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易い、易い救い

 久しぶりの平日に開催。それなりにお参りがあって有り難い。平日だから参加できたという人もいる。「火曜日だから参加できました」という方もあれば、「火曜日は困る」という人もいる。「水曜日にしてくれ」「水曜日はダメ」「木曜日がいい」…と、それぞれ事情が違ってくる。それで、今月は火曜日だが、来月は木曜日という具合に、いろいろと試してみることにしている。

 週末のWSと気分転換の効果で、すごく穏やかで落ち着いた気分で座れているぼくがいた。日頃、ちょっと苦手なタイプの方にも、笑顔で、やさしく接することができる。場の雰囲気も、冬なのに、春の陽気のように今日の天気のように、厳しい話が穏やかに進んでいくように思えた。

 前回のアドバイスで生活の中で、自分が見えてくるようになったという方が、具体的なところで、自分中心に聞法している姿を、正直に話てくださる。確かに、そのとおりだ。お育てにあっておられる。しかし、話の最後に、「次は、どうして行ったらいいのでしょうか」と。

 残念なから、次のステップなどないのである。ただ仏様が知って下さっている自分を聞かせてもらうだけである。仏様からわたしの現在地を教えられる、知ることでだけで、すべてが満ちる教えだといっていい。

 でも、それが続かないという。だから、続けるために仏書を読み、テープ聴聞すると、忘れていたとお念仏に帰っていくのだと。でも、そんな方向に仏様がおられるだろうか。今日は、30分だけ法悦があり、自分を知る時間があったので、明日は1時間、明後日は1時間30分…。それで、一歩、一歩、仏様に近づいたと自惚れるが、そんな方向に願いはない。ほんとうの私は、常に忘れ放しなのだ。忘れ放しどころか、逃げ通しである。もし、ご法に触れてずっと覚えていたいといわれるなら、常に首から仏書を開いたままぶら下げて、24時間ヘッドホンからお念仏や法話を流しておいたらいいかもしれませんよ、とアドバスした。それでも、寝るときは無理やナーと。もちろん冗談。

 しかし、忘れ放しの私が、より忘れないようになり、喜ぶようになることが、本願に相応することではないのだ。他力の本願に相応するのは、まったくその真逆の世界である。

 仏様は、すべてを見抜かれている。すべてを知ってくださっているのである。わたしが地獄で泣いていがるのを、一目ご覧になられたのが、すべての不憫の始まりなのである。そして、昿劫という始めも分からないほどの大昔から今、今も、24時間、365日のあいだ、ずっと休むことなく、一瞬たりとも途切れることなく、ずっと、ずっとわたしひとりをみそなわし、願いをかけて、頼んでくださっているのである。

 私が忘れているときも、寝ているとてきも、惚けているときも、怒っているときも、念仏しているときも、仏様の私に、仏にせずにはおられないという願いは、ずっと、ずっとかかり続けているのである。忘れ放しの私を見抜いて、絶対に忘れないぞという本願が立てられたのである。

 だから、私の仕事は、少しでも忘れようにすることでも、法悦が続くようにすることでも、有り難い気持ちになることでもない。いくら聞いても聞いても、いくら聞いても聞いても、何年聞いても、どんなに真剣に聞いても、頭燃を払うごとくに聞法しても、自分の力ではけっして、本願に相応する身にはなれない、私自身を聞かせてもらうだけである。それが、他力の本願にかなうことだと言っていい。そんな私を見抜いて立てられた本願なのだから。

 ところが、そんな話をしていたら、向こうから「自分が方向違いをしていることが分かったので、どうしたら軌道修正ができるでしょうか。アドバイスをください」という質問がでた。

 残念ながら、その質問こそが方向違いだったと知らされるしかないと申し上げた。自分でコントロールできるような軌道修正など、他力のご本願の前では意味をなさないのだと。ただただ、本願の前に、方向違いのとんだトンチンカンを教えてもらうだけである。しかも、そんな私だと腹の底のそこまでお見通しになっておられいるのである。すべてが見抜かれているにもかかわらず、自分だけが頭隠して尻隠さずで、ボロの上にボロを幾重にも重ね着して、きれいに隠している、いいかっこだと自惚れているのである。その大間抜けの姿をお聞かせに預かるだけでいいのになー。

 弥勒菩薩には、たった一つ、阿弥陀様に頭をさげることができずに、自分でやり抜こうという、おれがの元品の無明のために、五十六億七千万年もあいだ、ご修行をされねぱならないという。しかし、弥勒菩薩は、自力で次ぎに仏さまにお成りになる御方である。

 この私は、自力の修行どころか、善もつめない、仏になることもできない身でありながら、おそろしいことに、自力のこころだけは、有り余るほどもっている。身の程も知らずにも、絶対に頭をさげない奴がいるではないか。絶対に、手放さない、まかせない奴がいるのだ。だから、「次はどうしたらいいのか」とか、「どう方向転換したらハッキリするのか」と、自分がお留守になっていく。

 ただひとつ、「どうかお聞かせください」と、私の頭ひとつを下げるだけであるのに、それがうぬぼれでできない私。では、そんな私に、仏様はお叱りになっておられるのか。そうではない。「そうか、また辛い目をさせてきたなー。どうか、お前のために造ったこの南無阿弥陀仏、このひとつで仏になっておくれ。どうかまかせておくれ」と、なんと阿弥陀様の方が先に頭を下げて、私を頼んでくださっているのである。それが、南無のこころなのだ。

 「どうかまかせておくれ」と頼んでくださっている南無阿弥陀仏さま。なんの遠慮も、躊躇もいらない。ぜったいに役立たない自力などにかまわないで、大きな親の懐に思い切り甘えていけばいいのである。そこには、どうしたらも、次ぎも、方向転換もないである。ただ、それだけの易い教えなのである。

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法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

プリントアウトして何回も読ませてもらいます。

投稿: relax | 2010年2月24日 (水) 22:53

relaxさん、どうもです。
たったひとつのことを聞かせてもらうだけなんだよ。

投稿: かりもん | 2010年2月24日 (水) 22:56

悩み苦しみ ようやく お任せできずに 自分で何とかしようとしていたことに気付き「どうか任せておくれ」の言葉に ふ~~っと 楽になる

けれど 頭が下がらない

投稿: ぼんちゃん | 2010年2月24日 (水) 23:41

ぼんちゃんさん、ようこそ。

>けれど 頭が下がらない

そこを聞くんですよ。そこがありがたい。頭が下らないものだから、先手の親が、頭を下げて頼んでくださるしかない。「南無阿弥陀仏のこころ」じゃないですか。

投稿: かりもん | 2010年2月24日 (水) 23:57

華光会の報恩講ではお世話になりました。米国の聖路易です。先生のご法話をお聞きし「自分は方向違いやったな」とその時は気づかされましたが、、、今の今まで、「一時間おきくらいに尊い仏語が目の前に出てくる機械があったらもっとありがたがれるのになぁ」と真剣に考えていました。易いとおっしゃるが、私には難しいものです。。。

投稿: 聖路易 | 2010年2月25日 (木) 04:09

おお、遥々アメリカからようこそ。アメリカからのコメントは、二人目だな。
 なかなか、ひとりで聞いていくのは難しいよね。
 みんなとても真面目な聞法者だと思うんです。だから、言葉の一言一句を逃すまいと、真剣に聞いてくださる。ところが、その聞いている自分はどうかと問われると、余計に真剣じゃなかったり、いい加減だったりするもんだから、その部分がダメ、こんな聞き方じゃなーダメか、申し訳ないという方向に向かう人も多い気がしますね。
 真剣に聞くのはいいけれど、ちょっとそこに間がほしいんです。その自分を観る覚めた目といっていい。怖くて問えないという人もいたけどれ、結局、こうして聞法、聞法と正しいことのように思っているけど、「結局、俺は何をやってるんだろう」とね。
 そうじゃないと、教えが入って来る(聞こえて来る)余地がなくなるものね。両手も、口も、両足も一杯一杯抱えるだけでなく、ちょっと手放して、これまでの聞法のあり方を眺めてみてもいいかもしれないね。
 自力で聞いてるこんな難しいものないです。
 でも、他力に帰入すると、こんな易しい救いはないんです。
 だったら、難しいことを聞くんじゃなくて、易しいことを聞いてけば、いいんじゃないのかなー。

投稿: かりもん | 2010年2月26日 (金) 01:11

ご丁寧にコメントありがとうございました。上に書かれていることがまるで自分のことと感じたので思わず初コメントしてしまいました。
私からすると「そんなところに仏さんはおらんだろう」と思っているところに「そこにおられるんや」と先生は教えてくださるようで、いつも驚かされます。
「三帖和讃」の校正作業もお疲れ様でした。アマゾンで注文させていただきます。

投稿: 聖路易(セントルイス) | 2010年2月26日 (金) 17:05

お久しぶりです。

お手紙を差し上げようかと思ったのですが結局、ここに書くことにしました。私は昨日、アジャセになりました。ふとしたことで怒りが爆発し、親と口論になりました。私は自分が火傷をしたのは親の不注意だと思っていますので、おまえらは俺に対し、火傷をさせた賠償金、払わんでいいんか? おまえらこそ、罪人じゃと怒りました。火傷のことだけでなく、実家のお金を全部、不動産と株につぎ込み、借金を作り、死んでいった祖父がいます。私は祖父の位牌を叩き割り、仏壇を壊そうとしました。祖母がどうか、それだけはやめてくれというので、その場はこらえました。3回忌の法事で真宗・仏光寺派の僧が来て、仏説阿弥陀経を読んで帰った直後でした。

以前、ボクシングをしていた時、トレーニングコーチの先生が僕の火傷体験を聞いて涙を流してくれました。しかし、愚痴と弱音を何度も聞かされると、人間、同情は失せていくもので、しまいには僕に対しての同情は一切、無くなってしまいました。人間、そんなものだと思っています。初めのうちは同情もするが慣れてしまうと何も思わなくなってしまう。だから、誰も自分を受け止めてくれる人などいないと僕は理解しています。

みな、仏法聞きたくないといいます。それは別に仏法聞かなくても、普通の人には他に楽しみがあるからだと思います。僕には一切そんなものはないので聞きたくて仕方ない。仏様という存在が体験にしがみつく思い込みではなく、本当に存在しているのなら。

でも、単なる体験上の思い込みなら、もう、二度と
華光には参りたくありません。滝山さんあたりから、頭ごなしにいわれ、因果の道理のことで責められるのはもう、ごめんだからです。みな、学生時代にいじめられている子がクラスに一人はいたと思います。そして、見て見ぬふりをして、その場をやり過ごしてきたと思います。でも、それって、いじめに加担したことと同じになるんですよ。不幸は自業自得といい、救いの手を一切、差しのべない、理解しようとさえしない真宗の業理論が大嫌いです。もし、業は仏様しか分からないといえば、そこで思考停止ですね。僕は親鸞会の会員ではなかったし、高森先生と華光の関係など、どうでもいいことなので。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年2月27日 (土) 00:50

聖路易さん>そうです。阿弥陀様はきれいにところにも、また遠いところにおられるのじゃない。愼恚の炎に燃え、貪欲の波が荒れ狂う、私の闇こそが、ご修行の場なのではないでしょうか。ぜひ、一刻は早く、私の阿弥陀様に出会てください。

阿波の庄松さん>お久しぶりです。
 すべてを破壊して滅茶苦茶にしたいほど苦しかったんやね。そして、世間でも仏法の場でも、受け入れられずに、私ひとりがいじめられている。それも自分の責任だといわれる真宗の教えに対して、強く反発する気持ちがするのかなー。
 今現在も、耐えきれない寂しさと、怒りの炎で全身を焼き尽くされている、あなたの声にならない悲鳴に聞こえてきます。

投稿: かりもん | 2010年2月27日 (土) 23:36

ご無沙汰しています。お会いする度に(それはあまりありませんが)プログを楽しみにしているとお伝えしている手前、不信不審 各々方はいかがでありましょうか には是非コメントをと思っていました。しかしいざ自分をみると最近の空模様のように晴れたり曇ったりで判らなくなり、書けませんでした。とうとう私はあかんと匙をなげました。それからすっかり気楽になりました。まともに顔をあげられない中身の持ち主なのに自惚れていたと恥ずかしくなったのです。今はそれもなく、のんきにしている私です。。
大変遅ればせながらお誕生日おめでとうございます。昨年のケーキはインドででしたよね。

投稿: チャン | 2010年2月28日 (日) 14:11

頭が下がらない そこがありがたい

なんて言ってもらうと 頭が下がらなくて いいんだ~ などと思ってしまう自分がいます

ではなく 頭の下がらない私なんかのために頭を下げてくださる阿弥陀様がおられるのですね

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 

投稿: ぼんちゃん | 2010年2月28日 (日) 22:40

ブログ上でははじめまして。本当はすぐにでもコメントを書きたかったのですが、なかなか勇気のいるものです。でもまずはお礼だけでも申し上げたいと思って書き込みはじめてます。
先週はほんとうにたくさんのことを教えて頂きありがとうございました。
先日、自分の心境を「苦しいです」と言いましたが、その後、やっぱりあまり苦しくないような、よく考えると苦しい自分を演じていただけのような、苦しくならなきゃいけないと暗示をかけていただけのような、逆に苦しくないことが苦しいような、何を言っても嘘のような。もう自分でも訳が分からないなとふてくされてしまいました。でも阿弥陀様は私のことを全部知っておられるのですね。
昨日はいのちについてのお話ありがとうございました。なんと自分中心に生きているのかと知らされました。

投稿: キャロル | 2010年3月 1日 (月) 09:34

チャンさん>ご無沙汰してます。お元気でしたか。遥か離れていても、同時に共有できるのって不思議ですね。インドの誕生日。そうでした。バスに揺られ揺られ深夜になって忘れ難い誕生日会でした。あのあとも、2月生まれの人に出会うことが多いですね。

ぼんちゃん>そうです。私のことではない。そんな私に、あまりにも一方的なに願い、頼んでくださる超お節介の塊を、阿弥陀さまと名づられるんでしょうね。そのお心を聞かせてもらうひとつで、満ちるんですね。

キャロルさん>さっそくありがとう。最初のコメントって勇気いるますよね。
聞法は簡単なようで難しいし、難しいうようで、実は易しいという不思議なものです。簡単に「聴聞」とか「聞く」というけれども、何をどう聴くのかの結び目がないと、ただ回数を重ねたり、真剣になろうと力んでみても、聞き損じていくのが「私」ですからね。すっぽり、肝心の「華光会館」が抜けるようなもんです。そんな「私」を聞かせていただく。またお気軽地、ご質問でも、味わいでもどうぞ。

たんたんたぬきさん>おおー。さすがー。これネタにさせてもらいます。

投稿: かりもん | 2010年3月 1日 (月) 22:23

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