東海支部法座~いのちの大切さ~
夕方からの披露宴だったので二次会は涙を呑んで帰宅。東海支部の準備し、連れ合いは、緊急での広島の里帰りが決まっていた。
ほぼ同時刻に京都を出発する。でも、ぼくは東京方面、連れ合いと子どもたちは、博多方面。列車は3分違いだが、偶然、号車も同じ。ぼくが並んだ向かえのホームで子どもたちも並んでいる。ぼくにとって司会者研修会からの1週間は(おおげさでなく)怒濤の1週間だったが、彼女にとっても、博士課程の入試に、合格!と、たいへんな1週間。締めくくりが、この広島行き。お互いお気をつけておでかけくださいである。
久しぶりの東海支部法座。
ずいぶん見慣れぬ人が増えていた。噂では聞いていたが人数も多い。ただ、今回は京都支部や別の会やらと重なったらしくて、多少は分散しているようだ。
まずは行商だ。「三帖和讃講讃」(上)を持参したが、けっこう重くて冊数が限られていて、即完売。30冊は持参してもよかったなー。
法話は、つとめてわかりやすい内容で。ネットで見つけた「いのちの大切さに関する調査」に基づいたご法話。
余命1ケ月と宣告されたら、何をしたいか。ひとりひとりの本音の気持ち。さらに調査結果のびっくりするような結果を披露。世間の人が考える堂々第1位の「親孝行をする」!の親孝行について。さらには、「いのち」の大切という正しすぎるスローガンのおそろしさをテーマにした。
余命1ケ月の質問には、この支部の皆さんは、とても聞法に真剣であると思った。口々に「後生の一大事の解決をする」とか、「仕事をやめて聴聞する」とか、「京都に移って華光で聞く」と、真面目に言われた。その真面目さに好感はもったが、その正解に酔わないでほしい。なぜなら、この時点で、ほんとうの意味での無常が分かっていない証拠だもの。余命1ケ月は、まだ1ケ月も先があるのだ。大無常は、今宵も知れぬいのちを問題にしている。だから、いまこの瞬間しか、聴聞の時はないのであって、京都に引っ越すことを考えている時点で、有後心そのものである。しかも、なぜ、聞きたいかのといえば、自分の後生の責任を取りたくないだけのことである。恐ろしいものは、如来様にでも引き受けてもらいたい。そして、大安心の境地で死にたいだけのことである。ほんとうのことをいうと、身も蓋もないが、これが凡夫の真剣な求道の中味である。ほんとうの意味で、まったくゾーッとするような自分の罪業が問題になっていないことに、気付かせてもらわねばならないなー。
結局、後生の一大事にしても、親孝行にしても、「いのちの大切さ」にしても、みんな分かりすぎているほど分かっているつもりだ。しかし、実際は、何をするのが親孝行を突き詰めると、こんな難しいものはない。旅行や食事に連れて行くことでも、同居することでもいなのだ。「いのちの大切さ」も同様。簡単に、いのちは大切だというけれど、ほんとうだろうか。実に、世間の90%以上の人が、毎日の日常生活でいのちの大切さを認識して、考えているそうだが、そんなのは大嘘ではないか。ほんとうは、いのちなんか大切にしていない私がいる。よくよく詰めてみればわかることで、誰のいのちが大切かといえば、私のいのちが大切なのである。その場合の大切も、いただいたいのちを大切に生きているという意味ではなく、自分のいのちに執着しているだけであって、そのために、自分以外のいのちを犠牲にしなければ、私の自分のいのちを生き長らえることはできない。いくら、共生、共生といっても、まず「私」ありきなのである。なのに、この調査でも、その題名から「いのちの大切さに関する調査」と名付けられている。この時点で、「おかしいなー」と感じる人はほとんどいないのではないか。たぶん、ほんとうは何も分かっていないのに、「いのちは大切」という刷り込まれた情報を鵜呑みにして、この時点で正しいことだと思って思考停止しているだけではないだろうか。
ほんとうは、限りあるわたしのいのちは、おぞましいものであり、おそろしいものであり、不浄で、厭うべきものだというのが、浄土教の考え方だったはずだが、いつの前にか、浄土真宗でも、「いのち」の大切が、南無阿弥陀仏の悟りのいのちとゴチャゴチャになって、最後の拠り所になっているのではないだろうか。
もしほんとうに尊いいのちがあるとしたら、それは悟りのいのちである。唯一、仏、菩薩という存在だけが、自らの自分のいのちを犠牲にして、他の生きとし生きるあらゆる迷いのいのちを分け隔てることなく、すべてのもののに対して、まごころをこめて願い続けてくださている。虚仮不実で、醜い迷いのいのちを、真実、清浄の悟りのいのちにそのままかえてやろうという誓いを、自分の正覚(仏の座)を捨てて願ってくださっているのである。それを実現できるのが、無量寿(いのち)をもった南無阿弥陀仏さまだけである。だから、この迷いのいのちを「大命」(無量寿経・五悪段)と言われている。他力からのいただきもののいのちだというのである。不誠実で、不浄で、虚仮不実の迷いのいのちをために、誠実そのもの、清浄そのものの、真実そのものの御方が、いのちを投げ捨て、すべてを捨てきり、その泥のような不浄の世界へ、怒りの炎で燃え盛る世界へ飛び込んできてくださっているのである。
わたしの都合や思いにお構いなく、一方的に飛び込み働きかけくださる、そのお働き、お力を阿弥陀と名付けてくださった。迷いのいのち、限りあるいのちとは、無慈悲そののも、無明そのものである。だから、悟りのいのち、無量のいのち、慈悲そのもの、智慧そのものが逃げるものを追い掛け、修めとるという摂取不捨という形でしか、けっしてお救いは実現しないのである。
わたしは、逃げているのだ。昿劫以来、逃げまくっているのだ。
逃げたければ逃げよ。しかし、けっして逃がしはしないぞという執念の塊が、阿弥陀様なんだろうなー。
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