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輪読法座

 3月の輪読法座。

 2月に引き続き、平日。京都や大阪の顔ぶれは固定しているが、東海支部や福井から参加者もある。先月が火曜日で、今月は木曜日。曜日が変わると、お勤めの都合で、参加の顔ぶれも少し変わる。今日は11名ととても少なかった。それでも、東海や福井などの遠方からの参加者もあり、また初の輪読法座参加の方もあって、うれしかった。こじんまりとした分、笑い声や苦笑も含めて、和気あいあいとした楽しい雰囲気で、厳しい話を聞かせてもらえた気がした。

 誌上法話を頭から読む。「不断煩悩の味わい」のところ。前半は、多少、お正信偈の解説があるが、後半からは、身近な話題になってくる。特に『仏敵』に説かれる
「神様は正直になれ、
諸仏(釈尊)は善人になれ、
阿弥陀様は悪人めがけたお救いである」

 この悪人がお目当てということほど、一般常識とかけ離れたところはない。そこが有り難いと同時に、このこころは、常識的聞き方では、なかなか入ってこない。今日も盛んに話題になっていたが、仏法に会う、仏様の尺度を頂かないかぎり、自分こそが極重悪人の張本人だという自覚や内省は、まず生まれてくることはない。だから、「自分を知れ」と教えてくださる。しかし、私の本体は、「いつ何時、手が後ろに回るやら、救急車で運ばれるようになるやら分からないものを持っているじゃないですか。だから、自分を知れと教えてくださる。でも、なかなかこれが知れないんでしょう」というのが、実際のものがらである。しかし、私の実感がそうであろうとも、事実は、身や口だけでなく、こころでつくる罪も、一旦起こっした罪業は消えないのである! なんとも恐ろしい話だが、それがまったく自覚出来ないのというのだから、ほんとうは、そこにゾッとーするしかないのであるが…。

 真宗の教えは難しい。同時に悪人めがけた易い教えであり、この味わいはほど尊いものはないというところを、各自が、わが身のところで味わい、分かち合った法座だった気がした。

 次回は、4月24日。土曜日に開催することになった。

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コメント

ひと様には「死んでいくときに、私の実感がなんの役にたつの?」と声高に言うのに、全く自覚しないまま、しっかり実感を求めていた。
「全然聞けない私です。」と口では言いながら、「よく聞けてる私」
そんなスカタン(先生は時々この言葉をつかわれますが、京都弁ですか?私も語感が好きなので使わせていただきました(*^-^))な自分が炙り出された御法座でした。
帰り際のかりもん先生の「仏様を傷つけている私」という言葉が、今も心の底に沈んでいます。

投稿: カイババ | 2010年3月19日 (金) 11:44

 カイババさん、ようこそ。コメントうれしいです。
 有り難い法縁でしたね。
 何度も何度も、親鸞さまや蓮如さまも教えてくださっているのにね。私の耳はほんとうにたちが悪い。いや、耳のせいにするのはいかんなー(耳さん、ごめんなさい)。

「自力のこころをすつというは、ようようさまざまの大小聖人、善悪凡夫の、
 自らが身をよしとおもうこころをすて、
 身をたのまず、
 悪しきこころをかえりみず、
ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば…」(唯信抄文意)
という親鸞様の言葉。
 要は、わが身の善しであろうが、悪しであろうが、そのわが身をたよりに聞くことを自力といわれる。だから、そのこころはは捨てなさいと。そして、無碍光仏(阿弥陀様)の「不可思議の本願」「広大智慧の名号」-つまり、妨げられるることのない光そのもののも仏さまの、はからうことも出来ない、不思議で、広大なご本願とお名号をたのめといわれる。ここ一つなんですね。でも、この一つが、難中の難やね。

投稿: かりもん | 2010年3月19日 (金) 18:39

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