講習会で感じたこと(1)
講習会2日目。
午前中は、急きょ、ピンチヒッターにたった。
幸い一夜漬けはうまくいった。これで、いちばん得をするのは、ぼく自身だ。黙って、上から与えてもらうだけなら、一瞬、わかった気がするけれど、次ぎの瞬間には、右から左に抜けていく。メモしようが、録音しおうが、ぼた餅が落ちてくるを待っているだけなら、同じである。それでも別に、皆さんは困らないだろう。でも、自分が前で話すとなると、そうはいかない。完全に、自分の問題となってくる。もちろん、一夜漬けも、それなりの基礎をいただいたいるから出来る話ではある。
信の上から、ただ漫然と聴聞していては勿体ない。その人が、伸びていくには、押さえるべきポイトだあるのだ。これは信仰座談会での心得でも同じで、先達の態度に接して、「盗む」ようにと教えられた。別に、ノウハウを教えてもらったことは、一度もない。常に実践しながら学べというのが、華光である。それには、お客さんで法座に出席していては、いつまでも他所事だ。先生や先輩たちが、どのように受け答えされているのか、もし自分ならどう答えるのか。最初は、口に出さなくてもいいので、自分に問われているものとして聞きながら、自問自答して、緊張感をもって座談会に臨むべきだというのである。それは教義面でも同じだ。伊藤康善先生の『真宗安心一夕談』や『安心調べ』(共に品切れ)の、本願と成就文の関係、そして、音声(おんじょう)回向たる、他力回向信の構造のところを、何度もお聞かせに預かってきたのである。最初は、難しく理解できなかったが、ある時、「なるほど」と頷く体験をさせてもらってからは、そこをはずないようにとられていくと、すべてが体系的に連なっていくことがわかってきたから、不思議である。
確かに、聞法は、「いま、この私」を抜いたところには、お救いはない。根拠や教学を追い掛けても、「いま、この私が」抜けていたら、観念的な遊戯に終わり、空しい。空しいすぎる人をみるにつけて、心も痛む。しかしながら、実感や実践的な経験だけをたよりにするのも危険である。たとえば、今回、笑い話にように話題に出したが、「なんのためにお浄土に行くの出すか。寛ぎにいくの?」と問いかけると、皆さん、あはははと、笑っておられる。私の実感(自覚)のレベルでは、地獄や迷いを離れることを喜ぶことがあっても、即、弥陀同体の悟りを得させていただき、還相回向の働きで衆生済度のための利他の働きが始まることは、けっして、私の日暮らしからは実感は出て来ないだろう。しかし、地獄行きを免れ、往生極楽で安心する程度の聴聞では、如来様のお心を聞いたとは言い難い。還相回向の働きまでも他力回向のお働きなのである。いうまでもていが、これもまた、正解を覚えても意味はない。だから、そこを、具体的に、それがいまの私の上に、どう繋がってくるのかを、きめ細やかにお聞かせに預かっていくのである。
つまりは、実感や体験だけを手がかりにするのなら、心理主義や独善的な喜びに終始してしまう。かといって、根拠や教学だけを追い掛けていては、一種の教条主義や学解(がくげ)往生に陥ってしまうのである。ここのところ、よくよく心得させてもらわねばならない。
さて、今回は、それなりに代役が勤まったという点では、満足しているのだが、正直、代役に立たねばらなかった状況は、複雑な気分だ。それに、せっかく、ボイントを絞ってお伝えしたと思っていたのに、その後の参加者の方の質疑のレベルに、かなりがっかりさせられた。「エー! みんなこれまで何を聞いているのー」と、叫ばずにはおれなかったし、もう最後の方には、答える気力も萎えるほど、凹んだー。もちろん、わかった顔をして座っておられるより、ずっといい。皆さんのレベルがわかっただけでも、収穫だったのかもしれないが、けっして、それに迎合するのではなく、繰り返し、繰り返し、要のおこころをお伝えしていくしかない。大きな顔して、「一文不通」や「煩悩具足」のなのもので、正当化されていくようで、なんとなく違和感も残る。
まあ、内容に触れるまえに、今夜はここまで。
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コメント
先生 講習会ありがとうございました!
本当に先生がおっしゃるように、自分の味わいに甘んじるのではなく、なにを聞かせてもらうかが大切ですね。
タダのお救いとはいえ、それをわからんからと、いちもんふちの所でありがたくあたたかくなっているだけではもったいない話です。
投稿: かーぷ | 2010年3月24日 (水) 19:28
かーぷさん、ありがとう。そうやね、どこまでいっても、一文不知でしかないし、煩悩具足でしかない。それは徹底しているよね。でも、そこで易々と腰を下ろし留まる教えじゃな気がするよ。第一、これから人にお伝えしていきたいのなら、いくら学んでも学び足りるいうことはない気がします。そこに気がつけてだけても、収穫大だったよね。「本願のこころ」だって、いままで何度もきいているはずだけどれも、まったく初めてのように聞こえたのだものね。
投稿: かりもん | 2010年3月24日 (水) 23:03