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『ユキとニナ』+『不完全なふたり』

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 諏訪敦彦の『ユキとニナ』は、前半の崩壊した家族のリアルさと、揺れる少女の情景と成長が、象徴的なメタファーとして描かれる後半が対照的な、なんとも不思議な作品だった。でも、間違いなく上質な佳作だと思った。

 諏訪敦彦の前作(オムニバスの「パリ、ジュテーム」もあるが『不完全なふたり』原作の直訳では「完全なふたり」?、こちらはみなみ会館)もいい映画(商業的ではなく作家主義的という意味で)で、感心Posterした。結婚15年になる夫婦が、友人の結婚式に出席するためにパリにやってくる。友人からは、「理想のカップル」と見られていた二人だったが、実は離婚を決意していた。パリ滞在も、二人は口論を繰り返し、たびたぶつかる。しかし、別れを口にした二人が、そこで気付くことは……。まあ、あらすじに触れるとこんな感じか。
 日本人監督が、フランス人をキャストに、全編フランス語、オール・パリロケの作品で、妻にヴァレリア・ブルーニ=テデスキ。夫役はブリュノ・トデスキーニといい役者を揃えている(下を噛みそうな名前、顔はすぐわかるけど、名前がなかなか覚えられないや)。

 冒頭のクルマから叫ぶシーンにしても、レストランでの友達の会話のシーンにしても、時折、騒音や小声でしばし声が聞き取れなくなる。これって、日常生活なら当たり前のこと。その当たり前さがまったく自然に、丁寧に描かれている。そして、夫婦の口論のリアルさ。何も、台詞や態度がリアルなだけではない。二人の揺れ動く感情の表出の雰囲気がいいのである。カメラのフレームから外れたり、映っていないところ(ドアに隠れていたり、スクリーンの外だったり)の空気や、もしくは何気ない態度やため息から、二人のイライラ感、不安、殺伐として雰囲気が伝わってくる演出が見事だった。

 この『ユキとニナ』の前半は、そんな映画の雰囲気がある。なんでも、あらかじめ台詞があるのてなく、その時の雰囲気で協議され創造されていくそうだ。やはり、カメラの構図から外れたところからも、離婚直前のカップルが持つ伝わる険悪ムードや、不安、イライラといった感情が伝わって来る。妻の直情的な悲しみやイライラ、夫の制御された悲しみや諦めがなんともリアルなのである。ユキが二段ベッドの上から、ドア越しから漏れ聞こえ、垣間見えるパパとママの諍いを、不安げな顔で聞いているシーンなんか、なんとも辛い。

 パリ。日本人の妻と、フランス人の夫の間に生まれた、9歳の女の子。パパも、ママも大好きなのだが、そのふたりの中は最悪。愛想をつかせて妻は離婚し、ユキを連れて日本で暮らすことを決めたのだ。

 幸せになるための結婚生活、家庭生活だったはずなのに、二人に大きな傷跡を残してしました。同時に、その間にいる子どもの心にも…。彼女には、大好きなパパであり、大好きなママなのである。いくら、ママが説明しても、納得などできない。ましてや大親友のニナと別れて、彼女にとっては異国の日本で生活するなんて…。

 なんとか二人を和解させることはできないか。やはり、両親が別れて、ママと二人暮らしのニナと相談して、苦心の手紙作戦に出るがうまくいかない。直接、ママを問い詰めもるが、ただ悲しみが増すばかり。

 「悲しいのにどうして別れるの!」と叫ぶ少女。一緒に暮らすことは、「もっと悲しいのだ」と伝え、あやまるママ。-食卓にあるバイキンマンふりかけのケースがいいぞ。わが家は、アンパンマンだ-。

 ママが彼女と暮らすために先に日本に旅立つ。パパと二人で暮らすユキ。

 パパも苦しみに、深夜、ひとり酒を煽り、大音量で踊っている…。

 とうとう、親友のニナと二人、家出を決意する。パリ郊外の森の中に迷いこんだ二人。そして、親友のニナを残し、ユキは、神秘の森の奥深くへと、ひとり歩きだす決意するのだ。しかも、そこは、時間も、空間も超える神秘の森の入り口だった。前半のリアルさが一転して、まるでファンタジーの世界へ。それは、日本の昔話のように。あれは、誰の夢なのだろうか。日本の森は、杜、鎭守の森、神が宿る場所なんだろうなー。ただし正直、前半の方が、ぼくは好きだ。

 子役の二人がかわいいが、特にユキを演じるノエ・シャンピーの透明で、寂しげな横顔が印象的だった(写真も横顔だ)。

 

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コメント

映画とは関係ない話題で申し訳ないですが、昨日、西本願寺の四国教区主催の五木寛之さんの講演に行ってきました。

そのなかで最も印象に残ったのは口伝ということでした。五木さんいわく、本から入った信仰は続かない。
人間の肉声を通してでないと心に響かないのだということでした。そもそも、お釈迦様の時代にはネットや活字などはなく、すべて口伝で伝わっていたわけです。

今の時代、みな、当たり前のようにネットを使い、こうしてやりとりしているわけですけど、デメリットもあるわけで。それで色々、事件も起きているわけで。やはり、人間の肉声というものを失ってはならないと思います。聴聞に関してですと、この肉声というやつは絶対的な力があると思いますね。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年3月 6日 (土) 08:00

 阿波の庄松さん>宿泊法座があって、返事遅くなってごめんね。
 そうやね。ここはぼくも大事だと思うよ。メールやネットの文字情報が、こわいところは、言葉の周辺ではなく、文字だけが入っていく恐れもあるからね。
 ところで、五木寛之さんは、ぼくが大学院時代に、学長の千葉乗隆先生の特殊講義を聴講されていて、ぼくの前の席に座ってました。新聞社の取材とかもあったよ。京都在住中の美容院も同じで、毎日、シャンプーに来ていたそうですが、そこではあっていない。余談もいいところだけどね。

投稿: かりもん | 2010年3月 9日 (火) 01:01

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