苦しんだこと。「あなたの信心で大丈夫か。その南無阿弥陀仏一つで後生任せられますか」との問いかけ。どこまで聞いても、聞くことの出来ない自分だと分かるまでに、どれほどの時間がかかったことか。

 要は、「どこまで聞いても、聞くことのできない自分」。聞くことができないということは、つまり真実信心など得られない、他力の称名にはならない、往生はかなわないということですよね。私の力ではどうしようもない、ただ落ちていくだけということでしょう。

 こんな楽なことはないよね。

 凡夫は凡夫の仕事をするだけ。私は私であるしかない。虚仮不実の、地獄行きの私は、虚仮不実のまま、地獄行きだとお聞かせに預かるひとつで、不思議にも満ち満ちる世界が待っていたとはね。

 いや、参りました。

 それはそう、明日も華光誌がんばろうー。

  

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コメント

私は私であるしかない・・・

私も最近本当にそう思いました
対立を避け
いい人をやるだけの毎日
そうまでして
楽をしたい
傷つきたくない
と思っている私がいる
でもその結果はしまりのない怠惰な毎日が待っているだけのような気がする

投稿: ぼんちゃん | 2010年3月13日 (土) 08:17


私は私でしかない
と 身を任せてみましたが
出るのは 欲ばかり
楽をしたい
自分さえよければそれでいい
しなきゃいけないことしかしようとしない
そんな欲ばかり出てきていました

お任せするというのは
出てくる欲に身を任せるのではなく
そういう自分をみるのではなく
そういう欲によって苦しむ私を助けるという
阿弥陀様のお心に任せるということなのですね

投稿: ぼんちゃん | 2010年3月13日 (土) 12:45

ぼんちゃん>こんばんわー。
「私は私でしかない」という表現に、共感してもらったようですね。同時に、いろいろと迷ってられる姿が、よく伝ってきます。

所詮、私は「石・瓦、礫」であって、私の力では「石・瓦・礫」でしかないということです。私は、今生のことでしか考えられけれど、仏様は、後生の問題として仰って下さる。仏法の教えは、そういうことじゃないかなーと。だから、そこが鏡になるわけです。
その仏法の鏡に照らされた自分をみたら、ハッキリと自分をしらさるんじゃないですかね。

投稿: かりもん | 2010年3月13日 (土) 20:59

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