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九州家庭法座~触光柔軟のごとし~

 小雪まじりの博多での法座。Y先生の自宅での家庭法座である。ちょうど3年前の東京講演会のおり、20年以上にわたり、会の経理・税務を担当くださっていたN先生が健康上の都合で引退されることになり、担当者が不在になり困っていたときに、思い切ってお声をかけすることになった。有り難いことに、とてもこころよく引き受けてくださることになった。しかも、N先生が会計事務所やご自宅で長年にわたり家庭法座を開いてくださり、職員や親戚の方にご縁を結ぼうと勤めて下さっていたのと同様に、Y先生も、外護者としてその役割を担ってくださるのだから、まったく不思議な巡り合わせである。

 7月は事務所での法座であったが、今回は自宅での家庭法座だった。ご夫婦はもちろん、少しだけお子さんたちも出席して、ご聴聞くださった。九州支部の皆さんも、ご一緒されたが、参加者は10名足らずと少なかった。しかし、今回は、むしろ、そのほうがいいと思っていた。皆さんの声をじっくり聞くことができたし、Y先生ご夫婦とも、ゆっくり杯を重ねて、さまざまなお話を聴かせてもらえたからだ。やはり、少ないのは少ないなりのメリットがある。4座ともご法話をしたが、だいたい1時間以内と短めにして、あとは座談やお念仏の機会をタップリととった。

  特に、2日目には、今月の始めに、このブログでも紹介した、同人だったご母堂様のお導きで、わざわざ会館までお尋ねくださった女性が、Y家を探し、飛び込みで参加くださったのだ。あらためてお話を窺うと、よくよくのご因縁である。

  朝は、「仏恩」について具体的にご法話を聴聞していただいた。座談会では、時間を大幅にオーバーするほど、各自がお念仏に出会うまでの種々の善巧方便について、具体的に語り会ったのが、有り難かった。みな一筋縄にはいかない苦難や予期せぬ死別、もしくは父や母のご養育、幼き日からの仏縁、もしくは、不倫や事件や事故といって逆縁もふくめて、それぞれがありのままを語りあい、その年齢も(80歳から25歳まで)バラバラの人達が、いま、ここで、一つ輪をつくり向き合い、座りあっている。昼座では、「現世和讃」のおこころを頂き、「南無阿弥陀仏をとなふれば、十方無量の諸仏は、百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり」を地で行くために、みんなで(「百重千重」もしくは「連続無窮」と名付けている)お念仏のレリーを行った。お念仏の声が響きあい、重なりなう。ひとりひとり、背景も、生まれも異なる皆さんから、大切に、大切に受け継がれ、伝えられてきたお念仏が、このわたしのところにまで届くことを体感的に味あわせていただく。日頃は、当たり前に粗末にしているが、その周り回っていただいたお念仏はあまりにも尊く、おもわず押しいただいて、称えさせていただいき、お隣の方にもお分けした。最後に、あらためて、おとなりの方、向かえの方、そして皆さんのお顔をじっくりと見合わせると、そのひとりひとりが、光り輝くように、いとおしく大切に感じられる瞬間があった。

  すると、父親からの不思議なご因縁で聴聞されている年配の男性-華光とのご縁は、まだ1年ほどで、とても真面目に勉強するかのように、法話も座談も、メモをとりながら聞かれている。しかし、心境をお尋ねすると、かなりポイントがズレている。「一度、京都でもご聴聞にお出でだくさい」というと、「まだまだ勉強不足なので、もう少し力を付けてたら参加します」といったような返事が帰ってくる。それでも、強いお勧めで、お念仏をされたこともあったようだが、聞法の焦点、力の入れようが違っている。仏様は脇において、自分の力を頼りに聞いておられるのである。まるで引けば開くドアを、力まかせに押すような真逆の聞法だ。それが、前日の座談会で、初めてその方向違いの指摘を聞くことができた。「方向違いでした」と、その大事なノートをとることを、自らやめられた。そして、最後には、「かげのごとく身にそってくださる無数の仏さまが、わたしの背中をおしてくださいます。前は、お念仏のおいわれがわからずに、称えていましたが、初めて、その功徳の尊いことをお聞かせに預かりました」と、からだを震わせ、涙と共に語ってくだされたのである。法話は、お念仏のおいわれというより、現世で受ける念仏者の得益についての話だったが、彼には、それがあまりにも尊かったのであろう。まさに、すすめざれども自然にでの、心境の変化である。

  人数が少なかったこと、家庭法座であったこと、さらには参加者の中に、明るく自分をオープンにしてかかわる方がおられたこと、そしてY先生ご夫婦の変化、当然、ぼく自身の姿勢や態度でも、かなり法座の雰囲気は変わっることがわかる。その意味では、少人数の法座では、どんな態度、どんな雰囲気をめざしていけばいいのか、一つ指針になったことは確かだ。特に、今回は、「みんなでお念仏をさせてもらう」「皆さんにかけられた種々の善巧方便の尊さを聴かせてもらう」というテーマを掲げていたが、ある程度、狙いどおりの法座になったのではないだろうか。

 お別れの時には、皆さん(ぼく自身も)のお顔がやわらかく、温かくなっているのが有り難かった。まさに、寂しく、頑な凡夫のこころが、大悲のおこころによって温めら、開かれ、自然と変わっていく、まさに「触光柔軟」を地で行くような集いにだったと、南無阿弥陀仏。 有り難うございました。

Img_78122  余談編:

 名古屋→京都間が、雪のために新幹線が遅れた。待合室にはいると、「変身」ではない、ホンモノの舞子さんが…。 

 

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