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口述諮問

 今日は、連れ合いの修士論文の口述諮問。物おじしない本番に強いタイプなのだが、けっこうその前は、緊張するようで、今朝も、かなり緊張気味で出かけていった。「親鸞と證空における入信の構造とその表現」という題目で、100枚(4万字)の論文である。雑誌に掲載される学術論文は、だいたい20、30枚程度だと思うので、修士論文はかなりの量が書けるが、下手をするとテーマが散発的、総花的にになるおそれがある。審査する先生も、専門外のテーマもあろうから、なかなかたいへんなことだ。

 ぼくも、ずっと和讃の仕事を抱えていたので、なかなか論文を読めなかったが、昨夜、やっと目を通した。まったく専門外で、たった2年でこれだけまとめるにはなかなかのたんへんなことだったろうと、連れ合いながら感心した。現代の求道問題、獲信へのプロセス、門徒への対応にも言及するので、テーマが散漫になる印象は確かにある。それに前提になるテーマ自体から、突っ込まれる問題点も多いと思ったが、とにかく、親鸞聖人はもちろん、證空上人のものをかなり読まねばならないだけに、たんへんだったと思う。通例として、浄土真宗では、両者の相違点が語られることが多く、證空に対しても他力信心の未徹底として批判的にとらわれることが多い。それは、両者の立場が似通っていることの裏返しでもある。学術論文である以上、後の教学史的(覚如や蓮如、江戸教学)な座標軸による視点を混同して語ることは許されない。しかし、その間に真宗内での受容と批判があったわけで、その視点(心情的にも)が多少の影響を及ぼしかねないだろうから、この点はなかなか難しい。

 しかも、聖覚や隆寛など同門の書物を真宗門徒に紹介し、自ら註釈書も表している聖人だが、同世代で、流罪まで6年間も共に法然上人の門下だった證空上人のものには、まったく触れておられない。また、多くの法然門下の高弟たちが、聖道自力の門を捨てて念仏門に入ったのに対して、證空だけは、その出発から法然の室に入って、法然一筋の生涯を送っている。

 その両者の獲信体験、つまり親鸞聖人の三願転入による獲信と、證空上人の「行門、観門、弘願」という『観経』における他力領解について、その相違点を強調する立場からではなく、両者の一致点や共通点に注目して、現代の私達にも、なんらかの獲信のプロセスを言及できないかという試みである。

 もちろん、両者の『三経』理解にもかなりの隔たりがあるし、親鸞の立ち得た信心獲得の世界と、證空の他力領解の世界は、必ずしも、同じものだとはは軽々にいい難いが、證空が積極的に、その領解への道程を語っているだけに、このあたりの考察は、なかなかユニークだとは思える。課題も多いけれど、逆に言うと、それだけ研究の余地があるともいえる。
 とにかく、お疲れさまでした。

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