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本願相応

 仏青研修会での悟朗先生のご法話。

 その冒頭、「仏法はなぜ難しいのか。それは、お経の言葉や用語が難しいというだけではない。私の願い(欲望)と、仏様の願い(本願)、つまり、私が日頃求めてるものと、仏様が私にあげようとおっしゃるものが、あまりにも違いすぎるからです」と。

 私か求めるものはなにか。それは、私の、いまの幸せだ。私の延長に、妻や子どもや家族がある。広げて親戚や親友の幸せも少し考える時ある。でも、あくまで私は、私のことしか考えていない。その徹底ぶりや見事である。しかし、現実は、その私の思い通りにはなることはない。一瞬、ほしい物が手に入り願いがかなった気がするが、次ぎの瞬間には、その手に入ったものが苦しみのタネになっていくのである。だから、毎日、自分の幸せをもとめて、一喜一憂し、押し寄せる悩みや苦しみと格闘しているのである。その不幸の代表的な姿が、「貧・病・争」だ。それが、自分の力でどうにもならない時に、神仏に願って、この「貧・病・争」の解決を求める。「商売繁盛」を願い、「健康で、長生きできまように」「病気が治りますように」と病気平癒を願い、良縁を求め、安産を願い、「家内円満」を祈っていく。それが解決すると、「幸せ」になれると生きているのである。

 つまり、四夫人のたとえではないが、お金(財産)と、体(健康、若さ、長寿)、家族(恋人、連れ合い、子どもだったり)を求めて、必死になって、そのために罪づくりをしていることを知らないのである。

 しかし、仏法は、私の目先の「貧・病・争」の解決をめざしているのではない。そのために必死になって作り上げた罪業を抱えていく、私のいのちそのもの(誤解を招く表現だが、あえて「業魂」とでもいうべき)のお救いを説いてくださる。いわば、火の粉をはらうことではなく、その火の元の解決といっていい。

 仏法を聴くとは、これまで一遍も問題にしたことのない、この私の業魂の発見することだといっていい。逆に言うと、最初から、後生の一大事が問題になっている人など稀だということだ。

 では、それを覗く窓がどこにあるのかというと、実はそれが、私が解決のためにと躍起になっている「貧・病・争」にあるわけ。そこから、私の正体を教えてもらえる。「無明業障の恐ろしい病を抱えた私」に始めて出会うわけである。

 実は、これが話の緒で、このあと、三得(会得、修得、体得)、三ガエル(水にいて、水を欲しがる蛙かな)とか、「機無、円成、回施」などの話に展開していた。いろいろと盛り沢山だったりので、翌日に、ぼくが担当したご法話は、この線を材料しながら、もう少しポイントを絞って深めていった。「私の欲望(新・人生ゲームDX) と、「仏様の願い」について、法義釈の至心釈「機無、円成、回施」でお取り次ぎさせてもらった。信心、信心といっても、それは、「願」よりを生まれて来るのであるから、その仏願、本願のおこころをお聞かせに預からないかぎり、私の闇は破られないのである。まあ、それを次ぎの和讃のおこころでお話したわけだが、そのところに行くまでに、今夜は力尽きた。取り敢えずは、ここまでで。

「無碍光如来の名号と
 かの光明智相とは
 無明長夜の闇を破し
 衆生の志願を満てたまふ」(高僧和讃、曇鸞讃)

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法味・随想」カテゴリの記事

コメント

今日、先月のご法話の「聞き合う会」でした。「現世のすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし」をもう一度お味やいさしていただきました。
火の粉ばかりを追いかけて一喜一憂している私に、
何の条件もつけておられない。
ただただ「念仏の申されんようにすぐべし。」とおっしゃってくださる。
一人して申されないので、同朋とともに申させていただきました。
11日、お聞かせいただくことを楽しみにしています。

投稿: Tねこ | 2010年2月 9日 (火) 17:48

寒中仏青ありがとうございました〜

ほんとに、私が後生のことを助けてくださいと、思ったことなんか、一度もなかったんですねえ。
求道中に必死になっていたのも、すべて、今生で獲信者になりたいから、みんなの輪の中に早く入りたい、今生の楽しみの延長、嫌な世界に行きたくないという欲だったんでしょうねえ。(それも方便だとは思えますが)

私は、「後生さえ助けていただければ、もうこの世の楽しみなんて何もいらない」と、yan兄さんに言ったことがありました。あの時yan兄は「条件つけとる」と言って、呆れていたのを思い出します。
高校生の頃だったかなー。あれから10年しか経っていないのに、どんなに自分が当てにならないものか思い知らされますねー。


随分昔ですが、ある方が「苦しんでいる私を救ってくれる」ような言い方をされ、先生が厳しく指摘されたのを思い出しました。
火の粉を振り払っている私には、火の元を消してもらうという大仕事は、はからいようがないのかもしれません。
でもとりあえず、お念仏だけでもさせてもらいます。南無阿弥陀仏。

投稿: かーぷ | 2010年2月 9日 (火) 18:23

Tねこさん、ようこそ。
そうだよね。この本願に相応するというところが、案外、聞き間違うよね。迷いの私は、絶対に本願に相応するはずがない。それなおに、相応するのだがら、そうならねばと励んだり、ならないことを歎いたり、開き直ったり…。そうではなく、ご本願のお目当てがどこにあるかを聞ければ、誰の上に勅命が関わっているのかがをお聞かせに預かるばかりなんだけどね。本願相応は、他力なんだから。
11日よろしく。いまの心境は、こちらの法話。もしかすると、約束していた「不審と不信」は別の機会になるかも。

投稿: かりもん | 2010年2月 9日 (火) 18:26

 かーぷさん、お世話になりました。体調はもどってきたかな? コメントがほぼ同時刻やったね。
 火の粉を窓にして、火の元を教えてもらう教えとは、ほんとすごいですよね。しかも、このご法は、後生の解決だけでなく、とてつもなく現世の御利益もありますよ。でも、それが私の欲望とは一致しないだけのこと。
 氷が多いから水せおおい。障りが多いから、徳も多いわけですからね。こんなすごいことはありません。

投稿: かりもん | 2010年2月 9日 (火) 18:35

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