み仏はどこに消えた?
本願寺派では、今年の1月1日より、旧来の食事のことばを一部改定して、新「食事のことば」が制定された。一般紙の紙面にも、12月30日付で紹介されていた。
〔食前のことば〕
(合掌)
●多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
(旧)「み仏と 、~以下同文)
○深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
〔食後のことば〕
(合掌)
●尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
(旧)「尊いおめぐみによりおいしくいただきました」
○おかげで、ごちそうさまでした。
ご覧のように、改定はほんの一部。でも、その一部が大きい。なんと、「み仏」が、「多くのいのち」に変わっているのだ。個人的には、「ますます御恩報謝につとめます」というフレーズ馴染めないが、たぶんにこれは慣れの問題があるのかもしれない。でも、やはり、「仏様」がどこに行かれたのかが気になった。
「京都新聞」(12/30付)には、改定に対しての見解として、「一般の方が、食べ物を仏さまが恵んでくださるという誤解を招きかねないからだ」といった趣旨のコメントが掲載されていた。うーん。この場合の誤解というのは、どんな意味なんだろうかな。ちょっとこれだけでは分からなかったので、宗派の詳しい解説を調べてみたら、次ぎのようにあった。(関係部分のみを掲載)。
このたび宗門より、新しい「食事のことば」が制定されました。新しい「食事のことば」を提案する理由は、現代日本の食を取り巻く環境、ならびに食に対する意識を勘案したこと、また従来の「食事のことば」が現代人の感覚から誤解を招きそうな危惧があることなどによります。
ここに言う「みなさまのおかげ」は、広く言えばみ仏の御恩をも含めた尊いおかげを言いますが、「多くのいのち」と並列・対句とすることで、「多くのいのち」の犠牲と、「み仏」のおかげとは別であることを示し、み仏が創造主と誤解されることを避けています。
なお、新しい「食前のことば」においては、「み仏のおかげ」を省略していますが、この「食後のことば」にある「御恩報謝」ということばによってみ仏への感謝の思いを補っています。
慚愧や感謝のこころを持ち合わせていなかった私に、「多くのいのち」をいただいていることへの慚愧と、「みなさまのおかげ」によって生きていることへの感謝のこころを起こさせたのは、阿弥陀如来のお慈悲のはたらきによるほかはありません。
「深くご恩を喜び」と表明しているのは、この阿弥陀如来のご恩、つまり仏恩を尊び喜ぶことです。
食事を通して、単なる味覚ではなく、阿弥陀仏の「ご恩」、つまり仏恩を味わうことができる機縁となることを願っているのです。
なるほど。つまりは、キリスト教の創造主のように、仏様がすべてを創造されて、人間に食べ物を恵んでくださることを感謝されるという誤解を招いているというわけですか。でも、 ほんとうに、これだけの理由なんでしょうかね。わざわざ「み仏」を抜いて、宗教色を抜くところに、なにか意図がありそうに思うのは、ぼくの勘繰りかなー。
それで、わざわざ仏様を抜いて、「みなさまのおかげ」中に、み仏のご恩まで含めるというのですが、それでは、ちょっと本末転倒ではないのかな。まさに、 羹に懲りて膾を吹くではないですが、畏れている誤解ってなんなのでしょうか。第一、ほんとうに阿弥陀様の仏恩を味わう機縁と位置づけるのなら、み仏様の言葉を外す必要はないし、「み仏のおかげ」って、そんなに誤解を招く言葉なのかね。
親鸞様の著述を読むかぎり、「生きとし生きるものへの報恩、感謝」などというフレーズは、ぼくの管見では知らない。恩徳讃に代表されるように、すへでが、阿弥陀様へのご恩報謝であり、その阿弥陀様のお心を教えてくださった善知識への報謝にすべて収まっている。多くの命を犠牲して生きていかねばならないのは、迷いの命を持つからであり、その迷いの命を離れるには、お念仏一つをお聞かせに預かることが、わたしの命の意味である。そのために、釈尊がそうであるように、仏様は命を投げ出して、仏法聞けよの命懸けでご催促があり、呼びかけがあるのだと。多くの命の犠牲の足元には、仏様の命があるのだと、ずっと味わってきたのだ。
もっと単純に言って、子どもが食事を粗末にしたり、雑に扱っている時には、、「ののさまの命をなんだよ」と、叱り糺している。別に、創造主という意味でなくても、仏さまのいのちそのものをいただいているのだと教えている。あるカウンセリングの集いで、一般の方から、「なぜ、いのちへの感謝が抜けているのですから」、と質問されたことがあったが、やはり、「み仏」の意味(子どもの聖典の「三角の図」をもとに)をその趣旨で答たのだが、どうやらこの領解は間違っていたようだ。
それにしても、創造主としての阿弥陀様という誤解を招くという理屈でいうのなら、「南無阿弥陀仏」だって、正しく領解する現代の感覚や一般人がおられるのだろうか。一般の方が接するのは、葬式や法事、墓などで、故人を拝む時だけだ。あれは、建前上は、名号や阿弥陀様を拝んでいるのだと主張しているが、みんなの思いはそうではない。もしほんとうにそうなら、葬儀の時も、位牌や遺影を正面からすべて外すべきだろうが、それでは商売が成り立たない。当然、皆さんの理解は、お経も念仏も、死者の先祖の慰霊のためであり、もしくは呪文や祈願請求(しょうぐ)的な誤解が、大多数ではないのか。この理屈にならったら、誤解を招きかねない「南無阿弥陀仏」も代えねばならないかもね。将来、真宗寺院から「南無阿弥陀仏」の声が消える日がやってくるのかもしれないなー。いやいや、遠い先のことではないぞ。すでに現在進行形で、お勤めはあっても、お念仏の声が聞こえない寺院、門徒が少しずつ増えているように、ぼくは実感している。なぜ、「南無阿弥陀仏」と声に出して、称えることがなくなっているのか。
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コメント
ごもっとも。私は昨年この新しい言葉に触れたとき、賢い本願寺さまのお心が理解できませんでした。五戒の功力を保てないこのわたし。そのわたしが人間界に生を受けたこと。仏法に遇わせて頂き、南無阿弥陀仏のお心に触れさせていただいたこと。いま、この一瞬に至るまで、阿弥陀さまのおいのちが働いていないところはない。阿弥陀さまの命を奪いずめのわたし。南無阿弥陀仏と応えず、なんと応えよう。いま、このような時代なればこそ、世間で言われている原理原則の時代なればこそ「阿弥陀さまのおかげによりこのご馳走を恵まれました」「阿弥陀さまの尊い命によりおいしく頂きました」と南無阿弥陀仏がはっきりと伝えられないと駄目と思ってました。亡き親父が「お米一粒に限りない仏さんがいる。粗末にするな」と子どもの頃よく叱られたことを思いだしました。かりもん師のお示しの通り、この稜はいのちのあらんかぎり、南無阿弥陀 南無阿弥陀と皆様にとなえよ、お念仏せいよと頭尻を叩かれながら、阿弥陀さまのいのちの上にあるこの稜のいのちを南無阿弥陀仏とお念仏させて頂きます。むざんむぎの泥凡夫の稜ですが、今年もよろしくお願いいたします。やはり煩悩成就です。「今年」ですから。南無阿弥陀 南無阿弥陀 南無阿弥陀
ながなが失礼しました。ありがとう!
投稿: 稜 | 2010年1月 5日 (火) 20:31
稜さん、こちらこそ、どうぞよろしく。
そうなんですよね。「多くのいのち」だったり、「皆様」のおかげならば、少し考えると、誰にだって共感できるし、わかりやすい。でも、そこを喜ぶだけなら、いわゆる縁他力でしょう。たとえば、四恩の話をするときに、父母や衆生などのご恩までは、今生ですから、よくわかる。でも問題は、そのすべてをささえてくださる仏様ご恩徳のところ。その仏様(阿弥陀様)がわからない。あるところで、そんなご法話のあとの懇親会で、「仏様は南無阿弥陀仏だとおっしゃいましたが、でもほんとうはご先祖さまでしょう」といわれた総代さんがおられた。一杯飲んで本音がポロリ。仏様といっても、ご先祖だと理解できる。「大いなるいのち」といわれると、なんとなく共感できる。
でも、南無阿弥陀仏や阿弥陀様となると、よくわからない。でも、わかり易さや共感よりも、よくわらかないからこそ、おのれをむなしくしてお聞かせに預かっていくのが、浄土真宗ではないのかと思うわけです。そこを妥協せず、誤魔化さずに、私の仏様、南無阿弥陀仏さまに出会うしかないわけです。その一歩が、毎日、毎日の、日々の称名念仏であったり、食事の時のお言葉なんかじゃないかなーと思うわけです。そうして育てられてきたわけですよね。ちょっと長くなりそうなので、続きはまた本編で。
投稿: かりもん | 2010年1月 6日 (水) 00:37