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ひとりでも、共にでも

(総説)「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげなりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。

(結婚)いはく、ひじりで申されずば、め(妻)をまうけて申すべし。
妻(め)をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。

(在家・出家)住所にて申されずば、流行(るぎょう)して申すべし。
流行して申されずば、家にいて申すべし。

(経済)自力の衣食(えじき)にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。
他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。

(法縁)一人して申されずば、同朋とともに申すべし。
共行(ぐぎょう)して申されずば、一人籠居(ろうこ)して申すべし。

(衣食住は念仏の助業) 衣食住の三は念仏の助業(じょごう)也。
 これすなわち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業也。三途へ返るべき事をする身をだにもすてがたければ、かへり見はぐくむぞかし。まして往生程の大事をはげみて、念仏申す身をば、いかにもいかにもはぐくみたすくべし。もし念仏の助業とおもはずして、身を貪求するは三悪道の業となる。往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。万事かくのごとしと」
          法然上人『和語燈録』巻五(真全集四巻六八三)

  年末から、法然さまのこの言葉を味わっています。報恩講の法話でも、冒頭で少し触れたら、最後のご法話で悟朗先生からもお聞かせに預かりました。

 ほんとうの一大事は何かですよね。

 後生に一大事があると聞いても、まあ、生活のなかの大事のひとつに仏法(念仏)がある程度にしか聞こえない。よくて、並列的なものか、下手をすると、まったく生活や実感(いまの私)と、切り離された高尚というか、かなり荒唐無稽な遠い世界に追いやられていく場合もあるわけです。

 そうではなく、まさにこのいまの私のところはまったく離れず、それでいて、私の相対的な泣き笑いの人生を軽々と超えたところに、お念仏は輝いてるわけです。

 それは、生活をしながらの、人生を送りながらの、もしくはそのための念仏ではなく、生活すべてが、この人生のすべてが、お念仏を申すための助業であると。そう切り換えていただいたわけです。

 一人で念仏が申せない方は、皆さんと共に申せばいい。もしそれが苦手な方は、一人でお念仏を申せばいい。大事なことは、お念仏を申すためにこそ、この私がいるのだと。。ひとりで懈怠になる私を、お念仏の仲間が助けてくださいます。そして、ひとりになった時にこそ、またお念仏をしみじみと味わる。何が一大事なのかと、心を寄せさてももらえる身になった幸せを感じますね。

 明日の広島法座は、こんなあたりを味わっていくつもりです。

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コメント

五木寛之の新刊(親鸞)、読んでます。近々、西本願寺主催の氏の講演にも行く予定です。

行者宿報設女犯…

そんなこといったって、相手あってのことですからね。誰も好き好んで一人でいたり、貧乏だったりしませんよ。どうにもならんから、仕方なく、その場所にいるんです。

まさに石・瓦・つぶてのごとくなる私です。
僕はやっぱり傷つきたくないので、ひとりでお念仏する方が向いているようです。一人で小砂説教所にこもり、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、と。(笑)

投稿: 阿波の庄松 | 2010年1月25日 (月) 08:59

支部法座、ありがとうございました。
私は、「一人して申されずば、、、」を一番、
嬉しく聞かせていただきました。
阿弥陀様から言われている「助業」は、私にとっては、「一大事!」なので、大逆転!!していて、
だからこそ、一人でいては、「お念仏」申されぬ私です。
その私にご同朋ばかりか、私のまわりのすべての方々が、「お念仏」申せよ申せよと、
いろいろのご縁となって立ち現れてくださいます。
あたりまえじゃない、ありがたいです。
「自分と向き合う」ことが嫌で、「自分はどうか」と聞きたくなくて、ちょろちょろ逃げ隠れしていたら、
どすーん!!
ああー!この私に、お念仏様が叫んでくださっていたんだー!!
と帰らせていただきました。
2月、楽しみです。

投稿: Tねこ | 2010年1月25日 (月) 09:37

阿波の庄松さん>あいかわらず寂しそうやね。少しでも傷が癒えることがあればいいけれど…。あんまり役立たないけれど、ここに愚痴を吐き出せばいいですよ。お手柔らかにお願いしたいですが。せっかくご縁があったわけですからね、お念仏に育ててもらってください。

Tねこさん>ここはお久しぶり。さっそく見に来てくれたんですね。

「もし念仏の助業とおもはずして、身を貪求するは三悪道の業となる。往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり」。

 私達は本末轉倒で、必死に、それこそ命懸けで、地獄行きの種づくりをせっせせっせとやっているわけですからね。これはすごい! それが大逆転させてもらうわけですしょう。これまた、なんとすごいことか。
 ところで、「み仏はどこに消えた」見つかったかなー?1月のパックナンバーをクリックするとわかります。皆さんにもお伝えください。

投稿: かりもん | 2010年1月25日 (月) 19:00

見つかりましたー!
読んでるのに、読んでない、、、。
さっそく、印刷して、読み直しです。
明日の聖典講座インひろしまで、
皆さんへのおみやげに!

投稿: Tねこ | 2010年1月26日 (火) 08:04

 よかったです。皆さんでも、ぜひ考えてみてください。

投稿: かりもん | 2010年1月26日 (火) 13:12

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