こころの中に言葉を置いておく
先日の座談会。
ある方が、自分の身の上に興った問題を話してくださった。詳細は省くが、最近、お店のお客さんが、自殺(自死)されたのある。少し前、お客としてお店で話を聞いて、「つらかったら一緒に仏教を聞きにいこう」と誘っていたという。それが、自死される前にもお店に寄られたが、その時は、特にゆっくりと話せず、そのことがとても心に残っていた。と同時に、他のお客から「店に未練があるから、きっと化けてでるぞ」と脅されて、なんとも怖いというのである。
そんなことを聞きながら、ほくは、どうすればいいのでしょうかという質問だろうかと想像していた。しかし、そうではなかった。彼女の話は、そんな人ごとでも、今生の問題ではなかったのだ。
「その人の死を通じて、では、私の後生はどうかと問うてみたら、行き先がわからず不安です」と、泣きながら訴えられたのである。
その言葉に、正直驚き、うれしかった。「後生が不安だ」と言われいるのに、うれしいというのはおかしな話だが、彼女の聞法の焦点が自ずと定まってきたことにである。
彼女自身は、仏法とは無縁に育っている。ごく普通のお嬢さんで、一般の寺院ではみかけるタイプではない。もし姉の誘いがなければ、けっして仏法とご縁がなかっただろう。聴聞をするようになったといっても、何年もあいだ、チンプンカンプンだった。もちろん、言葉も難しい。でも、それ以上に、自分に焦点を当てて聞法をするということが(言葉では易いが)、ほんとうに知れるには時間がかかる。だから、一時は姉さんとの関係だけの参加に見えていた。それが、ある時から、集中して、支部法座にも、京都の宿泊行事にもすべて参加されるようになった。それでも、まだ人ごとのご聴聞だったり、せいぜいご縁を喜んでいる程度の聞き方だった。それが、支部や華光の同人方が根気よりかかわり、育ててくたさった、養育のおかけで、誰からも指摘されずとも、今生の人ごとの問題を転じて、自身の後生の問題へと目を向けて聞かれる身になっておられるのである。
誰もが、ご聴聞の初めは、新鮮だったり、驚きだったり、ときには言葉や専門用語に戸惑ったりすることもあろう。だから、もっと知りたい、分かりたいという思いで聞き始めることが多い。でも、そんな楽しい時期は、最初のしばらくだけ。すぐに、壁にぶつかる。ひとつは、言葉の問題。いや、それが仏教用語の問題なら、辞書を引いて調べればいい。何度も聞いているうちに、覚えられることもあるだろう。でも、それを知って知識ばかり増えても、「阿弥陀様」も「念仏」も「極楽」も、「信心」も、「後生」も、肝心なとこは、まったく理解できない。研究者や論文を書くのなら、言語的な探求も必要だ。しかし、生きた信仰を求めているのである。もっと我が身のところで、実感的に味わいたい、もっとありがたい、はっきりした念仏に出会いたいとなるのである。しかし、どう聞いても、そうならないので、「とにかく聴聞に極まる」などと言葉に縋って、ご聴聞を重ねるが、いつまでもキーワードは不可解なまま、わが身のところで実感されてこいない。
『愚の力』(大谷光真著)の中に、こんな言葉があった。
お経の言葉を人のこころに置いていく。理解するのではなく、こころの中に言葉を置くことが大事なのではないかと思います。
そうだ。私達の聞き方は、説教や経典を、理解しよう、解釈しよう、分かろうという聞き方を繰り返すばかりで、まったく自分がお留守になる。教、経は、わが身を照らす「鏡」なのであるから、それを理解しようとしても、解釈してわが身に当てはめようとしても、まったく意味はない。
それなら、一度、その言葉そのものを、我が身のこころに置いてご聴聞してみてはどうか。それは、「分かるとか、分からん」でもないし、「そう思うとか、思わない」でもないはずだ。たとえば、「後生とは何か」とか、「いますぐどう行くのか」と、頭の中で堂々巡りになるのなら、一度、そんなわが身の雑念は無視して、「後生に一大事があるぞ。いま、すぐに来い」という呼び声があることを聞いて、それを我がこころの中に、(「後生に一大事があるぞ。いま、すぐに来い」)と置いておいて、ご聴聞してみればいのである。
先の彼女の言葉が有り難いと思ったのは、彼女が普段生活のなかでも、人の姿を通して、「では、私の後生は」と、自分の問題として聞けるように育ってこられたことである。
ほんとうに自分の問題になれば、かならず聞けひらけるお法りなのである。
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コメント
かりもん先生は今、流行のヘミシンク(変性意識状態を作り出し、幽体離脱する手法)について、どう思われますか?
そんなに後生、後生というのなら、いっそ幽体離脱して、あの世に行ってくればいいと僕は思うのですが。(そして、また肉体に戻ってくると。)
投稿: 阿波の庄松 | 2010年1月31日 (日) 21:02
ここでいうヘミシンクや幽体離脱することがどんな 体験かは知りませんが、一般的な変性意識や超常心理と、信心体験とは、ったく別だと思っています。信心は、無上「覚」の体験ですからね。このことは、以前簡単に、ここに書いています。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_5e0d.html
ところで、「そんなに後生、後生というのなら、いっそ幽体離脱して、あの世に…」とコメントくれているけどれ、この「こころの中に言葉を置いておく」の文章を、阿波の庄松さんは、どういうふうに読んでくれたのか教えてもらいたいですね。。
投稿: かりもん | 2010年2月 1日 (月) 21:34
「後生に一大事があるぞ。いま、すぐに来い」といわれたら、「はい。分かりました。お任せします。」と答えると思いますが、これって自分で作り上げた心劇ですからね。未信の僕にはいわんとしておられる意味が読んでも分かりませんでした。
ところで、華光では信心の沙汰について、どれだけ、
お聖教量をしているのでしょうか?
素人目から見たら、お聖教のどの部分から突っ込まれても、適合していてこそ、真実・信心だと思うのですが。
何か、華光では体験談が多く、お聖教量が薄いような印象を受けるのです。
投稿: 阿波の庄松 | 2010年2月 2日 (火) 04:37
今回は、少しだけしつこく関わっていきます。
>「後生に一大事があるぞ。いま、すぐに来い」といわれたら、「はい。>分かりました。お任せします。」と答えると思いますが、これっ>て自分で作り上げた心劇ですからね。未信の僕にはいわんとしておられる意味が読んでも分かりませんでした。
『はい、わかりました。お任せします』と、「返事しなさい」となどとはを書いていませんよね。いわんとする意味がよくわからなかったというのが、正直な感想なんでしょうね。ただ、ぼくとしては、今回伝えたかったことは、すぐに理解したり、答えを探したりする自分の側の都合で聞くのではないということです。ぜひ、もう1度、この「こころの中に言葉を置いておく」の文章(特に後半です)を読んでみてください。ぼくなりに、ここが聴聞の大切なキーワードになるかもしれないなと思っています。
華光会は、三量批判を柱にしています。聖教量、比量、現量の3つ。これは度々、お話しています。だから、ご法話は、すべて単なる心理的体験に基づいているものではなく、聖教の出拠によるご讃題のこころを伝えているものです。いま、編集作業している「三帖和讃」も、お聖教の聖典講座のものです。
ただ、これも、この文章にあるように、「わかった」「覚えた」「理解した」と「頭」だけで聞くのではないのに、そのような聞法の方が多いので、いま、わたしに、その聖教がどう届いてくるのか。「わが身」のところで聞くご法だというところを強調してお伝えしているのだと思います。
投稿: かりもん | 2010年2月 2日 (火) 10:26
僕にはどうしても説法を聞くだけで仏様の呼び声が聞こえるなどという宗教は信じられないですね。そういう体験自体、信じていません。
行き先が分からないというのなら、行ってみればいいじゃないですか。ヘミシンクで行けるわけでしょう。でも、ヘミシンクにしても、怒りと憎悪のネガティブ・エネルギーでいっぱいの僕では低級霊にとりつかれて、高次元の存在とは交信しずらいようですけどね。個人差があって。
ヘミシンクについてはまだ勉強中ですけど、実際に行ってみればいい。行った先で鬼が出るか、蛇が出るかは分からないけれど。僕などはもう、生きながら死んでるんで、何もこわいものはないです。今、生きてる、ここが地獄だから。
投稿: 阿波の庄松 | 2010年3月 3日 (水) 04:00
阿波の庄松さんは、信じられないですね。
別に浄土真宗でなくても、あなたが自分で信じられるものがあれど、しっかりと聞かせてもらえばいいんじゃないですか。
ここでは、お話を聞かせてもらって、その背後にある仏様のおこころに触れていくわけです。親心ですね。あと、ぼくは、ヘミシンクがどういうものかわらかないけれど、自己の今の姿をお聞かせに預かれば、それで十分すぎるほど、自分の後生をはっきりと教えていただけました。
投稿: かりもん | 2010年3月 3日 (水) 23:54