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一言だけのつもりが

 明日(もう今日か)の高山法座。このところ法座への楽しみ感は増している。でも、午前中は、下の子の保育園の最後のお遊戯会に行ってから、高山に向かうことになる。よろしく。

 今夜はブログ休むつもりだけれども、同人ブログの2、3にコメントを書いたら、その勢いでここも書いてしまった。

 まず、昨日までの寺院布教もいろいろ味わい深かったですね。初めてのところだったので、反応を見ながらの話になったけれど、最後に、ちょっと質疑的な座談をもったら、予想以上の反応。一言ずつでも味わいが聞け、それを分かち合うと、一方的な法話での手応えのなさや空しさではなくつながりを感じられて、明らかにぼくの中でも変化が起こるのがわかる。同時に、義理参りに近い一般の方に向けてのご法話への工夫などの課題も感じましたね。この反応のよさは、ご住職の聞法に対する姿勢でしょう。ここも、やはり最前列のど真ん中(ぼくの目の前)に、ご住職が3席とも、座られて聴聞。分かち合いも、いちばんに挙手されて話される。その隣には、隣寺のご住職、その横にも同じ組のお寺さんや坊守さんが座られる。檀家さんに「聞け、聞け」「前にすわれ」で、自分がお留守ではなく、まず自分が自分の問題として聞かれる姿勢こそが、まさに浄土真宗でしょう。先月のシンポジウムの話題もあったので、おかげでメンバーでの懇親会は盛り上がって、(0時30分終了という声がないのもの考えもの)、例によって3時半ごろでしたか。朝は朝で坊守さんと話し込んで、内職の和讃は進まずじまいだった。課題や宿題も感じつつも、また次ぎのご縁へとつながっていきそうです。

 今朝も有り難いご縁での来館者。彼女のご母堂が、50年前からの華光同人。でも、亡くなられた後でご縁は途切れて、ずっとその篤い信仰のこと、華光のことを知りたくて、いろいろと尋ねるも手がかりがなし。まず先生を招かれたいた北九州のお寺がどこかと探されたようですね。ところが、灯台もと暗し。偶然の話から、手次ぎの寺のご住職がぼくと大学院の同級生で、真宗カウンセリングでもお仲間。華光誌も送っている間柄で、一気に解決。それどころか、近所にも、田舎にも関係の方がおられることが分かってきた。つながてるんだなー。今日は、念願かなって初めて来館。京都のお友達に、どこか行きたいところがあるのなら連れて行ってあげるようといわれて、いの一番にここに寄ってくださいました。いまやネットで簡単に情報が手に入る時代だからこそ、ほんとうに尊いお話。勤行のために道場にご案内。でも、お友達はかなり遠慮さている。まあ、ご自由にお待ちくださいといってたら、結局、一緒に手を合わせられることになった。さてさて、お帰り直前、ぼくの耳元で、お友達の女性を称して一言、「実はね、彼女、ある会にいってられるんです。○○会って、ご存じですか」とポツリ。あ、そうですか。そりゃ、お仏壇に手をあわせずらいわなー。しかも、その方が、わざわざ調べて華光会館まて連れてきてくださるなんてね。ご親切にありがとうごさいました。この親切は、きっと宿善になりますなー。

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法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

今日はお世話になりました。
虐待された猫は 人になつくことができないんですね。でも人間としての命をこんな私にもいただけたということは何にも変えられないことだと教えてもらいました。
ありがとうございました。

投稿: しょうこ | 2009年12月 6日 (日) 20:25

しょうさん、久しぶりでしたね。
 その映画では、人間に捨てられたり、いじめられた犬は、なかなか人になつくことは難しいようでした。でも、なんとかしてケアしようと必至になっておられる方々もおられました。人間にいじめられたものは、また人間によって育ててもらうんだなーと。そのために、厳しく接する方法もあれば、ひたすら褒めて育てようとするインストラクターもおられて、まさに手を変え品を変えてて、たった1匹の犬のために、何名もの人々のお育ても映し出されていました。

投稿: かりもん | 2009年12月 7日 (月) 12:28

高山でのご法話に遇わせて頂き有難うございました。地獄一定の私を往生成仏一定とおまかせの身にありながら、欲な心、人を当たり前に切り刻む怒りの心、不平不満を言う愚痴な心が増す増す見えてきて恥ずかしい限りです。嘘偽りだらけの悪臭極まりない私が、嘘偽りのこの世で本気になって幸、不幸に一喜一憂している。恒に仏様のご恩を忘れている毎日であります。あの仕事が嫌だとか、何でそんな事をしなければならないのかと追われるばかり、そんな中怠け心一杯で楽ばかり求めている私をそのまま救うぞと言って下さる仏様。本当に申し訳ない事であります。一大事の後生を忘れ地獄行きの種を作りどうし、阿弥陀様を泣かせている私、バカ者です。煩悩あるままのお救い、心え安だな、永の迷いの打ち止めだなと。この愚痴の汚い口から出て下さる南無阿弥陀仏。なんと有難い事でしょう、もったいない事です、すまない事です。このご法に遇えなかったらと思うと。 今後とも、宜しくお導き下さいませ。合掌

投稿: うろじりも | 2009年12月 8日 (火) 09:39

たった 一匹のこの私のために 何人ものお育てがあるのですね。
 申し訳のないことをしていました。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

投稿: しょうこ | 2009年12月 8日 (火) 22:40

うろじりもさん>
「南無阿弥陀仏」 ありがたいです。
ちょうど1年前でしたね。「仏さまの声はほんとうに聞けますか」と質問されたのが、この高山の12月の法座ではなかったでしょうか。そうなんですよ。この私の汚い口からでる南無阿弥陀仏こそが、仏さま呼び声であるわけです。それが、私のこの口を借りて鳴り響いている。不思議です。
それしても、すごい変りようですよね。この私は、何も変わっていないのに、こんなに変るなんてね。
「山も山、道も昔に 変わらねど、変わり果てたる、わが心かな」。

しょうこさん>
 ありがとう。
 しかも、私は犬やネコではなく、仏法の聞ける人間に生まれさせてもらったのですよね。お聞かせに預からないかぎり、私のこの迷いの頭では絶対に分からないけれど、これもすべて仏様のお命がかかっているなんてね。もったないことなんです。でも、私はただただ苦しいだけしかないなんてね。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: かりもん | 2009年12月 9日 (水) 00:00

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