最近、読んだり、読もうとしている本
最近、こんな本を読んでいたり、読み終えたり、読もおとしている。ちょっと簡単に紹介。
1)『「食」は病んでいるのか』~揺らぐ生存の条件~(鷲田清一編著)
ぼくの子供のときには「食育」という言葉はなかった。どうも馴染み難いこの用語が、いまやすっかり人口に膾炙され、用語として成り立っつまでになった。いまほど、食に対する関心が高く、多様化されていた時代はなかっただろう。しかも、その多くが、危機感である。しかも、それは単なる食の問題ではなく、おおげさにいうならば、人類の滅亡や人間存在にかかわる危機として語られている。それにしても、毎日、毎日、3度、3度(2度の人もあれば、4、5度の人もあろうが)、食という行為ほど不思議なものはない。口から他者(生命)を取り入れ、拒絶反応を起こすことなく、必要な栄養を奪い取り、不要なものを排泄していく。飽きることなく、毎日、毎日、延々と延々と、この生がある限り続く行為である。
「生きるとは食べること」という鷲田の論考で始まる本書は、食という素材だけななく、食べるという行為そのもの不思議を通して、人間生存のそのものをあぶりだそうとする試みだ。ちょっとそこまで書くとおおげさかも。まあまあでした…。
2)『それでも、日本人は戦争を選んだ』 (加藤陽子著)
はらほろひれはれさんのブログで見つけたもの。上級(?)の高校生相手にした、加藤陽子先生の講義本。日本が歩んだ近代化の過程での国家間の戦争について、体系的に記述されている。歴史軸が、日本だけでなく、アジアの視点、欧米列強の視点、もちろん、国際情勢の視点を、総合的にたどることで、結局、近代の戦争が何をもたらし、今日の国際社会へと連綿とつながる基本的な原理、原則は何かなど明らかになる。歴史事実の積み重ねだけでなく、その背景にある生身の日本人が受けた傷や衝撃といった、心情や意識にも言及しながらのお話は、なかなか興味津々でありました。
3)『共感覚者の驚くべき日常』~形を味わう人、色を聴く人~
(リチャード・E・シトーウィック)
小さな書評が目に留まり、ネットで中古本を購入。
「共感覚者」とは、「共感」覚者ではなく、「共感覚」者である。共感覚とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、「ものを食べると指先に形を感じる。音を聴くと色が見える」というような、五感が入り混じった人たちである。本書の要約から抜粋すると、「10万人に1人というこの共感覚をもつ人たちは、まったく正常に暮らしており、本人が告白しない限り共感覚者かどうか見分ける方法はない。それどころか、共感覚者は特異な記憶能力を発揮することさえある。また、カンディンスキーやナボコフなど、共感覚のある芸術家も多く、その作品に影響をおよぼしているという。共感覚者の脳のなかでは、いったい何が起きているのだろうか。本書は、共感覚者の脳を研究しはじめた神経科学者が、やがて脳科学最大の謎である「意識」の正体へと迫っていく、たぐいまれな探究の書である」とあった。類まれかどうかは、ぼくには判断出来ないけれど、共感覚者との偶然の出会いから研究が始まり、脳のしくみや感覚認知などについて、ミステリー仕立てに描いこうとされたものであることは確かだ。でも、別に「共感覚」者だといっても、超能力者というわけでないのが、また面白い。話は変わるけどれ、観音菩薩が、なぜ「音を観る」のか。もちろん、これは、「観世音菩薩」のことであり、翻訳の問題もある。仏・菩薩は、悟った共感覚者そのものかもしれないなーー。
4)『ハチはなぜ大量死したのか』(ローワン・ジャイコブセン)
5)『見る』~眼の誕生はわたしたちをどう変えたのか~(サイモン・イングス)
の2冊はこれからの楽しみ。前者は、昨年話題になったもの。後者は、視覚優位の現代社会における、眼と、「見ること」の不思議を探るもので、興味がある。
6)『傾聴術』~ひとりで磨ける「聴く」技術(古宮 昇著)
悩みの例話に対して、さまざまな私達が行ないそうな応答が示されて、それに対するコメントが出されていく。もし、それだけなら、手にとっただけですぐに棚に戻しただろうが、そこで示されていたケース例が、船岡三郎先生のものだったので心惹かれた。なるほど、傾聴がめざすものが何か、共感的態度とはいかなるなにかが、具体的に示されている。特に、傷つきやすさ、閉じていくものへの寄り添っていくことが、いかにデリケットな問題であるかがわかる。なぜ傾聴することが大切なのか。これについては、先日の研究会でも話した。長くなるのでまた項を改めるが、普段、華光の座談会でおこなわれる質問の類が、いかに「侵入的」な強引なもので、しばしば話し手の心を硬くして、心を閉ざしていくのかがよく分かる。これだけでも、収穫大。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 傾聴ではなく、態度なのだ!(2021.06.28)
- 『絵はがきの大日本帝国』(2021.06.24)
- 『育ち合う人間関係』終わる(2021.03.17)
- 大声で「南無阿弥陀仏」(2019.12.23)
- 廃仏毀釋は生きている(2019.12.21)
コメント
本の紹介ありがとうございます。
先生の書評を読んでいると、どれも読みたくなるのですが、
今の私は、6、3、2、5、4、1の順に興味があります。
早速図書館に予約しました。
投稿: Anne | 2010年3月20日 (土) 22:19
Anneさん、どうもです。あくまで個人的関心ですから
。でも、(6)はいろいろと勉強になりました。これから読む(5)が楽しみだなー。こうしてみると、あいかわらず真宗や仏教のものがなくて、いつもショックやなーと。
個人的ついでに、「講習会」残念やねー。3/14にちなんで、読書に関係するあるものを渡したかったので、会った時をお楽しみに!(個人的にメールしろって内容やね)
投稿: かりもん | 2010年3月20日 (土) 23:54
講習会、残念です
読書に関係するもの…楽しみにしてますヽ(*^^*)ノ
投稿: Anne | 2010年3月21日 (日) 08:20
色んな本を読んでおられますね。来るべき?「電子書籍時代」に大きな不安と、ちょっぴりの期待を込めて私も「最近、読んだり、読もうとしている本」を紹介させていただきます。私にはジャンルが偏ってますが。
『多世界宇宙の探検』(日経BP社)
『宇宙137億年の歴史』(角川選書)
『宇宙エレベーター』(大和書店)
最後のは、最近博士号剥奪云々で話題になった方の本ですね。
『イエスの生涯』『キリストの誕生』(新潮文庫)
遠藤周作氏の代表作の一つの再読です。2作を通読すると、色んな問題について考えさせられます。
『高崎直道著作集』(春秋社)
以前にも、紹介させていただきましたが、仏教学者で、曹洞宗の御僧侶でああられる高崎先生の著作集です。現在6巻まで既刊です。佛教やインド思想について、基礎から、最新の論題まで大変勉強になります。
『華厳五教章を読む』(春秋社)
『哲学としての仏教』(講談社現代新書)
秋月龍ミン(王偏に民)門下竹村牧男先生の御著書です。前者は雑誌『大法輪』連載のものを単行本化。高崎先生もそうですが、チベット系の「原理主義者」からは、かなり批判が予想される内容です。
『坂本龍馬の10人の女と謎の信仰』(幻灯舎新書)
著者の平野貞夫氏は、小沢一郎氏と関わりの深い元政治家で、私も会ったことがあります。ブームで坂本龍馬関係の本は多いですが、妙見信仰との関係については珍しく興味深いです。龍馬人気の立役者の司馬遼先生も千葉周作と妙見信仰との関係を『北斗の人』という小説で描いています。
『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物文庫)
『鑑真』(岩波新書)
前者は、親鸞研究でも有名な古田武彦先生が大きく関わった事件について。後者はタイトル通りです。
『鑑真』では、天台流伝の問題にかなりスペースが割かれていたのが良かったです。
投稿: 縄文ボーイ | 2010年3月21日 (日) 12:49
秋月龍ミン(王偏に民)先生の敬称が抜かっていました。お詫びして訂正します。
投稿: 縄文ボーイ | 2010年3月21日 (日) 12:51
追伸
先の竹村先生の『哲学としての仏教』の176頁に「(前略)と同時に私は日本にあっては、仏教内部における宗門対話が、より必要なのではないかと考えている。というのも、日本の仏教は、他宗教に対して非常に寛容であると考えられているが、実は浄土真宗は自己の立場の宗教のみを真実と考え、他の宗教は仮か邪かであるとする面もある。一方、法華宗(日蓮宗)は、やはり自己の宗教のみ真実と考え、他の宗教を非難することもある。本当はぬきさしならない対立が、仏教、特に日本仏教にはないわけではないのである。この状況の克服に、我々は取り組まなくてよいであろうか。日本の寛容性は、単に他者への無関心と当面の軋轢の回避にすぎないのであろうか。 仏教とキリスト教の対話は、キリスト教の自己解体さえ厭わないあり方のなかで進んできたのが実情である。仏教側もまた、それと同等の真剣な努力が必要であると思わずにはいられないのである。」(コピペではなく、“書写”ですので、行変えや、振り仮名の有無などが、多少テキストと違っています。その他の写し間違いがあるかも知れませんが御容赦御願い致します。)とあるのが考えさせられます。キリスト教から仏教(臨済宗)に転派なされた秋月先生と、キリスト教の滝沢克己先生や八木誠一先生等との一連の対話を踏まえてのことと思われますが(余談ですが、一見、「佛教寄り」?のキリスト教解釈をなさる八木先生に対する松本史朗先生の批判は鋭いですが)、こうした努力さえ、日本仏教内部では少ないと私も思います(皆無とは言いません。もう四半世紀前にもなりますが、真宗大谷派の安田理深先生と、日蓮宗の茂田井教亨先生との対話が、日蓮宗の御僧侶でありながら大谷派の同朋運動に関わっておられた丸山照雄先生の司会で行われたことがありますが、私見では今一、深い内容には届かなかったように思います。)。そういうわけで肝心の本を忘れていました。
『「三帖和讃」講讃』上(白馬社)
言わずと知れた増井悟朗先生の待望の御著書です。263頁以後の「源信和讃」の御解説には、そうした問題に対する源信和尚、親鸞聖人、そして増井先生のデリケートな配慮が窺うことができます。西光寺さんでのDVD(事情により、DISC1の方は、初めの方しか観ていませんが)の中でも、チベット仏教(ニンマ派?)から転派なされたソナム師や、キリスト教(ローマカトリック?)から転派なされた藤本師、真宗でも大谷派の亀井先生といった多士済々のメンバーによるシンポにおいて、先生が、デリケートな言葉選びをされる中でも、華光本来の御法話をトークとして敢えてなさる姿には感動しました(要所要所に入るT氏の“笑い”が、特にそれを増長しています)。
『ゾロアスター教』(講談社学術文庫)
待望の訳書です。日本の先生の書かれた類書との併読を御勧め致します。先の高崎先生の著作集の①「インド思想論」を拝読致しますと、私がこれまで当然にインド的概念と思っていたことの多くは、イラン的な概念であることがわかり、その意味でも勉強になります。イラン的な影響(佛教に限らず)には、クシャーナ以降のものが多いですが、ウマリヤ朝もアケメネス朝の影響が強いし、アケメネス朝と、それ以降、とりわけササン朝の特異性といったものにも興味を引かれます。
投稿: 縄文 | 2010年3月21日 (日) 17:37
追伸の追伸
先のシンポの中で、ソナム師が、親鸞聖人の「愚禿」に相当する御言葉を、アーリャデーヴァ(聖提婆)菩薩が仰っている(提婆菩薩については、先の『講讃』の158頁に御味わい深い解説がありますね)と言われるのを受けて、亀井師が、伝教大師の『願文』の例を挙げられ、先生が源信和尚の『往生要集』の序の例を挙げて、真実がぶちあたってきてくださったなら、私の方は、「愚かだった~!!」と頭を下げずにはいられないということ仰ったのが印象的です。良寛さんの「大愚」や、解脱上人の『愚迷発心集』の懺悔の御言葉、興教大師の数々の懺悔の御言葉、「日蓮は愚者なり、非学生なり」「施陀羅が子なり」「賎民が子なり」などと言われた日蓮聖人の御言葉などを想い出せていただきました。聖道門の聖者ですら、頭を下げさせられる仏様の真実、仏法様の偉大さを、ソナム師の言われる仏様のパワーを御味わいさせていただあきました。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。シンポの前半も是非、拝聴したくなりました。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀。
投稿: 縄文ボーイ | 2010年3月21日 (日) 18:01
縄文ボーイさん、どうもです。
連続4投稿で、最初「スパムか」と思ったけれど、さすがわ、本のネタに反応してもらいますね。
源空讃の聖道門への配慮のところなどに、目がつくのはさすがですね。シンポジウムのDVDの感想もありがとうございます。内容はいいと思いますが、どうもトラブル続出で困っています。業者の製作なのになあー。
あげてもらった本の中では、『鑑真』はもぼくも読みました。あと、遠藤周作氏の2冊は、懐かしいですね。学生時代かなー。
いま講習会の休憩中です。
投稿: かりもん | 2010年3月21日 (日) 21:08