自由と決定論
1年ぶりに、真カ研の月例会の担当を引き受けた。
引き受けたものの、いろいろと用事が立て込んで、レジュメの作業が、前日の夜になった。明日は、半日入学もあるし、パンフレット発送の作業の下準備もある。テキパキこなせねばと思っていたが、さっと読んだだけでは、まったく意味が理解できない。仕方ないので、頭が冴えいる翌朝に、再チャレンジ。短い箇所だが、でもやっぱり難しい。まあ最後のところなので、全体を俯瞰的にながめて、これまで要旨をまとめて、今回のところの位置づけをしてたら、なんとなく趣旨は理解できるようになった。それでも、いま一つ、中味は腑に落ちない。結局、午前中だけでは無理で、半日入学を終わって急いで帰宅して、なんとか間に合った。こういう時は、時間がないという切羽詰まった後のない気持ちが、集中力も増してくれる。
今夜は、早めに出かけて、来年度の真宗カウンセリング研究会のパンフレットの発送作業。学生さんを中心に、5名も助っ人たのみ、かつ下準備もしておいたので、あっさりと30分ほどで完了した。
詳しくは、華光会館にもパンフレットがあるし、また以下の真宗カウンセリング研究会のHPから、2010年度の活動プログラムを知ることができるので、ご参照ください。
さて、頭を悩ました担当分は、「十分に機能している人間」という、セラピィの極限を純粋に記述することの意義は、それが臨床経験に根ざしたものであると同時に、臨床的にも、科学的も、また哲学的にも重要な意義をもつとして、A~Gをあげて、その意義について語られているうちの最終回で、「G、自由と決定論の問題に関して」というところ。だいたいの要旨を簡単に述べると以下のようになるのかなー。
重要な哲学的課題である、「自由・自由意志」と「決定論」は、心理学的立場(サイコセラピィ)でも、生きたパラドックスである。つまり、治療関係においてもっとも強く感じる主体的な経験は、クライエントが自分自身の中に、生の選択の力を感じ取ること。つまり、彼は「自由」である。同時に、客観的な研究方法、他分野の科学者同様に、彼の考え、感情、行動は、すべて先行するものによって決定されるという、完全な「決定論」にもくみするというのである。この主観と客観、主体的な現実をみる理論と科学的な礎石である理論、つまり自由と決定論が、パーソナリティ理論の一つの概念である、究極のセラピィの成功例、理想像である「十分に機能する人間」という純粋な提示によって、意外な角度から接近することができるとしている。そこでロジャーズは、両観点にそれぞれに長所があるとみ、決定論は科学的探求を行なうのに有用な視点を提供するし、自由と自由意思は、より十分に機能するようになる過程の不可欠な構成要因なのある。
恥ずかしながら、これだけでは分かったようで、分からなかったというのが、正直な感想。
でも、最初に俯瞰的に読んだことで、この論文を通して気付いたこと、学んだことは大きかったか、これは、来月のまとめの機会にでも…。
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