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和讃三昧?和讃地獄?

  出版社もたいへんなのか、夕方から、3、4回も時間変更の電話があって、「和讃」第五校がやってきたのは、木曜日の夜8時を回っていた。さっそくその夜から作業をはじめて、また和讃の作業に集中している。今回は、最初から最後までの完成したものだ。なんとか、これで校了となると願っているが、やっぱり、観れば観るほど、アカがある。もしかすると、もう1回は簡単なチェックが必要かもしれないな。ついでに、表紙の候補も、2種類きた。正直、エーッと思うほど、派手なもの。「なぜ、この絵柄なんですか」と尋ねたら、「中味が地味(悪いという意味でなく、堅実という意味)なので、せめて目に停まるように考えた」とのことだった。このあたりは、出版社におまかせである。写真のアップも考えたが、まあもう少しのお楽しみということである。

 3Fの救護室に籠もっての作業が続く。

 おもわず、「『和讃三昧』というより『和讃地獄』だなー」と、食事のときにもらすと、「地獄って言わんといて!!」と、ナナが涙目で叫んだ。先日、ボロボロになった往生要集のスライドの劣化を防ぐために、manu.さんやムラ君たちが、デジタルで保存する作業を行なってもらった際に、一緒にスライドを観て、こわくてこわてく仕方がなくなったのである。その夜も、父や連れ合いにご示談してもらって、号泣念仏で激しくお念仏をしたそうだが、それから連日、夜になるこわくなって、「仏様の話」を聞きたがってくる。どうも、単に、お化けが怖いという類ではなく、多少は、自分の行いも内省ができるようになっているようで、食べ物や日頃の生活での罪悪と結びつけて考えているようて、そこは有り難かった。とはいっても、まだまだ人ごとの節もあるので急ぐ気はないが、親としては、これを契機にぜひ聴聞のきっかけになればと願っている。

 結局、大人でも、子どもでも同じなのだが、これは外に有る無しの問題ではなくて、いまの私自身の行い(業)の問題とならなければ、意味はない。人間世界の知恵ではなくて、仏様の仏智に照らされた、深い内省の世界での厳然たる、私の事実なのだから。

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