輪読法座。諸般の都合で、年末の押し迫った今日になった。こんな日にしてお参りされる方あるのかなーと心配していたら、なんのことはない。日曜日ということもあって、輪読法座が始まって以来のお参り(といっても、25名だったが)。東京や広島から、また愛知県からもお参りくださった。
「今年最後の法座です」と、ぼくも、みんなも言っていた。でも、誰も、(今年ではなく)「これが最後の法座だ」という思いなどはサラサラない。正月も、無事にやってくると信じきっているから、年末の慌ただしさを愚痴っている。ぼくなど、もう1年先、来年の12月の予定まで決まっている。結局、無常と聞いても、口先だけ、頭の中、話の中だけのことだ。罪悪と聞いても、また仏様のご苦労といっても、同様。いくら話は出来ても、身のところは、能天気にしか生きていない。そうすると、今度は、なんとか実感が伴うようにと無駄な努力をしり、また開き治ったり、無視したりするのが、凡夫の轉倒した求道だ。そうではなくて、そのボケたわが身の事実(迷っている、無明の姿)を通じて、阿弥陀様のご苦労、お心を聞かせていただく道が、浄土真宗ではないのだろうか。
でも、このほんの何ミリかの違いが、自力と他力の天地ほどの大違いである。そんなことは「分かっている」といわないで、そう聞かせてもらっていく。すると、必ず届く、南無阿弥陀仏に出会うのだ。
本文中にあった、自分から救われたいと歩みだす、釈尊の当時の仏教や上座部仏教、それに対して、多くの日本に入った大乗仏教のように、自分が救われいという思いを持って歩み出しながら、どこかでその中間にでも、仏様に出会っていく教えもある。
しかし、浄土真宗では、「救われたいと思いをもって歩み出すということがない」というのである。その「自分から歩みことがない」という部分に、引っかかって、質問してくださった、初参加者がおられた。
一見、そうは言われても、求道心(もしくは願生心というか、菩提心といのうか)は、浅いながらも、今日も自分で救われたいと思ってお参りに来ているのではないか。これも仏様のお働きと聞かせてもらうわないといけないのか、という趣旨だった。正直に、心境を語ってくださるのは、有り難い。ここを飾ってもしかたないものね。そのおかげで、その薄い願いをお育てによって、真剣に、強くしてもらうことを目的にされている、方角の違う方の発言も引き出されていった。
ここでお聞かせに預かる直道は、虚仮不実の私が、もっと熱心になったり、真剣になる方向ではなくて、まったくその真逆だ。虚仮不実のありのままの私を、真実のかけらも、熱心の微塵もないことを、そのまま教えていただくしかないのである。でも、それでは、聞く心もないのだから、いつまでも真剣にならず、聞けないのではないかと不安が強くなる。それで、少しでもましになろうと、わが心をたよりにする方向に力を入れていかれるのである。しかしである。実は、そのみかけの熱心さこそが、弥陀の本願を妨げている、自力のはからいそのものなのではないか。本願のこころを横において、まったく当てにならない、わが心をあてにし、たよりしていこうとするのだもの。そして、いつかはお育てによって、求道心も育ち、お救い預かるのだと、自分の聞法姿勢を肯定する部分を都合よくつかんでいるのだ。
そうではない。阿弥陀様のお救いは、私の思いや心境とは、まったく関係のない、私の出来-不出来、喜ぶも、謗ることも関係なく、熱心さも、不燃心も問題にされずに、ただ一方的に成就され、その地獄一定の私をめがけて、大きな、大きな願いをかけ続けておられるのである。そのご本願のおこころを、いま、直ちにお聞かせに預かるしかないのだ。
重ねていうが、願生心も、菩提心、度衆生心も、煩悩具足で、虚仮不実の私の力では、まったく生まれるはずがない。もし私にあるように思うのなら、それはみかせけの、自分中心の欲得の心から起こっているのにすぎない。それは日常の自分をみればわかる。どんなきれいごと言っても、自分のことしか考えず、自分中心の生き方しかしていないもの。どうして、常に自分のことをさしおいて、他人のために、または生きとし生きるもののことを考える生活など、私は微塵もしていないではないか。いつも、自分のことばかりである。
でも、そんな我執一杯のわたしが、なぜ、嫌な嫌な仏法を聞こうというのか。そして、まったく私にはない、自利利他円満した「南無阿弥陀仏」を称えることができるのか。そこには、まったく私の力ではなく、すべて、すべてを回向しようという、阿弥陀様のやるせないお働き、力強い増上縁のなせる業なのである。
そのおこころをお聞かせに預かったならば、その勿体なさ、尊さに、絶対に出るはずのない「南無阿弥陀仏」が、この口を通して、響流十方と響き渡るのだから、不思議というしかないのだ。
こうしてお念仏を喜ぶ身になって事実が、まったくもって不思議で、有り難いことなのだ。