« 48歳 | トップページ | 途中下車 »

不信か、不審か

 雨の広島支部法座。

 1月の親鸞聖人報恩講法要でのこと。例年、『御伝抄』か、最近は、『御俗抄』の拝読が常であるが、今年は、若手の講師方から、「3名で、親鸞様の伝記を寸劇でやりたい」との申し出があった。時間や設定の打ち合わせはしたが、内容に関しては、お任せしておいたら、歎異抄の第9章の、聖人と唯円房の対話を元に、いまの自分のところでの心境や味わいを交えた(ある種のサイコドラマ的要素)ものとなって、なかなか感慨深く、評判もよかった。

 感想や質疑に入って、最後に、ぼくから、「唯円房は、不審なのですか。それとも、不信ではないのですか。不信のまま念仏しているのではなく、ほんとうに、「弥陀の本願」がたのもしい身になってお念仏されたのですか」と、問うた。

 それは、皆さんへの問いかけでもあって、後日、そのことを味わいをくださる方もあったが、大方は、なんとも思わず、ただ、「よかった」だの、「面白かった」だので終わったようだ。それで、今度の広島支部では、そこをご法話しますと、約束していたのである。

 90分ほどの法話だったが、ほんとにう簡単にだけ触れておくと、だいたいこんなことである。

 ご存じのように、第9章は、「念仏(この場合は他力)を申しているにもかかわらず、(1)歓喜心が疎かであるのはどういうことか、(2)願生心、つまり急ぎ浄土に生まれたいと願えないのはなぜなのか」という、唯円さんが、わが「心」についておこった不審を、聖人に問うところから始まっている。

 それに対する、親鸞聖人の対人的態度が援助的であり、すばらしい。

 まず、自身のことを、親鸞となのり、弟子である唯円を「唯円房」と敬意を込めて呼びかけておられる。しかも、「私にもこの不審がかっては(「つる」は過去形)あったと述べ、唯円房も同じ心もちであったのだなー(最後の「けり」は、気付きがあった時に発する感動や詠嘆の「けり」)と、共感されているのだ。

 そして、そこから、しかしそれは過去のことであったが、いまはこう喜んでおられるという2つの問いに対する応えが展開されていくのだが、その2つの構成は、だいたい同じで、対句的になっている。

 結論だけ書けば、そんな頼りない、不純な、わが煩悩具足の「心」であるにつけても、それをお目当てにと立ち上がられた「他力の悲願」「大悲・大願」は、私のためのものであったと、ますます頼もしく覚え、いよいよ往生は一定(決定)だと、わが「心」を眺め、問題にするではなく、その頼りない心を通じて、ますます弥陀の本願を頼りとして、念仏申されているのである。

 しかし、この章は、サラッと読んだら、自力建立の信を正当化する罠がいろいろとある。まず、冒頭の「念仏申し候へども」の、念仏が、自力なのか、他力なのかで、これは大きく違う。しかも、煩悩具足の凡夫なのだから、「喜びなどなくていいのだよ」などとは、おっしゃっていないにもかかわらず、そう都合よく取りかねない箇所にも見える。

 報恩講の寸劇でも感じたか、あのとき親鸞役を演じた、K先生の言葉は、そんなあてたよりにならない、わが「心」を問題にせずに、その「心」ならばこそという、弥陀の本願、つまり弘誓の仏地の上に心を樹てていく喜びが感じられて、あらためて尊かったのである。

 では、O先生が演じた唯円房はいかがだったのか。親鸞様のお念仏の促しに、そこを握ってはいかなかったか。頼りにならないわが「心」にきっぱりと見切りをつけて、弥陀の本願を「たのむ」身になられたのかどうかを、問いただしたかったわけである。

 つまり、これは、不信なのか、それとも不審なのかは、自力か、他力かの雲泥の差であり、もっとも心してお聞かせに預かるべきところだといっていい。

 さてさて、各々方は、いかがでありましょうか。

|

« 48歳 | トップページ | 途中下車 »

法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

ありがとうございました。
お念仏への「喜び心」を問題にされることが、
自力の心ではないか?と思っていました。
親鸞聖人は、何を喜ばせてもらい、何を聞かせてもらっているのかということを丁寧に聞かせていただきました。だからこそ、「いよいよ頼もしく覚ゆるなり」なんだと、、、。
新しく参加された方ばかりでなく、私の周りの友人
も、○○会だからとか、○会だからとかではなく、何を喜ばせてもらい、聞かせてもらっているかというところで、関わっていきたいな、、、。と思わせていただきました。
そして、何より、私は、何を喜ばせてもらい、何を聞かせてもらっているのか。

投稿: Tねこ | 2010年2月14日 (日) 20:25

K先生はいつもとおりのきわめて自然体でしたが、O先生については唯円坊を「無事に演じる」意識がこころを縛っていたようで、親鸞聖人の仰せ(K先生の言葉)への身体的反応がよくうかがえませんでした。たぶん緊張してらしたのでしょうね。

ですので、かりもん先生の突っ込みは、無事お役目を果たしてホッとしてらしたであろうO先生には、気の毒な気がしました。

ただ、いかに「ドラマ」といえど、お言葉は親鸞聖人じきじきの仰せですから、改めてお一人になってじっくりと向き合っていただきたい(いただいているであろうと思います)です。

それと、せっかくの法座ですから、「ドラマ」であってもリラックスして自分自身を出すほうが得になりますね。

まあ、かりもん先生のコメントはO先生の心境の沙汰ではなく「皆さんへ」、つまり私へ、ということですので、ちょっと書かせていただきますなら、「不審」も「不信」も縁に応じていろいろと出てきますが、そんなん、もうどうでもいいのですよ。ここはハッキリさせていただきました。。。本当にもったいないことです。

投稿: Moz | 2010年2月14日 (日) 23:54

ついしんです。
寒中仏青分級では娘がお世話になりました。今はまだ法座に出てくれるだけでもうれしいです。

それと、たいへん遅くなりましたが、お誕生日お祝い申し上げます

投稿: Moz | 2010年2月15日 (月) 00:03

Tねこさん、ありがとう。お世話になりました。東京でもこのご文をいただきました。Tねこさんの「自力」のところでも、また味わせてもらいじつた。ぼくは最近ますますその思いを強くしていますが、真宗の教えというか真理そのものは、とてもシンプルですっきりしているなーと。でも、それをわが「心」が、奇々怪々にしているのだなーとね。と、返信しかけたら、ちょうどMoz先生からのコメントも到着。そうなんですね。きっと身体反応が窺えないというのか、なんかそこがツッコミたくなったところなんのでしょうね。そうか。確かに気の毒だったわけですね。そこまで配慮なかったなー。でも、おかげで、いろいろと反響があって有り難かったです。

投稿: かりもん | 2010年2月15日 (月) 00:08

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 不信か、不審か:

« 48歳 | トップページ | 途中下車 »