『戦場でワルツを』+『台湾人生』
今朝も寒い。子どもの保育園にいくと、途中、逆行するようにたくさんの人が歩いている。毎月21日は、東寺-弘法さんの縁日があるのだが、年々観光客もや外国人の姿も多くなって、普段でも、十数万人の人出がある。それが、12月は「終い弘法」と呼ばれて、さらに多くの人出があるそうで、とても賑やかだ。おかけで、夕方まで、あたりは車も渋滞している。年末の風物詩に、今年も、あと10日間になったと、その早さを実感する。
昼をすませて、京都シネマへ。久しぶりに映画を2本。『戦場でワルツを』と『台湾人生』だ。共に社会派のドキュメンタリー映画。でも、その手法やテーマは異なっているのだが、かなりインパクトの強い作品だった。安心して見ているこちらがわまで、揺さぶるような勢いがあった。
まずは、イスラエルの作品で『戦場でワルツを』(原題:WALTZ WITH BASHIR)』)。アニメーションだ。でも、アニメといっても、少し動きがぎこちない。それでいて、時に実写のようにも見える。色調も、黄色と黒が主体で、陰影が強かったり、デフォルメされていて、かなり特色がある。
しかし、本編が終わる時、強烈な印象が残り、エンディングロールから目が離せずにいた。それは、この映画をご覧になれば、よくわかる。たぶん、ラストで、いつも目を逸らしているか、もしくは映像として眺め傍観していたシーンが、私の現実のものとして迫ってきたからである。その目を逸らさせずに見せる手法がすごい。もし、この衝撃シーンが、冒頭や途中に挿入されていたなら、または何度も同じシーンがでてきたなら、見て見ぬふりもできただろうが、それが、まるで監督自身が追体験した思いを、観るものにも持たせるかのような作品だったのである。その意味では、斬新な問題作、衝撃作だといっていい。アカデミー賞の外国語映画賞の有力作だと言われていたが、結果は、『おくりびと』が授賞した。このあたりは、イスラエルの非人道的な戦争責任にも言及する作品なので、政治的な思惑に左右されたということもあったのか?
本作は、監督自らの経験を基にしたものである。2006年のイスラエル。監督自身である、主人公アリは、戦友から、毎晩、26匹の凶暴な野犬に追われる悪夢に悩まされていると、相談を受ける。その夢は若い頃に従軍した、レバノン侵攻の後遺症だった。しかし、不思議なことに、アリには、なぜかその時の記憶が、まったく欠落しているのである。思い出そうしても思い出せない。悩んだ彼は、友人の心理学者に相談し、そして失われた記憶を取り戻すため、世界中に散らばる戦友たちに会いに行くことを決意する。
結局、彼がたどりついたのは、1982年にレバノンの難民キャンプでおこった「サブラ・シャティーラ大虐殺」のかかわりであった。それは、レバノンのキリスト教右派の民兵組織、ファランヘ党が、親イスラエルのバシール大統領(原題にある、BASHIRがその人)の暗殺の報復として、なんの罪もないバレスチナ難民の老若男女を大量虐殺した事件だ。イスラエル政府は、事前に計画を知りながら故意に見過ごし、傍観する立場でいた。いや、傍観ではなく、後方から応援し、支援していたのだ。途中、監督自身の両親が、ポーランドで、ナチスによって虐殺され被害者だったことを語るシーンがある。ホロコーストでの被害者としてナチスを糾弾.してきたイスラエルが、自衛のためと称して、パレスチナ人の大虐殺の正当性を主張する国家となっているのだ。被害者側のユダヤ人が、パレスチナ相手に加害者となる、残虐行為を容認する事実、個人の記憶を埋める旅を通して告発しているといっていい。
つまり、アニメーションという手法をとって、戦友への訪問やインタビューを重ねて語られていく内容やその心情を描きながら、監督自身の忘却され、封印された過去が蘇ると共に、戦争の悲惨さ、残酷さ、非人間的な暴力の実態、しかも、正義という名で繰り広げられていく暴力の連鎖のおざましさを、彼の記憶と共に蘇り、私達も追体験させられるのである。
それにしも、人間の記憶(悩の働き)というのは、なんとも不思議で、謎めいているものだろう。次ぎに観た『台湾人生』で、「日本人」としての皇民教育を受け、戦後、日本に捨てられた「台湾人」の古老たちの記憶に残る日本統治時代を語るシーンでも、同様に感じたのである。都合よく消し去ったり、歪められたり、取捨されたり、もしくは過去がドンドン変化しし、また無意識にも、また意図的にも捏造もされていく。またこの監督のように、あまりにも自己に都合の悪い衝撃的の事実は、自己防衛のために忘却していく能力まで備えているのである。また、途中で、アマチュアカメラマンが、戦争の惨状をファインダー越しに覗くとき、カメラ越しのフィクションとして眺められ、むしろ新たな、非日常的な体験を高揚感をもち、ワクワクしながら体験していたのが、突然、そのカメラが壊れて、現実に迫られるというたとえ話がでてくるのも、興味深かった。どんな悲惨な現実でも、私達は、人ごととして客観視したり、精神を麻痺させる能力も有しているということである。それは、現に、いま、遠い国で起こっている戦争や虐待行為に対する私達の姿勢そのものである。麻痺していることにも気付かないことほど、おそろしいことはない。
しかし、たとえ記憶は消せても、決して忘れてはならないこともある。また、いくら人ごととして客観化していても、逃れられない事実もあるのだ。そして、たとえ自己の上に記憶はなくても、私が成してきた「業」は消し去ることはなく、これからの私を形成していくタネになり、憎しみや悲しみの連鎖は果てることなく続いていくのである。まったくもっておそろしい話だ。
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