『おとうと』
山田洋次の『おとうと』を観る。想像以上によくて泣けた。ただし人が泣くところとは、少しぼくのツボは違うのは、自分でよく分かっているが…。自力整体のお友達にも紹介したら、途中から涙が止まらなかったという。
吉永小百合が、賢くてきれいな(還暦すぎてるのにね)お姉さん役。鶴瓶が、困った弟(哲郎役)。お姉さんは、まさに清く、正しく、美しく…。早くに夫と死別し、ひとり娘の小春(蒼井憂)を立派に育て、ちょっと認知が入りかけている姑の面倒を観ながら、夫の残して小さな薬局を切り盛りしている。いつも頑張り続けているのだが、女手ひとつ、たいへんな苦労があったであろうに、まったく所帯疲れせずに気品があるのは、夢のある映画の中ですから…。まあそれはいいです。
しかも彼女には、母代わりとして、小さなときから迷惑しかかけないバカ者、困りもの弟がいる。社会の規格に収まらない自由人だ。自由人といえば、聞こえがいいが、まさにフーテンもの、与太者、人生の落伍者だ。でも、寅さんは、他人には迷惑をかけない善人だが、この人は違う。仕事のない大衆演劇で夢みながら、酒に、博打に、ときに詐欺まがいりで金を踏み倒す。それでいて、子どものような童心さをもち、いちびりで、能天気で、五十を過ぎてもフラフラしているのだ。
こんな人が目立つのは、親戚が集う、冠婚葬祭の席だ。ぼくも仕事柄、葬儀や法事、結婚式などの出席の機会が多いが、非日常の儀式では、なぜかこんな人の行動が浮き立つ。そして、親戚中が眉をひそめるようなKYの行動をとっては、場が凍る場面をしばしば目撃してきた。多少の大小はあるのでが、親戚に一人、二人は、こんなトラブルメーカが必ずいるものだ。でも、みんなの中では、いなかったこととして切り捨ててられている。
やはり、この弟も、姉の夫の法事でも、酒を飲んで大あばれして音信不通になっていたが、一人娘の披露宴に突然現れて、騒動はおこる。結婚相手は、大学病院勤務のエリート医との玉の輿結婚。先方には、社会的な地位や権威的な人達が集っている。そんな中でおこっ、酒での醜態。
でもね。この姉だけは、いつまでも成長もしない、学習もしない、それどころかますますはた迷惑な行動ばかりする困ったさんに、最後まで慈愛注いでいく。いたるところで頭をさげ、借金の肩代わりし、尻拭いをしている。
それには、それなりの深い思いがあるんですね。ネタばれするので言わないけれど、ここでいちばん泣かされた。そんな厄介者、はみだしものが、なぜ、まっとうに生きる夫婦の子どもの名付け親になっているのか。そこには、深い慈愛の心が隠されている。それゆえに、これが単なるお涙頂戴の人情物ではおわらないところだ。いまの日本人が切り捨ている、規格外の困ったさんに、暖かい眼差しが向けられていく。この延長には、大切な場面には、子ども扱いで除け者にされている、ちょっと認知気味の年老いた義母もいたと、知られる。
今日のぼく達は、お行儀よく、賢く振る舞い、上品に、場の空気を読みながら生きている。その中で、浮いた発言、行動を極力畏れている。ましてや、そんな存在の人は、いなかったものにしたいし、そんな行動はなかったことにしたいのだ。そんな哲郎的ものを排除した結果が、今日の成果や効率だけを求め、他者の失敗を許さず、ユーモアもなく、敗者や弱者にも冷たい、息詰まる社会を作っているといっていいのだ。
その背景には、自分のどこかでも、自分の中の哲郎的(鶴瓶)をものを排除して、別物として扱っているからではないか。そんなKYを畏れるのも、単に和を見出し、社会からはみ出すことを畏れているだけではない。実は、社会からはみ出した哲郎的ものがもつ、うわべだけのきれいごとを破って、物事の本質を見抜く力をどこかでを畏れている、人間の虚栄の心なの現れなのかもしれないのだ。
映画は、深いきょうだい愛や慈愛のこころだけでなく、社会制度としても、そんな社会から弾き出された人達に手を差し伸べているNPOの活動にも言及されいる。誰もが、人間として生まれた以上、人間として尊厳ある死を向かえる社会こそ、真に豊かな社会であり、実は、それが私達の(今生での)幸せへの道でもあるのだろうなー。でも、これが難しい。
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