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2010年3月の22件の記事

広島真宗カウンセリングWS(2)~断絶と摂取、それが超越~

  肉体的にも、精神的にも、かなり疲れている。

  今日は、下腹をグーッと押さえつけられるような、不快な感触に包まれながらも、一方で、一層、解放されて、開いていく自分もいるようだ。いろいろと教えていただき、皆さんに助けていただい3日間だった。そこで、二重、三重の意味でも異なった世界との出会いがあった。異質のものの出会いは、摩擦がおこったり、火花散ったりもある。しかし、しっかり出会うことでエネルギーとなり、一層、自己が解放され、拡がる世界がある。それが、他者を理解し、受容しようとする姿勢であり、また自己が受容されて、理解されていく世界でもある。それは聴くこと、聞の世界こそが、自己の拡がりとつながりを生み出す道なのである。自己と、他者との違いがありながらも、同時に、法の働きによって、その境界が消えてひとつになる、真のつながりの世界があるのだ。その意味でも、さまざまな参加の皆様から聞かせてもらい、受け入れてもらい、そしてつながせてもらったなーというのが実感がある。

  ぼくの中にも、いろいろな思いが起こっては消え、浮かんでは消えていく。ほんとうに、ぼくの中はなんでもありで、末通ってはいかない。妄念妄想である。でも、たったひとつの世界に帰られてもらえる幸せも、これもまた揺るぎないものである。いや、ぼくが揺るぎないのではない。南無阿弥陀仏の世界が揺るぎないのである。だからこそ、ぼくひとりのところで喜べると同時に、そのお念仏を通じて、バラバラな、孤独な業魂同士が、不思議につながり、通じ合う世界があるのである。

  悲しいかな、まったく不本意でありながら、この世では、愛する同士がいつしか傷つけあい、そして断絶し、ますます孤立を深めていかざるおえない。そのいつ果てるかもしれない迷いの連鎖は、昿劫というはかりしれない昔から、そして未来永劫へと続けていくのである。
  しかし、不思議にも、いま、ほんとうに私の帰るべき世界に出会えたのである。それは、私から求めたのではない。衆生からはまったく断絶されている。いや、狂った私が、そのくもの糸を怒りの炎で焼き切ってきたのである。しかし、その真如に背反し続ける業しかもたない私を、一方的に真如そのものの如来様は摂取不捨してくださるのである。逃げるものを追い掛けて抱きとり、修めとったなら、二度と再び放す(迷わす)ことはないのだ!

 重ねていう。

 私からその悟りの道は閉ざされている。絶対に救われることはないである。絶対に、他力になることはない。絶対に、聴けるはずがない。絶対に、はっきりすることはない。つまり、落ちていくしかないのである。

 しかしである。そのものをこそ、必ず、必ず救わずにはおらないお力が、まったく無条件に働いてくださるのである。

 私が超えていく、私が翻ると思っていたが、そうではなかった。

 真如から、一方的に、超えてくださっていたのである。

 真実の世界から、名を垂れ、形を顕してくださった、つまり如来様こそが、翻ってくださていたのである。南無阿弥陀仏が、超えてくださっていたのである。そして、その南無阿弥陀仏に乗じて、超えさせていただくだけである。

  各セッションの初めてと終わりには、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と3分間ずつ、何度も、何度もお念仏させてもらった。わが心は、まったく妄念妄想である。3分の念仏でも、嫌になってくることがある。ただ、早く終わること願うことがある。そのことを、真実によって知らされる。

 ところで、その私の口から、真実のそののの名乗りが出て下さっている。私の周りにも、幾重にも諸仏が褒めたたえる念仏が、満ち満ちているのである。

 バラバラの私のこころが、南無阿弥陀仏で貫かれている。南無阿弥陀仏と私がひとつにつながっていく。

 同時に、バラバラだった人達が、同じ南無阿弥陀仏で貫かれて、そしてつながっていく。

 寂しい、空しいこころをもった私が、その孤独なこころをもったままで、包まれていく。

 そのことを身にかけて聞かせていただいた。

 真宗カウンセリングは、本来の浄土真宗がもっていた、同朋教団、同朋法座へと回帰する道でもあった。

 それは、末法の、無仏の時代にあって、私と南無阿弥陀仏が出会う場であると同時に、現在の真宗教団を再生させる可能性に満ちている、唯一の道であるという確信を得たといっていい。

 ぼくが目指している真宗カウンセリングや法座の方向性が、かなりハッキリと立ち上がってきだのある。

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広島真宗カウンセリングWS(1)

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 日高法座を終えて広島での3日間。真宗カウンセリング研究会主催の「真宗カウンセリングWS」である。

  連れ合いの実家に用事もあって、春休み中の子ども連れで新幹線へ。京都駅では、天皇への過剰警備に巻き込まれて癖々するのだが、新幹線はガラガラ。岡山からは一車両Img_0003_2丸まる貸し切り状態だ。連れ合いは大学院のゼミ合宿だそうで、 2日後に迎えにくる。下の子も小学校にあがるので、手間がグーッと減ってきて助かった。広島駅で、義母に二人を預けて、そのまま神田山荘へ。

サクラが咲いている。雨が続いていたが、この3日間は、天気も回復して、青空が気持ちいい。

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すっかり春だなーと言いたいのだが、朝晩は、冬並みの寒さである。最終日も、外で飲んで深夜に帰宅した。厚着はしていたもの、夜の冷気は身にこたえた。

  この1週間は、たへいんだったが、どうにか乗り越えた。だいだい飲みすぎである。からだが疲れて来ると、気分も沈みがちになったり、消極的な暗い思いに包まれがちである。自己の未熟さ、至らなさに、嫌悪感に包まれることも多い。そんなときは、深刻に考えないで、ゆっくり休むのに限る。

  しんどかったが、同時にさまざまな経験をいただき、気づきをいただいた。

お念仏に包まれながら、凡夫同士がしっかりと出会わせてもらった3日間だった。

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日高支部「花祭り」

 金、土と、日高支部の法座。

 一足早い「花まつり」とはいえ、この寒さ。途中の道は、みぞれになっていた。金曜日も天気が悪かった。昼1時というのに、山間部なのか外気温は4度を標示。横では、サクラが咲きかけているが、山では雪になっている。

 日高支部法座。例によって、月忌参り。主に、法座のお参りが難しい方のご自宅へ。今回は2日間で8軒。ふと気付いたが、8軒のうち、7軒までが、先に旦那さんが亡くなっておられる未亡人(皆さん70歳以上で最高齢が90歳ですが)。1軒だけは、まだ夫が健在。でも、旦那の方が寝たっきりで、奥様が介護されて、お元気。うーん、女は強いな!を実感。ある調査では、妻に先立たれた男性は、3年以内にすぐ後に続かれほどしおらしいが、女性は、そこから平均10数年以上、逞しく長生きされるそうだ。納得。

 ただし、夜の法座は、年々と寂しくなる。これは仕方ない。翌朝のの花祭りも、やはりそうだ。でも、9月になる日高支部との交流法座(聞法旅行)では、皆さんも、この強信な古参同人の喜びに触れていただきい。

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 花祭りは、中学生になる男子4名も参加。最初、かなり斜めの態度での参加だったが、法話は、「こころ」の話をして、それから「こころの天気」を描いてもらってからは、グーッと近づいた気がして、最後のゲームまで参加してくれた。

 いろいろと書きたいことがあるけど、明日から3日間は、真宗カウンセリング研究会主催の、広島での「真宗カウンセリングWS」の世話人。急遽、世話人M先生が体調不調で、欠席となり、責任重大となった。

 それにしても、このところ行事が目白押しだなー。
 プライベートでも、今日は七歩の卒園式。とても立派な式で、最後まで規律のある態度で、感動的だったようだか、残念ながらビデオ鑑賞となった。

 日高支部から戻ってきたら、ちょうど仏の子供大会の会場の下見組も帰宅。報告を受けたが、またこちは別の機会に…。明日の準備があるので、今日はここまで。

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同窓会兼全集刊行祝賀会

 2年に1度ある信楽ゼミ同窓会。このところゼミ同窓会というより、傘寿(さんじゅ)のお祝いや、出版記念の祝賀会を兼ねらることが多くなった。ちょっと前に、『教行証文類講義』(全九巻)の完成記念があったと思ったら、今回は『信楽峻麿著作集』(全十巻) の出版記念の祝賀会を兼ねた集いである。

 ホテルでの祝賀会の前に、龍谷大学の本館講堂での講演会。連れ合いも一緒に拝聴。冬なみに寒かったなー。いつも窺う話ながら、講義を拝聴しながら、気付くことがあったが、いま、ちょっと触れる時間がない。ちみなに、前回の感想は、以下の記事になるが、今年も重複する部分もある。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_ed74.html

 ホテルでの祝賀会。テーブルに着くと、最初は、よく知らない人ばかりの席だと思ったが、皆さん、グッーと年齢を重ねられた先輩方と判明。時は流れるのであった。それに、ぼくは面識ないのに、姉の同窓生や同世代が多くて、中には、「お姉さんは3歳(ほんとは4歳)の時、獲信したのだと言われて、あなたは信心得ていないでしょうと強くやりこめられたんだ」と、懐かしそうに語る人もあれば、「いろいろと信仰のあるところに顔を出してきたけど、華光会だけはちょっと怖くてご縁がなかった」という方もある。もしかすると、広島での真宗カウンセリングのご縁から、また深く関わりになれそうな方もあれば、一世代前の先輩方の方が、華光や父の関心があったり、真宗カウンセリングや教団改革にかかわっておられたりで、あらためていろいろ先輩方と分かち合いが出来たのは、収穫だった。

 先生の出版記念を兼ねていたけれど、法蔵館の編集長や顔見知りの担当の方もおられたので、ご挨拶。そのあとで、信楽先生とお話したら、「求道学」という話になった。そうだなー。このあたりで何ができるかしれないなと、ちょっとアイディアが閃いた。「真宗とカウンセリング」実践的な入門に関するあたりと結びつけて考えていくと、膠着した真宗教義や安心とは違った形での、体験的で、実践的な表現が可能かもしれない。そこを自身に即して語られる人は、いまはほとんど皆無だろうから、ここは頑張ってみてもいいかもしれないなーと。
 あとは、先生と広島での増井悟朗との対談企画が、もしかすると実現するかも? 先生の方は快諾の様子だが、これは体調を優先ということで、いまのところは、まだ未定だ。なんらの形で実現できれば、面白そうなのである。

 行事目白押しの中での出席だったが、ぼくが日頃接している世界とはまた違った真宗の一面に触れられて、刺激をもらった。

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雑記

 今日も、朝から雨だ。

 昨日も、1日中、シトシトと降っていた。レイコートを着込み、自転車を30分ほど漕いで、二条の映画館へ。それから、四条の京都シネマへとはしごした。身体はだいたい防げるが、手足が冷たくなってきた。ただ、いつも満車の自転車置き場が、空いていることだけが、助かる。ちなみに、二条では、今年度のアカデミー賞を制して『ハート・ロッカー』を、京都シネマでは、ゲイカップルの破天荒な実話コメディ、『フィリップ、きみを愛してる!』を観た。

 今日の雨は、さらに肌寒かった。明朝も冷えて、まだ冷たい雨は続くらしい。夜になって、また雨足が強くなっている。

 このところ温かくて、まだお彼岸なのに、近所のサクラの大木が3分咲きになっていた。このままなら、3月末に見頃を迎える勢いだ。でも、この冷え込みで少しはベースが落ちるかもしれないが、確実に春は近づいている。

 法座準備の買い物に出たついでに、雨に打たれたサクラを撮影しようと思って、カメラを持っていないことを思い出した。いつも携帯しているコンパクトデジカメが、修理中なのだ。14日の福岡法座での懇親会の最中に、前触れもなく、動かなくなった。懇親会で、ハイボールをつくるときにマドラーがないので、「歯ブラシ」マドラーを使っているところを撮影したのを最後に、突然、ダメになった。最初は、バッテリー切れかと思ったが、どうやら故障。翌日には、修理に出した。3年以上使っているので、当然、保証期間をすぎていると思っていたが、念のために調べてみると、数百円(実際は、ポイントで払っている)払って、5年保証を申し込んでいた。どうやら保証の範囲で修理をしてもらえるそうだ。このカメラは、溜めたボイントで購入したものなので、現金では支払っていないが、修理も無料ですみそうだ。

 明日からは、少し大きいが、例の一眼レフのカメラを持参しよう。ただ、ブログに写真を掲載するのが厄介で、Sサイズにしても一枚あたりの容量が大きくて、PCに移動したあとで、画質を落とすか、トリミングをしないと、アップできなといのうが難点だ。

 その明日は、大学(大学院)の信楽ゼミ同窓会。著作全集の完結記念の祝賀会も兼ねている。
 翌日からは、日高支部法座(花祭り)が2日間あり、そして、広島での「真宗カウンセリングWS」が、3日間続く。これは、昨年も同じ日程を過ごしている。
 法座が終わると、華光誌の発送と、「和讃」(下巻)の打ち合わせがある。いよいよ下巻の作業に突入する。白馬社に電話して、「三帖和讃」講讃の売れ行きも尋ねてみたら、アマゾンなどのネットでの反応がすぐにあって、最初から動きがいいらしく、予想よりもいい出足だと言われた。宣伝広告などは打っていなくても、ある程度ならネットや口コミで動いていくのだろう。どうやら華光にはまだお参りしなくても、興味や関心をもっておられる層が、かなりあるようだ。まずは、書籍からということか…。残念ながら、そこでの売り上げは、当方へは反映されないし、印税にもならない。しかし、よく売れることに越したことはない。次の出版物への弾みになるからだ。

 

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講習会で感じたこと(2)

  今回の講習会は、「安心編」に入って8回目で、「称名論」である。

 ぼくの担当したのは、まず、これまでの8回の講習会のタイトル(簡単に内容にふれたが)をおさらいをした。体系的に安心の問題点をとられることで、そのまま、今回の「称名論」の位置づけがはっきりしてくる。実は、こうして大局を押さえていくことが大切だ。

 もともと、「真宗の基礎」と題する講義(真宗基礎講座)として、教義編がずっとあった。それは、➊弥陀の本願、❷釈尊の開説、❸七祖の伝承、➍真宗の開宗、❺教相判釈、❻真宗の聖教と続いていた。

 そこから、安心編に移っていくのだが、皆さんに、ちょっと質問をした。「安心(あんじん)ってなんですか。信心とどう違うんですか? これを最初に使われたのは、どの御方ですか?」-みんなシーンである。聖典講座のお世話役のF君から、「蓮如上人のご文章」のご文がでた。それで、善導様の「安心、起行、作業」の説明をしたが、そうなると、皆さんまた、遠くなってしまったようだ。さらに、なぜ浄土真宗で「安心」というのか。わざわざ重要視されるのはなぜか。これまでにも詳細な講義もあったのだが、みんな右から左の耳に抜けている。今度も、そうだったのだろう。でも、まあ、それで良いのである。みんな、親切に、初めて聴くような顔をしてくださるので、ぼくも、おまんまが食べていけるのである。

 とにかく、安心編にはいって、安心の本質というべき、 ①名号論が、まず、序論がありそこから、⑴本願文と成就文の関係。⑵願行具足の南無阿弥陀仏を釈された六字釋、さらに⑶機法門に展開して、他力回向の素晴らしさともいうべき機法一体、そして、帰すべきは阿弥陀(人)か、名号(法)かを明らかにする⑷所帰人法へと展開した。

 そこから、安心の構造を示す②信心論へと続く。⑸本願文の「至心、信楽、欲生」の三心と、「世尊我一心」の一心との関係を示す「三心一心」で、信心の相状を、そして、信心の力用として⑹信心正因(今回の称名報恩と対を成す)を、さらに、他力の信相を示す⑺二種深信と続いてきた。それを、毎回、2日間に渡って、詳細な講義をお聞きしてきたのである。 そして、やっと今回からは安心の展開、相続を表す、③称名論へと続いてきたのである(第8回目)。さらに最後には、④得益論(安心の価値)の「証」の問題へと続いて、結ばれる予定である。

 要は、名体不二、全徳施名の名号(南無阿弥陀仏)は、如来のお手許にあれば、呼び声となるのだが、それが、そのまま衆生の心の上に受領されたのが信心であり、その信心から流れ出て、衆生の口に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の称名になるのである。所変われば、名号、信心、称名と名もかわるが、その物がらはただひとつ、如来回向のお名号なのであって、その底には、常に願力の一人働きが流れているのである。だから、私の称える「南無阿弥陀仏」は、この私の、ろくでもない、汚いものしかでない、生き物を食べる、この口から流れ出るのであるものであって、同時に、如来様のお手許から回向された御名に変わりないのである。

 称名論をそう位置づけれたとして、ではご本願に誓われた、三信と、十念のうち、信心が往生の正因ならば、称名はどういうことになるのか。これは、皆さんの口からも、「信心正因、称名報恩」とすらって出た。しかしだ。なぜ称名が報恩行になるのか。そのときの称え心は、報恩謝徳の念であるのか、ないのか。さらには、善導様以降、称名正定業といわれる点と、どうかかわってくるのか、などを課題にして話を進めた。

 つまりは、1)称えごころ(能称の用心)の問題と、2)称えへられる物がら(所修の行体)の問題であって、これは単に、信後の人だけの問題ではない。称えごころには、自力、他力があるが、もし他力の念仏であるのなら、そのときの衆生の称えるこごろのありようが、清かろうが(清いはずはないが)濁っていようが、有難かろうが、なかろうが、そんなちっぽけなことで汚れるような名号ではないのである。しかし、私は、そんな意識レベル、感情的なこころに左右される(有り難い、自然と溢れて、報謝の重いがある時は他力とか、まったく白けていたら自力とか)こころのありようが、自力のはからいというのであろう。だから、どこまでも、1)の私の虚仮不実のこころのありようと、2)の名体不二、全徳施名の塊である真実そのもの名号の姿をお聞かせに預かっていくわけである。私の称える功ではなく、2)の名号だからこそ、正しい浄土往生の行業たる「正定業」といわれるのである。

 かなり小難しくなってきてしまった。

 まあ、当日は、こんな骨子で、日頃のご法話のような例話を出してお話したので、もっとくだけていた。

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講習会で感じたこと(1)

 講習会2日目。

 午前中は、急きょ、ピンチヒッターにたった。

 幸い一夜漬けはうまくいった。これで、いちばん得をするのは、ぼく自身だ。黙って、上から与えてもらうだけなら、一瞬、わかった気がするけれど、次ぎの瞬間には、右から左に抜けていく。メモしようが、録音しおうが、ぼた餅が落ちてくるを待っているだけなら、同じである。それでも別に、皆さんは困らないだろう。でも、自分が前で話すとなると、そうはいかない。完全に、自分の問題となってくる。もちろん、一夜漬けも、それなりの基礎をいただいたいるから出来る話ではある。
 信の上から、ただ漫然と聴聞していては勿体ない。その人が、伸びていくには、押さえるべきポイトだあるのだ。これは信仰座談会での心得でも同じで、先達の態度に接して、「盗む」ようにと教えられた。別に、ノウハウを教えてもらったことは、一度もない。常に実践しながら学べというのが、華光である。それには、お客さんで法座に出席していては、いつまでも他所事だ。先生や先輩たちが、どのように受け答えされているのか、もし自分ならどう答えるのか。最初は、口に出さなくてもいいので、自分に問われているものとして聞きながら、自問自答して、緊張感をもって座談会に臨むべきだというのである。それは教義面でも同じだ。伊藤康善先生の『真宗安心一夕談』や『安心調べ』(共に品切れ)の、本願と成就文の関係、そして、音声(おんじょう)回向たる、他力回向信の構造のところを、何度もお聞かせに預かってきたのである。最初は、難しく理解できなかったが、ある時、「なるほど」と頷く体験をさせてもらってからは、そこをはずないようにとられていくと、すべてが体系的に連なっていくことがわかってきたから、不思議である。

 確かに、聞法は、「いま、この私」を抜いたところには、お救いはない。根拠や教学を追い掛けても、「いま、この私が」抜けていたら、観念的な遊戯に終わり、空しい。空しいすぎる人をみるにつけて、心も痛む。しかしながら、実感や実践的な経験だけをたよりにするのも危険である。たとえば、今回、笑い話にように話題に出したが、「なんのためにお浄土に行くの出すか。寛ぎにいくの?」と問いかけると、皆さん、あはははと、笑っておられる。私の実感(自覚)のレベルでは、地獄や迷いを離れることを喜ぶことがあっても、即、弥陀同体の悟りを得させていただき、還相回向の働きで衆生済度のための利他の働きが始まることは、けっして、私の日暮らしからは実感は出て来ないだろう。しかし、地獄行きを免れ、往生極楽で安心する程度の聴聞では、如来様のお心を聞いたとは言い難い。還相回向の働きまでも他力回向のお働きなのである。いうまでもていが、これもまた、正解を覚えても意味はない。だから、そこを、具体的に、それがいまの私の上に、どう繋がってくるのかを、きめ細やかにお聞かせに預かっていくのである。

つまりは、実感や体験だけを手がかりにするのなら、心理主義や独善的な喜びに終始してしまう。かといって、根拠や教学だけを追い掛けていては、一種の教条主義や学解(がくげ)往生に陥ってしまうのである。ここのところ、よくよく心得させてもらわねばならない。

 さて、今回は、それなりに代役が勤まったという点では、満足しているのだが、正直、代役に立たねばらなかった状況は、複雑な気分だ。それに、せっかく、ボイントを絞ってお伝えしたと思っていたのに、その後の参加者の方の質疑のレベルに、かなりがっかりさせられた。「エー! みんなこれまで何を聞いているのー」と、叫ばずにはおれなかったし、もう最後の方には、答える気力も萎えるほど、凹んだー。もちろん、わかった顔をして座っておられるより、ずっといい。皆さんのレベルがわかっただけでも、収穫だったのかもしれないが、けっして、それに迎合するのではなく、繰り返し、繰り返し、要のおこころをお伝えしていくしかない。大きな顔して、「一文不通」や「煩悩具足」のなのもので、正当化されていくようで、なんとなく違和感も残る。

 まあ、内容に触れるまえに、今夜はここまで。

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講習会初日

朝、家を出ると、外はもやがかかって、夕焼けではないのにちょっとオレンジぼい。すぐ「黄砂」ということばが浮かんだ。車をみると、白いところにうっすらと黄色い砂が付いてる。

3月21日。毎月21日は、弘法さん(東寺の縁日)。日曜日に重なって、京都駅から九条通りにかけて、人通りが多い。連休とあって、車も他府県ナンバーばかりで、関東や四国のものも多かった。

自力整体の教室に着くと、「今日は、春分の日ですね」。ああ、黄砂や弘法さんに気をとられて忘れていたけど、今日を分岐に、日にち、昼間の時間が長くなっていく節目である。

帰りは、雨になったり、キツネの嫁入りになったり、妙に温かい風が、急に強くなったりと、なんとも妙な天気。持参したレインコートが役立つ。

さて、今日から、講習会だ。悟朗先生の講習会で、安心論も称名篇に移って、もう一息。昨夜になってもテキストが出来ていないので、ぼくもこれまでの教案を探して、なんとか形が整った。なんとも複雑な気分であるが、高齢の中でも貴重な講義である。淡々と進んで、ほとんど初日の昼座で予定分が終わってしまって、夜少しやると、テキストはあっさり終了して、質疑である。

明日の朝は、ピンチヒッターに立つことになったので、講義には出ずに、一夜漬けで勉強中。まあ、簡単に終えて、懇親会にでたいなー。

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学位記授与式

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 母校である龍谷大学大学院の学位記授与式(卒業式)に、家族揃って出席した。

 春の陽気。気持ちがいい。

 ぼくが、この場所で、大学院修士課程を修了したのは、22年前になる。そのときには、まさか子どもImg_6474のためでなく、連れ合いのために出席することがあろうとは、想像だに出来なかったなー。場所も同じ、この深草学舎の顕真館だった。

 式の後で、個別に学位授与があるので、子どもたちと、キャンパスで遊んでいた。汗ばむ陽気だ。かなり待ったので、キャンパスを見て回った。中心の建物は同じだImg_6478が、周りの風景はずいぶん変わっていた。

 変わったといえば、博士号の授与があったことだ。これは、ぼくたちの時代の文学部では考えられないことで、コース博士、論文博士などといわれる制度が大きく変わったからである。でも、どんな人が授与されるのかと思っていたら、演壇に昇るのに介Img_6492助が必要な高齢者か、アジアからの留学生ばかりで、若手の日本人はほとんどいなかった。制度が変わっても、まだまだ精神的な壁は高いのだろなー。

 あとは、言っちゃ悪いが、挨拶(祝辞)が平凡でつまらなかったことかなー。建学の精神といえば立派だけと、もうちょっとね、お願いしますわImg_6506_2ー。

 もう一つ、学位記の様式が、まったく変わっていたのも、ビックリしたなー。ぼくのときは、表彰状スタイルで筒に入っていたけれど、いまImg_6471_2のは、ブックレット式(?)になっている。

 とにかく、連れ合いは、修士(終始?)満面の笑みでした。Img_6508

 難関だった博士課程への入学も決まって、論文を提出する気も、マンマンでありました。

 ちなみに、顕真館の外の正面に掲げられるのは、故平山郁夫画伯の「祇園精舎」の陶版画。正面のお名号は、親鸞様の直筆の写し。

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最近、読んだり、読もうとしている本

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 最近、こんな本を読んでいたり、読み終えたり、読もおとしている。ちょっと簡単に紹介。

1)『「食」は病んでいるのか』~揺らぐ生存の条件~(鷲田清一編著)

 ぼくの子供のときには「食育」という言葉はなかった。どうも馴染み難いこの用語が、いまやすっかり人口に膾炙され、用語として成り立っつまでになった。いまほど、食に対する関心が高く、多様化されていた時代はなかっただろう。しかも、その多くが、危機感である。しかも、それは単なる食の問題ではなく、おおげさにいうならば、人類の滅亡や人間存在にかかわる危機として語られている。それにしても、毎日、毎日、3度、3度(2度の人もあれば、4、5度の人もあろうが)、食という行為ほど不思議なものはない。口から他者(生命)を取り入れ、拒絶反応を起こすことなく、必要な栄養を奪い取り、不要なものを排泄していく。飽きることなく、毎日、毎日、延々と延々と、この生がある限り続く行為である。
 「生きるとは食べること」という鷲田の論考で始まる本書は、食という素材だけななく、食べるという行為そのもの不思議を通して、人間生存のそのものをあぶりだそうとする試みだ。ちょっとそこまで書くとおおげさかも。まあまあでした…。

2)『それでも、日本人は戦争を選んだ』 (加藤陽子著)

 はらほろひれはれさんのブログで見つけたもの。上級(?)の高校生相手にした、加藤陽子先生の講義本。日本が歩んだ近代化の過程での国家間の戦争について、体系的に記述されている。歴史軸が、日本だけでなく、アジアの視点、欧米列強の視点、もちろん、国際情勢の視点を、総合的にたどることで、結局、近代の戦争が何をもたらし、今日の国際社会へと連綿とつながる基本的な原理、原則は何かなど明らかになる。歴史事実の積み重ねだけでなく、その背景にある生身の日本人が受けた傷や衝撃といった、心情や意識にも言及しながらのお話は、なかなか興味津々でありました。

3)『共感覚者の驚くべき日常』~形を味わう人、色を聴く人~
  
(リチャード・E・シトーウィック)

 小さな書評が目に留まり、ネットで中古本を購入。
「共感覚者」とは、「共感」覚者ではなく、「共感覚」者である。共感覚とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。 例えば、「ものを食べると指先に形を感じる。音を聴くと色が見える」というような、五感が入り混じった人たちである。本書の要約から抜粋すると、「10万人に1人というこの共感覚をもつ人たちは、まったく正常に暮らしており、本人が告白しない限り共感覚者かどうか見分ける方法はない。それどころか、共感覚者は特異な記憶能力を発揮することさえある。また、カンディンスキーやナボコフなど、共感覚のある芸術家も多く、その作品に影響をおよぼしているという。共感覚者の脳のなかでは、いったい何が起きているのだろうか。本書は、共感覚者の脳を研究しはじめた神経科学者が、やがて脳科学最大の謎である「意識」の正体へと迫っていく、たぐいまれな探究の書である」とあった。類まれかどうかは、ぼくには判断出来ないけれど、共感覚者との偶然の出会いから研究が始まり、脳のしくみや感覚認知などについて、ミステリー仕立てに描いこうとされたものであることは確かだ。でも、別に「共感覚」者だといっても、超能力者というわけでないのが、また面白い。話は変わるけどれ、観音菩薩が、なぜ「音を観る」のか。もちろん、これは、「観世音菩薩」のことであり、翻訳の問題もある。仏・菩薩は、悟った共感覚者そのものかもしれないなーー。

4)『ハチはなぜ大量死したのか』(ローワン・ジャイコブセン)

5)『見る』~眼の誕生はわたしたちをどう変えたのか~(サイモン・イングス)

の2冊はこれからの楽しみ。前者は、昨年話題になったもの。後者は、視覚優位の現代社会における、眼と、「見ること」の不思議を探るもので、興味がある。

6)『傾聴術』~ひとりで磨ける「聴く」技術(古宮 昇著)

 悩みの例話に対して、さまざまな私達が行ないそうな応答が示されて、それに対するコメントが出されていく。もし、それだけなら、手にとっただけですぐに棚に戻しただろうが、そこで示されていたケース例が、船岡三郎先生のものだったので心惹かれた。なるほど、傾聴がめざすものが何か、共感的態度とはいかなるなにかが、具体的に示されている。特に、傷つきやすさ、閉じていくものへの寄り添っていくことが、いかにデリケットな問題であるかがわかる。なぜ傾聴することが大切なのか。これについては、先日の研究会でも話した。長くなるのでまた項を改めるが、普段、華光の座談会でおこなわれる質問の類が、いかに「侵入的」な強引なもので、しばしば話し手の心を硬くして、心を閉ざしていくのかがよく分かる。これだけでも、収穫大。

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輪読法座

 3月の輪読法座。

 2月に引き続き、平日。京都や大阪の顔ぶれは固定しているが、東海支部や福井から参加者もある。先月が火曜日で、今月は木曜日。曜日が変わると、お勤めの都合で、参加の顔ぶれも少し変わる。今日は11名ととても少なかった。それでも、東海や福井などの遠方からの参加者もあり、また初の輪読法座参加の方もあって、うれしかった。こじんまりとした分、笑い声や苦笑も含めて、和気あいあいとした楽しい雰囲気で、厳しい話を聞かせてもらえた気がした。

 誌上法話を頭から読む。「不断煩悩の味わい」のところ。前半は、多少、お正信偈の解説があるが、後半からは、身近な話題になってくる。特に『仏敵』に説かれる
「神様は正直になれ、
諸仏(釈尊)は善人になれ、
阿弥陀様は悪人めがけたお救いである」

 この悪人がお目当てということほど、一般常識とかけ離れたところはない。そこが有り難いと同時に、このこころは、常識的聞き方では、なかなか入ってこない。今日も盛んに話題になっていたが、仏法に会う、仏様の尺度を頂かないかぎり、自分こそが極重悪人の張本人だという自覚や内省は、まず生まれてくることはない。だから、「自分を知れ」と教えてくださる。しかし、私の本体は、「いつ何時、手が後ろに回るやら、救急車で運ばれるようになるやら分からないものを持っているじゃないですか。だから、自分を知れと教えてくださる。でも、なかなかこれが知れないんでしょう」というのが、実際のものがらである。しかし、私の実感がそうであろうとも、事実は、身や口だけでなく、こころでつくる罪も、一旦起こっした罪業は消えないのである! なんとも恐ろしい話だが、それがまったく自覚出来ないのというのだから、ほんとうは、そこにゾッとーするしかないのであるが…。

 真宗の教えは難しい。同時に悪人めがけた易い教えであり、この味わいはほど尊いものはないというところを、各自が、わが身のところで味わい、分かち合った法座だった気がした。

 次回は、4月24日。土曜日に開催することになった。

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華光誌終わり、ピアノおさらい会があり、研究会へ。

 華光誌(69巻2号)が、やっと印刷所に渡った。最後まで残っていた「聖教のこころ」は、歎異抄の第9章にした。「二つの問いと一つの答え」と題したもので、この問題はここでもいろいろと書いてきた。要は、あてたよりにならないわが「心」を見つめるのか、同じ心をもちながらも、弥陀の本願をたよりにするのかであろう。前者を自力といい、後者を他力というのだ。 あとは、3月末の完成を待つだけで、発送の準備があって、発送は4月2日を予定。

 ナナを迎えに行ったあと、年に1度のピアノのおさらい会。発表会というより、普段着で、1年の成果を報告するもの。新しい顔ぶれが増えて、ちょっと賑やか。4歳児から、中学生まで。小学校の知り合えたのお母さんも多くて、少しだけ賑やかになっていた。わが子は、緊張の極致。でも、1年で、ずいぶんうまくなっていて、感心した。なんでも、継続は力だなーと。確かに、目に見えて、成長や成果があるとモチベーションが高くなるし、楽しい。でも、だんだんうまくなればなるほど、急激な成長ではなくなるし、また壁もある。そのあたりで、「うちの子はピアノの才能がないので」と、止めてしまうことが多いそうだ。どうやら、わが子ものその手前まで来ているようで、ここから、逆に繰り返しの練習となる。

 浄土真宗の聞法が難しいのは、ここだなー。確かに、お育ての力というのがある。分からなくても、繰り返し、繰り返して、嫌になっても、同行に励まされて育ててもらう。しかし、世間的な常識とはまったく違うところもある。なぜなら、まった虚仮不実の自分とお聞かせ預かるのだから、聞き始めもスカンタなら、いまもまたスカンタな聞き方しか出来ていない。その意味でも、わが心ほどあてたよりにならないものはないのに、どこかでそれをたよりに聴聞をしてしまう。だから、自力の心は捨てろというお示しに出会う。ただ重ねれば、いつかはとは違う。最初から、最後まで間違っているのであるから。

 ちょっと横道にそれた。

 すぐに、「真宗カウンセリング研究会」のために龍谷大学へ。M先生が欠席で、部屋を開けるために10分早めに到着。初めてお会いするカウンセラー養成講座の講師のカウンセラー。浄土真宗に強く関心もっておられて、僧侶を目指しておられるという。真宗(仏教)とカウンセリングの出会いなり、統合なりに関心をもったり、体験されている方が、少しずつ拡がっていることが、うれしい。
 一年間、輪読してきた「十分に機能する人間」のまとめ。途中までを通読したが、ぼくなりにいろいろと気付かせもらった。自分のところもいろいろと話した。この場を利用して、ちょっとわだかまっているあたりも聞いてもちえた。いろいろと書きたいこともあるが、疲れている。

 明日は、華光誌輪読法座が、昼1時30分から5時まで。平日。木曜日だから参加できる方もあるだろう。人数が少なくても、しっかり聞き合いたい。元気だったら、終了後に、映画を見に行きたいなーと。

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今週みた5本の映画

 今週は、高山法座のあと、華光誌の編集作業だ。並行しながら、8月の子ども大会の会場やら、9月の聞法旅行の案内文などの相談と、近々に近づいてきて「広島真宗カウンセリングWS」の問題などで、何かと相談事も多かった。いろいろと用事があったわりに、うまい具合に映画は見れた。隙間時間と、上映時間がうまく合致したのである。月曜日~金曜日の5日間で5本。京都シネマで3本、みなみ会館で1本、自宅で1本のDVDを見た。

 そのどれもが秀作ぞろいで、何か書こうとしたが下書きで終わっている。ほとんどの映画がそのまま下書きに残ったまま、次ぎの映画を見るからである。せめて、映画のタイトルと一言だけでも書いておけば、またの機会に思い出すこともあるだだろう。

 自宅で見たのは、4年ほど前に、みなみ会館でみた大好きな映画。気分転換を予て、ひとりで食事をする時間を利用したが、短い映画なので、一気に見れる。『ビファア・サンセット』(Before Sunset) 。この9年前に造られた『恋人たちの距離』(酷すぎる邦題はガッカリ。本当は、Before Sunriseなので、続編とツロクするんだなー)の続編。もうこの間隔だけでも、成功している。ぼくたち夫婦は、『恋人たち~』を見たときは、まだ婚約中だったが、『ビファア~』は、結婚してから二人で見に行った。ぼく好みで面白い。臨場感溢れる会話のテンボがすごくいい。このころのイーサン・ホークも好きだし、ジュリー・デルビーの歌も好きだ。やっぱりラストの終わり方ね。何年後かに3部作あるんじゃないかなー。ニーナ・シモンの「Just In Time」が効いている。こうなると、ニーナ・シモンばかり聞きたくなる。

500summer_01

 『(500)日のサマー』は、めちゃくちゃおしゃれなビター&スィートーな恋愛映画。このけっして大甘じゃないところがいい。いかしている彼女だけど、ちょっと変人で、かつ恋愛に覚めている。男性は、いま流行りのアメリカ版草食系男子かなー。彼女に一目惚れ。タイトルとか、ボップなセンスがすごくいい。おしゃれ度80%、クスグリ度もほどよし。

 『フローズン・リバー』は、出演者も、監督も地味、テーマも画面も、天候も時間帯も、やたらに暗い。いや、暗すぎる。だFrozenriver_01が、遥かにぶっきらぼう光りも見えていて、非常に深みのあるインディーズ系の問題作にして、感動作だ。しかし、あまりにも痛い。途中、下腹のあたりをグーと押さえつられる感触が続いたが、途中の何気ないシーンにも、悲劇がおこりそうな不安感、ハラハラ感に包まれて、最後まで目が離せなかった。きれいごとじゃない、下層の人間の本音まるだしのこんな映画に、ぼくは惹かれる傾向があるようだ。

 カナダとアメリカ(ニューヨーク州)を分ける国境の川と、インディアの保護区が舞台。ギャンブル狂いの夫に有り金をすべて持ち逃げされた、子供を抱えた中年女性。貧困大国、アメリカを地で行く生活。100円ショップのパートで糊口を凌いでいるが、トレラーハウスを新築するのも夢のまた夢。一方、夫が事故死し、生まれたばかりの子供が実家に引き取られ、満足な仕事ができない原住民の若い女性が、零下30度の世界の凍りついた川を渡って、違法な密入国に手を染めていく。けっきょく、ボーダーなんてすよね。一線を超える。犯罪に手を染めるのも、国境を超えるのも。そして凍結した川と、春に凍結の緩みと対比もいい。痛い度は90%ながら、お勧め度も高い。

Caravaggio_01

『カラヴァッジョ』は、16世紀のイタリアの天才画家、カラヴァッジョの破天荒な生き方を描いた、わりと正攻法の伝記映画。イタリア・フランス・スペインなどの合作。なんでも、今年が滅後400年で、いま格好を浴びているという。「光の部分は美しく、影の部分は罪深い」という大胆なリアリズムとコントラストの強い陰影で人々を魅了し、教会や貴族などの有力なパトロンを得ながらもら、同時に、自らの押さえ難い熱情的な暴力性で破滅していく姿が、まさに彼の絵画世界そののもで、ある種、美しかった。美術度70%。イタリア地理や歴史の必要度30%。

 もう一本は、みなみ会館で。『ウェーブ』は、2008年のドイツの作品。実話にもとどく、社会派の問題作だけれども、サスペンスみたいでドキドキした。ドイツの高校。1週間の特別講義のひとつに「独裁政治」を学ぶ集中講義。みんな、「ナチスのことはうんざり。自分だけはそんなものに騙されない」といWaveう生徒ばかり。ところが、先生が独裁者役となり、最初は興味半分で始まった心理実験が、現実の生活で不満や寂しさを覚えている生徒たちを熱狂させていって、瞬く間に集団狂気へと走らせていく、アメリカで起きた実際の事件を元にした衝撃のドラマだ。結局、独裁者の精神問題だけでなく、民衆側にも不満や差別、孤独といって負のマグマがうごめいていて、それがグループの中での尊重や団結、選ばれた者たちという特別意識が伝染することで、誰もが熱狂していく。部外者や批判者=標的とする敵が現れると、一方的な攻撃が、組織内部が団結を一層強固にしていく。最後は、指導者の先生にも制御できない事態となって、予想外の悲劇が起こる…。見ているぼくまで、知らないまに、生きがいを見いだしたかのように、嬉々として団結し活動しだした彼に、感情移入していたものなー。冷静に覚めて、批判する奴らなど、ぶっ潰せという気分になるから、ほんとうおそろしいぞー。

 当然、これは政治だけじゃない。宗教だって同じこと。あ、これをどこかで体験している人もいるかなー。善知識に絶対服従というやつね。目的が集金マシンであっても、まったく構造は同じなんだ。独裁者だけの責任でもなく、また騙された方が悪いというわけでもない。世論だったり、集団だったり、現実逃避や差別や不満だったりと、さまざまな心理的、社会的条件が重なったとき、人は理性を失い、いとも簡単に狂気へと走るわけ。しかもそのプロセスでは、脅されたり渋々ではなく、これこそが生きがいだったり、真実にであった高揚感で、賦活感を味わうところに恐ろしさを感じる。宗教でも政治でも、人心を操作する点では同じということか。 洗脳度77、7%。

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明日は福岡、もろもろ…

 明日から九州支部法座。

 パソコンを持ち込んで華光誌の作業をしたいところだが、和讃の行商を優先。華光誌は、「後記」もいま書いて、あと「聖教のこころ」を残すのみとなった。

 ちょっと変則で、日、月になる。

 いつもなら、金曜日に法座準備をして、土曜、日曜日が法座、月曜が「映画」というリズムがあるのだが、1日違いで、ちょっと妙な感じである。

 珍しく土曜日の自力整体の教室へ。

 声に誘導されながら動く。その中で、「凝ったり、詰まったりしたからだは、響きませんよ。よく響くからだをつくりましょう」との言葉。

 確かになー。いろいろな自力の計らいや思いばかりが淀み、詰まり、凝りになってずっしりのしかかって来る。そんな身体では南無阿弥陀仏はなかなか響かないなー。空(から)だからこそ、「南無阿弥陀仏」が飛び込み、反響して出て下さる。

「空念仏」の「空」は、おのれを空しうして聞く姿そのものじゃないかなー。

九州支部法座

日時:14日(日)昼1時30分(受付)2時~15日(月)夕5時(4時30分に終了)

会場:福津市「ウェルサンピア福岡」
(譲渡されるので、この会場も最後。海岸が美しかっただけに残念ダナー)。

内容:法話(3座)と、座談を中心に。「歎異抄9章」、「心を堀り、身をさばけ」「回心について」などの予定。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/kyusyu2010-3.htm

大阪支部法座

日時:14日(日)昼1時30分~4時30分

会場:奈良県生駒市「セイセイビル」

講師:増井悟朗先生(法話と座談会)

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/osaka2010-3.htm

日曜礼拝

日時:14日(日)昼1時30分~4時30分

会場:華光会館

内容:子供と大人が共に勤行、ご聴聞。分級座談は分かれて、子供は茶話会やゲーム。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/nitirai2010-3.htm

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華光誌作業中~偽物念仏、本物念仏~

 華光誌の編集作業がつづく。

 要領よく作業できるようになったので助かるが、宿泊法座と宿泊法座の間での作業なのでなかなかたいへん。今回は、14(日)15日(月)の九州法座の日程がネックになっている。月曜がを挟むので、作業が難しい。それに、今日は、連れ合いが、ちょっと体調を崩して、子どもの送迎やら、外に食事に連れていくと待たされるやらで、ちょっと時間もとられたが、まあまあである。

 今回は珍しく記事が不足気味。原稿も、随想や通信は、小粒(短め)なものが多い。

 かなりページ合わせに苦労して、本当は次回に予定していたものも掲載した。

 何気ない言葉に有り難さを感じている。

 ある方の体験記の短い言葉。

 お念仏しかない。「お念仏してみなさい」と、勧められても出来ませんでした。今お念仏しても、これは偽物のお念仏、本物ではありません。「するものか」とさえ思いました。

 そうなんですよね。「今念仏しても、これは偽物だ」という心こそが、熱心な求道であるように見えて、仏敵の心なんでしょう。
 お念仏に偽物なんかない。お念仏こそが真実であり、本物なんでしょう。「念仏まこと」!ただ、私の称えごころが、「空」(から)であり、偽物なだけ。そこを聞くんですよね。

 どこかに、本物の念仏があるんじゃない。私の口からでる「南無阿弥陀仏」こそが、常に真実、本物そのもの。どこからか呼び声が聞こえるんじゃない。ウソの私、偽物の私の口からでる、真実の「南無阿弥陀仏」こそが、私に呼びかけ、呼び覚まし、浄土に呼び返す仏様の呼び声なんです。どこか遠くに「本物」があると思って、その念仏を外に探して、本物になろうと握りかかる。その私が本物になろうとする心こそが嫌らしい、恐ろしい。私は、どこまで言っても、正真正銘(?)の偽物の塊、不真実の權化といっていい。その私の不真実の口から、「南無阿弥陀仏」の真実が飛び出してくださるまでに、どれほどの法蔵菩薩のご苦労があり、お手間があったか。虚仮不実の私を見ればみるほど、勿体ないじゃないでかね。「するものか」という疑い一杯の私の口をこじ開けて、飛び出してくださる南無阿弥陀仏に、今、すでに会っているんですからね。

 でも、私は、有り難いから、泣けたから、スッキリしたから、無意識に飛び出したから「本物」だと証拠にする。あくびがでるか、白けるから、他所事だから、無理に称えてるから、すぐに終わるから、「偽物」と決めている。要は、自分の心の出来不出来だけが心配で、問題にしている。「おまかせしたか、していないのか」という「称えごころ」ではなくて、ほとんどが、有り難いか空しいかの感情か、意識か無意識の区別を「称えごころ」と勘違いして、ダメ、ダメと、私が勝手に決めつけているわけです。とんでもないなー。阿弥陀様のご苦労は、どこに行ったの?虚仮不実の自分が、真実があるのでしょうかね?

 実は、凡夫往生の証拠は、私の喜びや確認にあるんじゃない。「支証(証拠)は、南無阿弥陀仏だぞ」と、蓮如さまが仰っている。そう南無阿弥陀仏こそが、これほどハッキリ、クッキリした証拠なんだというわけです。だって真実の塊もんだもの。

 別の方の短い随想の一言。

 どうにもならない心の内をどうにかしようともがき苦しんだこと。「あなたの信心で大丈夫か。その南無阿弥陀仏一つで後生任せられますか」との問いかけ。どこまで聞いても、聞くことの出来ない自分だと分かるまでに、どれほどの時間がかかったことか。

 要は、「どこまで聞いても、聞くことのできない自分」。聞くことができないということは、つまり真実信心など得られない、他力の称名にはならない、往生はかなわないということですよね。私の力ではどうしようもない、ただ落ちていくだけということでしょう。

 こんな楽なことはないよね。

 凡夫は凡夫の仕事をするだけ。私は私であるしかない。虚仮不実の、地獄行きの私は、虚仮不実のまま、地獄行きだとお聞かせに預かるひとつで、不思議にも満ち満ちる世界が待っていたとはね。

 いや、参りました。

 それはそう、明日も華光誌がんばろうー。

  

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講習会の〆切ですが…。

 春のお彼岸の中日は、華光講習会があります。

 増井悟朗先生の詳細な安心上の諸問題についての講義があります。

 「真宗の基礎」と題する講義も、教義論から始まって、安心論に入り、その安心論も、
①名号論(安心の本質=⑴序論(聞の構造など)、⑵六字釋、⑶機法一体、⑷所帰人法)、
②信心論(安心の構造=⑸三心一心、⑹信心正因、⑺二種深信)とつづいて、
 今回からは③称名論(安心の展開)に入っていきます。第8回目ということですね。
 今後、④得益論(安心の価値)へと続いていきます。

 今回の称名論は、安心の具体的な展開、相続(HPは「僧俗」になってますね。訂正してもらいます)の姿としての称名について、詳しくお話を窺います。

 半日だけの聖典講座はともかく、2日間の、悟朗先生のまとまった形での講習会は、先生の体調面からも、もしかすると今年が最後になる可能性もあります。もちろん、来年、再来年もつづくかもしれませんが、これを機会に、ぜひ、皆さんにもご参加いただきたいです。今回が、初めての方も、ぜひどうぞ。分かるとか、難しいとか、関心があるとこを超えて、2日間の増井先生の姿や声に、実際に触れてもらいたなーという気がします。 

 締め切りましたが、まだ定員に若干の余裕があります。1日だけでも可能です。宿泊が不要な方も、テキストのコピーの都合がありますので、お申し込みください。1日だけでもOKです。

 あとHPでは、教学講義となっているけれど、華光では「教学」という言葉を使ってこなかったですね。たとえ、教義や安心上の講義であっても、何かを覚えるための講義や、これが「華光の教学だ」といって決めつけて、それを勉強したり、試験しないとご信心が開けないとは説いておりませんし、それを学んだ特別な講師もおりません。もちろん、真宗の伝統的な教義や安心上の説示には即しているのですが、つきつそると、弥陀の本願まことが、悟朗先生という凡夫の人格を通して、あくまでひとりひとりがお聞かせに預かる、いつもどおりのご法話の延長になると、ぼくは理解しています。だいたい最後の方は、先生のご法話になって、有り難いです。

 日時:3月21日(日)1時30分~22日(祝・月)4時30分

 会場:華光会館

 受講料:2日間=6,000円(1日=3,000円)、テキスト代、茶菓子代を含む。

 テーマ:「真宗の基礎」安心論のうち・称名論①

 講師:増井悟朗師

 締め切っておりますが、定員に若干余裕あります。お早めにお申し出ください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/koshukai2010-3.htm

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高山支部法座~響流十方~

  高山支部法座。

 12月と、3月の寒い時期が、ぼくの担当である。

Img_8311

 共に、華光誌の発送時期に重なるが、今年は、ノートパソコンを持ち込んで、車中で作業をした。下呂温泉や高山という有数の観光地に向かう特急列車は、車内放送まで沿線の名所の案内がある。高山の街も、小京都の風情があって美しい。しかし、皆さんの華光会館行きと同じで、京都に来ても京都駅と十条駅を往復するだけなのと同じで、別に高山観光をするわけではない。それでも、車窓からも旅情が味わえて、気分はいい。いや、Img_8316いいはずだった。実は、名古屋から岐阜までは座席と進行方向が反対だし、高山線にはいると川沿いの山道を走るので列車はよく揺れて、パソコンをジッとみている内に、ちょっと気分が悪くなってきた。それなりに作業は進んだけど…。

 この時期にしては、随分、温かい。途中の雪も、平野部ではほとんど消えていた。

 東海から4名、京都から3名の宿泊があった。いつもと比べると、ちょっと少なめ。各地法座のある影響か。今回は、大学生を含めて若手の仏青メンバーが5名。うち2名が初めてであるが、あとは常連。その中のひとりのS子ちゃんが、郷里に帰省するのを機に、自ら「さよなら、S子、高山聞法ツアー」と称して、みんなに呼びかけた。彼女たちは、8年前の学生時代から、このF家でお世話になり、ずいぶんの育ててをいただいている。年齢も、性別、地域を超えたご法のつながりは、温かいなー。ちょっと親の家に帰って来た気分である。懇親会も夜が更けて来ると、ここ14、5年前からの仏青メンバーの変遷をたどる数々の写真が登場した。おお、ぼくによく似た弟さんが写っている。ずいぶん、肥えていたなー。ずいぶんフサフサしていたなーと。このあたりから、ご苦労が絶えず、おヤセになられたんだーと。みんなも、写真をみては、あること、あること(全部あるんかいー)を言い合った。同時に、その間に、お浄土に帰っていかれた同人の姿が、妙に懐かしい。また、娑婆にあっても、「いまはなき」の方も多いなと。〇〇さんどうしたのだろう。××子はいまいずこ。ご縁といえばそれまでだが、ご法の縁ほど不思議なものはない。その間にもいろいろなことがあったなと振り返ると、ぼくもちょっと感慨深くなってきたが、昔話になってきたので、居残lり組より、少し早めに休むことにした。

Img_8324

 朝、目を覚ますと、窓の外は一面の雪景色だ。

 いつから雪になったのだろうか。

 川は、台風の洪水被害の影響で護岸工事が少しずつ進み、風景が少し変わってきたが、冷たい雪解け水で、水嵩をました川面に、キラキラ、ガラスのように光る雪が、幻想的に映っている。
 でも、地元の人には、この程度の雪は雪ではないようだ。「ベタ雪で積もる心配ないですよ」と言われたが、昼になっても、夕方になっても止まずに、車で来たS子ちゃんたちは、高速がチエーImg_8319ン規制になって、地道をいのちがけでもどることになって、それはそれで、たいへんなような、楽しいようなエピソードがあったようだ。これもまた青春だね。 

 そうだ、肝心の法座だ。法話は3座。歎異抄の9章、「三帖和讃」講讃(上)の解説に、現世利益和讃を唱和していただき、最後は、念仏者の現世の過ごし方と聞法生活がテーマだった。ばらばらのようで、そこにはつながりがあったように思う。

 実は、最後の座談会で、ご縁のある方が現れて、とても有り難かった。ご近所の方が、別に、華光でも、S会でもなく、本や普通のお寺参りだけで、自分のこととして、罪悪を見つめ、阿弥陀様のご本願を聞いておられる。詳しくは控えるが、彼の「私こそが人間失格です。人間ではありません」という内省と、自ら、二河喩の弥陀の招喚を、自分ひとりに聞いておられる姿に、一同、感動した。いきなり、こんな人に出会うことは、ぼくの経験でも千中一人である。

 また、S子に「パァー」と拉致されて初高山の禅僧が、盛んに「バァー」という発言が、ぼくのこころに響いてきた。ここまでのご縁が「パァー」という他力なら、ここでのご縁もそうである。そのままここでも、それを実現してもらいしましょうと、クネクネと悩む彼はそのまままに、座布団にすわったまま、バアーッとみんなで如来様の前に連れてきて、皆さんに、パァーと励まされてお念仏される。その姿が尊いと、S子もデュエットで念仏にきた。一段落すると、モゾモゾを始めた彼を、そのままの姿勢でまたパァーと戻ってもらった。

 その姿が、なんとも愉快で、尊かった。みんな笑いながら、大念仏である。

 ぽくたちの思いは、ほんとうにちっぽけだなー。

 でも、そのちっぽけで、浅さかな思いに、思い切り固執せねばならない浅はかさ。

 他人にも認めさせたい。相手を変えたい、分からせたい、理解してほしいの思いだけで、ぜんぜん弥陀の本願なんか聞いていない。そして、ますますこころは淀み、そこにいやらしいゴミが溜まっていくだけだ。

 しかし、そんな小さな淀みなどお構いなしなんだ。

 F家の前を清流が滔々と流れているように、お念仏の真実、清浄の響きが、滔々と流れいく。

 まさに響流十方だ。 

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『ユキとニナ』+『不完全なふたり』

Yukinina_01

 諏訪敦彦の『ユキとニナ』は、前半の崩壊した家族のリアルさと、揺れる少女の情景と成長が、象徴的なメタファーとして描かれる後半が対照的な、なんとも不思議な作品だった。でも、間違いなく上質な佳作だと思った。

 諏訪敦彦の前作(オムニバスの「パリ、ジュテーム」もあるが『不完全なふたり』原作の直訳では「完全なふたり」?、こちらはみなみ会館)もいい映画(商業的ではなく作家主義的という意味で)で、感心Posterした。結婚15年になる夫婦が、友人の結婚式に出席するためにパリにやってくる。友人からは、「理想のカップル」と見られていた二人だったが、実は離婚を決意していた。パリ滞在も、二人は口論を繰り返し、たびたぶつかる。しかし、別れを口にした二人が、そこで気付くことは……。まあ、あらすじに触れるとこんな感じか。
 日本人監督が、フランス人をキャストに、全編フランス語、オール・パリロケの作品で、妻にヴァレリア・ブルーニ=テデスキ。夫役はブリュノ・トデスキーニといい役者を揃えている(下を噛みそうな名前、顔はすぐわかるけど、名前がなかなか覚えられないや)。

 冒頭のクルマから叫ぶシーンにしても、レストランでの友達の会話のシーンにしても、時折、騒音や小声でしばし声が聞き取れなくなる。これって、日常生活なら当たり前のこと。その当たり前さがまったく自然に、丁寧に描かれている。そして、夫婦の口論のリアルさ。何も、台詞や態度がリアルなだけではない。二人の揺れ動く感情の表出の雰囲気がいいのである。カメラのフレームから外れたり、映っていないところ(ドアに隠れていたり、スクリーンの外だったり)の空気や、もしくは何気ない態度やため息から、二人のイライラ感、不安、殺伐として雰囲気が伝わってくる演出が見事だった。

 この『ユキとニナ』の前半は、そんな映画の雰囲気がある。なんでも、あらかじめ台詞があるのてなく、その時の雰囲気で協議され創造されていくそうだ。やはり、カメラの構図から外れたところからも、離婚直前のカップルが持つ伝わる険悪ムードや、不安、イライラといった感情が伝わって来る。妻の直情的な悲しみやイライラ、夫の制御された悲しみや諦めがなんともリアルなのである。ユキが二段ベッドの上から、ドア越しから漏れ聞こえ、垣間見えるパパとママの諍いを、不安げな顔で聞いているシーンなんか、なんとも辛い。

 パリ。日本人の妻と、フランス人の夫の間に生まれた、9歳の女の子。パパも、ママも大好きなのだが、そのふたりの中は最悪。愛想をつかせて妻は離婚し、ユキを連れて日本で暮らすことを決めたのだ。

 幸せになるための結婚生活、家庭生活だったはずなのに、二人に大きな傷跡を残してしました。同時に、その間にいる子どもの心にも…。彼女には、大好きなパパであり、大好きなママなのである。いくら、ママが説明しても、納得などできない。ましてや大親友のニナと別れて、彼女にとっては異国の日本で生活するなんて…。

 なんとか二人を和解させることはできないか。やはり、両親が別れて、ママと二人暮らしのニナと相談して、苦心の手紙作戦に出るがうまくいかない。直接、ママを問い詰めもるが、ただ悲しみが増すばかり。

 「悲しいのにどうして別れるの!」と叫ぶ少女。一緒に暮らすことは、「もっと悲しいのだ」と伝え、あやまるママ。-食卓にあるバイキンマンふりかけのケースがいいぞ。わが家は、アンパンマンだ-。

 ママが彼女と暮らすために先に日本に旅立つ。パパと二人で暮らすユキ。

 パパも苦しみに、深夜、ひとり酒を煽り、大音量で踊っている…。

 とうとう、親友のニナと二人、家出を決意する。パリ郊外の森の中に迷いこんだ二人。そして、親友のニナを残し、ユキは、神秘の森の奥深くへと、ひとり歩きだす決意するのだ。しかも、そこは、時間も、空間も超える神秘の森の入り口だった。前半のリアルさが一転して、まるでファンタジーの世界へ。それは、日本の昔話のように。あれは、誰の夢なのだろうか。日本の森は、杜、鎭守の森、神が宿る場所なんだろうなー。ただし正直、前半の方が、ぼくは好きだ。

 子役の二人がかわいいが、特にユキを演じるノエ・シャンピーの透明で、寂しげな横顔が印象的だった(写真も横顔だ)。

 

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週末は盛り沢山

 今月にはいって華光誌の作業。一昨年の華光大会の誌上法話の編集。われながら、なかなかまとまっていいと思うのだが、80分あって、羽栗行道先生の罪悪のめあて、善太郎さんの歌、そうして法蔵菩薩のご修行と、話題が3つもあって長いのが欠点だ。話題が3つあっても、問題にしたいテーマはひとつで、聴聞は、罪悪にしても、ご苦労にしても、自分のところに引き寄せて、具体的に聞かせてもらうことについて、きめこまやかに、具体例で話している。

 今日中の予定だったが出来なかったので、高山の車中でも作業にすることになる。

 ところで、今週は、高山、北陸(金沢)、広島、聖典(京都)と、盛り沢山の行事がある。北陸の方は高山にこられないし、また聖典にもこられないので、それぞれに分散するだろうが、初めての方でも、もしご縁があればぜひご聴聞においでください。

1)高山支部法座(高山市内、同人宅)

 日時:3月6日(土)夜18時半~、7日(日)朝9時~16時

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/takayama2010-3.htm

2)北陸支部法座(金沢市、石川県青少年総合研修センター)

 日時:3月6日(土)昼1時30分~、7日(日)朝9時~12時

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/hokuriku2010-3.htm

3)広島支部法座(広島市、荒神集会所)

 日時:3月7日(日)昼1時~5時

  こちらは久しぶりに孤杉先生が出講してくださいます。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/hirosima2010-3.htm

4)聖典講座(京都市、華光会館)

 日時:3月7日(日)昼1時半~5時

 増井悟朗先生の正信偈講座です。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/seiten2010-3.htm

 今週末ではない平日法座だが、東京でも。

5)東京支部法座(東京都文京区、全林野会館)

 日時:3月9日(火)昼12時30分~17時

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2010/details/03/tokyo2010-3.htm

 いずれも、講師の法話(聖典は講義)と、信仰座談会。高山(但し定員に達してます)、北陸は宿泊も可能なので、お問い合わせください。

 また、広島、北陸、高山、東京の各支部、もちろん会館でも、『三帖和讃講讃』(2,520円)を販売しますので、ぜひ、ご購入ください。

 ちみに、わが家でも行事が…。長女のバレエの発表会だ。土曜日がリハーサル、日曜日が本番。かなり大きなものだが、残念ながら、今年も不参加。まだ一度も見ていないのが、残念だ

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うれしいひな祭り

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あかりを つけましょ ぼんぼりに  おはなを あげましょ もものはな
 五人ばやしの ふえ たいこ  きょうは たのImg_8260しい ひなまつり

 というわけで、毎年恒例のひな祭り。

 前日には、プレゼントされた雛ケーキを食べた。今回は慎重に保管されていたので、ひっくりかえられなった。

 今夜は、父と母たちと、豪華なちらし寿司を食べる。子どもたちもお手伝いしてつくってくれた。

Img_8268 子どもたちは白酒、大人は、春霞というさくら柄の日本酒を飲んだ。さらりとなめらかの口当たり。もう、春だね。

 食後のデザートは、造られる途中が分からなかったので、カンロに尋ねたら、「今日のデザートは、マーボ豆腐」。いくらなんでも、それはどうかなーと思っていたら、フルーツパンチ風の杏Img_8272仁豆腐だった。なるほど、単なるいい間違い。でも、パンチ風の麻婆豆腐はどうもご遠慮したいわ。

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 下の子も、4月からは小学生。ずいぶん、成長して、ひな祭りの唄も、今年は照れずに歌った。それどころか、ふたりで音楽演奏。ピアニカで、チューリッブを吹いてくれた。ただ、上の子は、一昨日から風邪から喘息気味となり、学校を休んでいる。夜に寝るときには、咳き込んで苦しそうだが、このときばかりは、たのしいそうだった。気分転換になっただろう。

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 こんなことき、やっぱり女の子はかわいいなー。

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『ライブ・テープ』と前野健太

  ビートルズのアビーロドを聴く前は、前野健太の「ライブ・テープ」のサントラばかり繰り返して聞いていた。最近は、耳にこびりついた歌詞が、よく口につく。この映画を見るまで、マエケンこと彼の存在はまったく知らなかった。実は、いまもほとんど知らない。映画は、ワンカット、ワンテイクの74分の一発撮りで、ライブ性のあるワクワク感が秀逸だった。気分よすぎて、ウトウトもした。喜んでCDを買った。でも、最初は、映画でみた時ほど感心しなかった。私小説という言葉あるが、彼の唄は、いわば私音楽である。しかも、若い。それゆえの行き場のない苛立ちや、四畳半的な矮小化された性の表現、かっこの悪い歌詞に、どうもひとりのところで私化されすぎ感が強くて、中年のぼくの感性には、ちょっとフィットしずらいものがあったのだろう。でも、いまは少し違う。繰り返して聴くというプロセスの中で、ぼくの中にも、彼の異質な世界が立ち上がってきたのかもしれない。

Live

 2月のはじめに、京都みなみ会館で、先行ロードショーの『ライブ・テープ』を観た。整理番号は3番。おかげで、前列のいい場所にすわれた。映画の前後は、監督松江哲明の舞台あいさつと、前野健太のミニライブもある。映画と74分、舞台挨拶やミニライブが70分。こんなに饒舌な映画監督は初めてだった。

 2009年1月1日の午後、初詣で賑わう武蔵野八幡宮、15時、着物姿の女優の長澤つぐみが初詣を終えるシーンからギターの音が流れる。バトンをうこて前野健太がギターをかき鳴らしながら元旦の吉祥寺の街を、井の頭公園での野外舞台に向かって歩く。彼の自作曲を歌いながら歩く、一発撮りの音楽ライブドキュメントだ。

 ただ、それだけなのに滅茶苦茶にかっこいいのだ。吉祥寺の街が100205_2計算されつくされたステージになっていく。もちろん、行き当たりばったりの企画ではない。監督の綿密な段取りがある。雰囲気抜群の路地のスタンドの前では、二胡をもったメンバーが待っている。ビルの角にはサックス奏者。でも、計算外のことも起こる。カメラの前を平気で人が歩くし、車も横切る。時に、アドリブでのちょっとしたからみもある。監督が、前野に注文をつける。「もうすこしかっこ悪く」とか、「そこで、sad song」とか。最後には、この企画の意図の会話が収録され、彼の父親の死という非日常の世界を、日常的なたわいのない出来事のように歌う「天気予報」の背景も語られていく。

 最後は、井の頭公園の舞台へ。彼のバンドが待っている。そこで「天気予報」と「東京の空」の2曲が歌われて、2009年1月1日16時15分の東京の空が映し出される。この場面もは、演奏許可がおりずに、黙認されたゲリラライブだったそうだが、なんとなく流れる緊迫感は、一発撮りのライブのせいだけではないのだ。このラスト2曲も特によかったなー。

 映画の後で、監督のトークがあり、マエケンが、京都にちなんで「鴨川」という唄を歌う。ちょうど前野の誕生日で、会場みんなとバースディーケーキで祝った。プレゼントの風船が割れると、中にもまたバルーン。その風船が、会場を、ぼくの上をフワフワと漂うなかで、リクエストにあった「Love」の生演奏。アルベール・ラモリス監督の「赤い風船」じゃないけどれ、まるで風船が生きているようだった。

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 終了後、ロビーで前野のサインをもらって、少しだけ感想を話すことができた。

  これがこの劇場の面白いところだ。

youtuboに「鴨川」のプロモーションがあったので、関心のある方はどうぞ。踊っているが長澤つぐみ?

http://www.youtube.com/watch?v=mZmTogIrX_A

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白馬社のHP

 『三帖和讃講讃』(上)浄土・高僧和讃を出版してくださった白馬社のHPにも、和讃の紹介文が掲載されたので、ご紹介しておきます。一度、ご覧ください。

 またいよいよアマゾンでも購入できるようになりります。

http://www.hakubasha.co.jp/products/detail.php?product_id=72

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