石・瓦・礫にかかる願い
華光大会終わりました。
3日間、まさにお念仏のるつぼでした。
ご法話も、4名の信仰体験発表も、そして信仰座談会も有り難かった。特に、最後の道場の分級座談。45分ほどしかなかったけど、その短い時間でも、全身全霊でお念仏に会える。初参加の方も多かったけれど、短時間で驚くほど聞法が進まれた方もある。昨晩から、御礼の連絡をいただいた中に、長年求めて気にかかっていた方から、翻りの飛躍を予感させるうれしい連絡。そうですが。これまでのまったく方向違いに涙されたんですね。仏さまが願っているのに、自分が願うつもりでいたとはね。あまりの大馬鹿ものに大笑いするしかないと。南無阿弥陀仏、ありがとう、万歳!。有り難いところをつかみ、なんとかなんとかと確かな信心をつかみにいこうとする。俺が、俺がの心でね。そこに気付かせてもらう。その自分が落ちていくままの自分だと。
でも、そこがおかしいなんとは気付けない。いや、「頭では分かっている」と分かってふりまでする。ほんとうにトンチンカンもトンチンカン。うぼれている。そのまったくの方向違いを知らされていくのに、ちょっとだけ軌道修正する程度だとうぬぼれている。頭では分かっていると高上りし、決め込んでいる。「黒い心はお許し、暗い心こそを捨てるのだ」「そして南無阿弥陀仏に飛び込みんだ」と、自力一杯ではからいの正解を並べている。そして、「なんでだろう、なんでわからんのだ。なんで有り難い実感がないのだ」と悩むくせに、いつもキョロ・キョロとまわりの人の態度や悦びばがりみて、一遍も「どうか聞かせてください」と頭を下げてこともないのに、「わからん」とたけはいっている。
最後の座談会で、改めて、ここに黒い心があって、あそこに暗い心があるんじゃないことを聞かせてもらう。まさに、この私の足の爪先から頭の天辺まで、すべてが仏様を疑い、はからっている塊。ご聴聞しているままが、疑いの塊。大恩ある善知識さま、仏さまでも、欲得に目がくらめば、だまし討ちにして殺していく、それも「仕方ない」と正当化するおそろしいわが身。ご法話の猟師そのもの。仏様の命を奪っている奴が、煩悩は黒いこころで、仏様を疑うのが暗いこころなんだと、どこどこまでも聴聞しているつもりでいる。私の足の爪先から頭の天辺までが、それどころか、そこから発する言葉も、態度も、姿勢も、まったく無明煩悩の黒い心の塊。一念一刹那も、清浄心も、真実心もない。まったくない。微塵も、かけらもない。100%黒い心の塊。そして、100%が暗い心の塊。石・瓦・礫のように、何も感じず、シラケ、聞く耳もなく、称える口もない。初参加の方が懺悔される。「どんなに聞いても、頭を下げて頼んでくださっても、それを受け取るアンテナが私にはない。これでは聞けない、ダメだと思っていたら、石・瓦・礫の無機質な私に、それならばこそ救わずにおれんという大悲のお心で、頭を下げてくださっていたとは…、まったく方向違い、まったく聞いてこなかった、申し訳ないと…」。
石・瓦・礫の私に、如来さまはどんな態度で、どんな言葉をかけてくださっているのか。もう腐っていく頭で分かったの、理解したのといってもダメなので、それじゃ身をかけて聞かせてもらうしかない。目の前に、石ころの私を置いて、如来さまがかけてくださっているお言葉を、如来さまが頭を下げてくださっているお姿を再現してもらう。この石の私、絶対に聞くはずも、絶対に称える言葉も、そしてこころすらを動くこともない輩に向かって、十劫も昔から願い、頼み、待ち続けてくださっている。「聞いてくれ、頼んでくれ。どうか゛どうか、そのまま、そのまま帰ってこい。お願いだから」。
その願力に撃たれて、絶対に不可能。絶対にありえない不思議がおこる。石・瓦・礫が、石・瓦・礫のまま黄金に変わる不思議。そんなのありえない。絶対にありえない。そのありえないことが、いま、ここで、このわが身に起こってくる。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。なんと! 口もない、耳もない、心もないはずの石の目から涙となり、石の口からお念仏がとびだし、その心には、わが身を捨て、一切の衆生、いや貪欲、愼恚、愚痴の心に覆われ、仏様を殺し疑うわたしひとりをお目当てに出来上がって、南無阿弥陀仏の大悲心が、100%「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と満ち満ちている。
そして100%煩悩具足のわたしに、100%疑いの塊のわたしに変わって、100%真実の塊「南無阿弥陀仏」が満ち満ちているのだ。
エライこっちゃー!
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コメント
本当にありがとうございました。
です。
なんまんだぶつ。
色んな思いがいっぱい溢れていて、まだ気持ちが
落ち着きませんが、先生と皆さんにお礼が言いた
くて。
私は華光一の幸せ者
皆が皆、華光一やけどね
投稿: 蓮華 | 2009年11月25日 (水) 00:15
最後の法話で先生が僕のことを話され感極まっている姿を見て、仏様が先生に乗り移り僕を哀れんでくださったのか…と思いました。世の中には多くの宗教があり、僕ももう一周してきたのではないかと思うくらい、色んなところを廻ってきました。死んだ後なんかない、骨から遺伝子でもってクローン科学でもって人間を再生するんだ、聖書に書かれているのは宇宙人でそれがいついつまでに来訪するんだという新興宗教にも関わりました。もう、どちらも信じられない。仏様というおとぎ話か、宇宙人というSFかの違いでしょう。親の苦労なら、この目で見ているから、分かります。でも、仏様の苦労となると分からない。話だけでは分からないのです。自分の罪悪はどうか。いつも人の幸せを妬み、羨む心でいっぱい。華光に夫婦で来ている若いカップルを見て、嫉妬の炎が燃え上がる。人生ずっと負け組で生きてきて、犯罪者に同情してしまう。自分もあと一歩、間違ったら同じことをしてしまうかもしれない。このような黒い心で死んでいきたくはない。生まれてきて良かったという生命の大歓喜を得たい。それには仏法しかないという思いです。打たれても打たれても向かっていく。座談では正直な思いを出していきたいと思う。普段は西本願寺の四国別院で聞いています。今後も華光の大きな大会には参加していきたいと思います。どうぞ、ご教導、よろしくお願いします。
投稿: 阿波の庄松 | 2009年11月25日 (水) 15:12
先生、皆さん、3日間有難うございました。
私は、仏法を聞かせていただいて、私が泣いている、
私がお念仏を称えている、私が喜んでいると思っていました。
それは、全くの自惚れでした。
私には、泣く心も涙もお念仏を称える口も、喜ぶ心も微塵も
ありません。
すべてすべてすべて阿弥陀様でした。
投稿: Anne | 2009年11月25日 (水) 17:47
初めて書きます☆
華光大会ありがとうございました。私も最後までいたかったです。いつまでもいつまでも仏教は私1人のためと知らされた2日間でした。
「仏さまが願っているのに、自分が願うつもりでいたとはね。」本当だなぁ、と思いました。殊勝な心なんて何1つないのにうぬぼれていた私。
次に先生にお会いできるのは半年後かなぁ、と思っています。修正会も報恩講も行けるものなら行きたいのですけどね。これからもよろしくお願いします。
投稿: yy | 2009年11月25日 (水) 18:04
蓮華さん>お世話役、お疲れさまでした。そうですね。ぼくもなかなか言葉になっていないことも多く、これ以外に気付かせてもらたことも多かったです。疲れたけれど、不思議と元気です。
阿波の庄松さん>よくお参りくださいました。そしてよくこれまで命を保ってこられました。いつも思うことですが、残念ながら、ぼくには何もしてあげることはできません。誰もが、たったひとりで歩いていくしかない。でも、ほんとうはひとりではなかった。ずっと願ってくださる阿弥陀様が、付いて離れず護り続けて下さっていることに、阿弥陀様のお心をお聞かせに預かると出会うことができます。そのわたしひとりを願ってくださっている阿弥陀様に出会ってもらいたい。そのお心はお伝えすることができるかもしれません。ご法話の最中に、その阿弥陀様が確かに阿波の庄松さんにも付いておられる、「苦悩の娑婆を離れて、早く帰っておいで」と願ってくださっている姿に、胸が詰まってしまいました。ぼくたちの側からいうと、どこまでも、おとぎ話にしか聞こえないし、後生の一大事なんて心にもかかりません。それでも遇わせてもらえばいいんです。遇えばわかる仕組みを仕上げてくださっています。この凡夫のわたしを正客にした、帰っていく場所が用意されていました。南無阿弥陀仏
Anneさん>ほんとうにひとり働きとはよくいってものですね。今日、明日とM先生の平日、東京法座ですよね。いまは、会場かなー。
yyさん>ようこそお参りくださいました。そしてここでは初めまして、ようこそ。えーと、たぶん、ぼくの分級座談にも出席されてくれていたあの方だと思いますが、初参加も多くて、人違いもあるかものなー。
これは、最後に「大悲のお心」と題して法話したおりの、ある方の感想です。そうなんですよね。自分が願う、自分が聞く、自分で信じる、自分がハッキリする、いやハッキリしなければならないと思っていたのに、実は、まったく違っていた。仏様に願われ、仏様に聞き届けられ、仏様が信じきって、ハッキリしてくださっていたんですね。それを回向くださるわけでしょう。まるまるおひとり働きなんです。
またお会い出来たら、お声おかけください。支部法座も各地でありますよ。
投稿: かりもん | 2009年11月26日 (木) 00:16
華光大会では有難うございました。
最近は私の知り合いの参加も多くなって、嬉しく思います。
ご説法で話題になった人は私の友人です。
華光の座談には免疫が無いので、あの様な発言になったのだと思います。
yyさんは、多分私が学生時代一緒に活動していた人だと思います。
20数年振りに会って、懐かしく思いました。
ところで以前から疑問に思っていたのですが、かりもん先生の「かりもん」はどういう意味なのでしょうか?
借り物という意味なのでしょうか?
投稿: 淀川コナン | 2009年11月26日 (木) 07:04
淀川コナンさん、ようこそ。
そうですね。でも、これは言葉の問題を超えた世界ですからね。ここが難関かもしれませんね。
ところで、「かりもん」の深い深いおいわれは、右上の「プロフィール」のところをクリックいただくか、同じものを下記を参照ください。http://karimon.cocolog-nifty.com/about.html
投稿: かりもん | 2009年11月27日 (金) 00:45
いまは、ポーポーとうれし涙がこみ上げてきます。
本当に今回は「阿弥陀さん方向違いをしていました。ごめんなさい」の法座でした。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏……………………………………
投稿: 尊かったので… | 2009年11月27日 (金) 00:59
合掌!!!!!!!!!
南無阿弥陀仏!!
先生!ありがとうございました。
法座の後の一週間は仕事にならず、社会人として失格です。
最後の座談会本当にありがたかったです!ありがたいというか、言葉が見つかりませんが、目にもの見せられるという感じです。
わからん わからんと言っている人が、阿弥陀さんみたいに、石に向かって、お前を救うぞと言う。それが、はたから見たら、なんとバカバカしいことか!(語弊がありますが・・・)
そのバカバカしいことを、阿弥陀さんは私の為にはるか昔からしてくださっていたんですね。なんと寂しく虚しかったことでしょう。私の頭ではそんな想像しかできませんが、計り知れないでしょう。
そして、私は昔の求道ごっこ時代と言われる自分の歩んできた道を思い出しました。先生の言葉一つ一つに、これはどういう意味なんだろうと考えながら聞いていた事を、ありありとその感覚まで思い出しました。私はその感じに今でも戻れるほどです。
でも、それでは聞けるはずなかったなーと思いました。その私に向かって、切なく虚しくても、叫び続けてくださっていたんですね。
久しぶりに大きな声でお念仏させていただきました。
何度でも聞き直して聞きたいです。
投稿: かーぷ | 2009年11月27日 (金) 20:20
大会の余韻のまま、先月の講演会に参加してくれた友達と一緒に、M先生の支部法座にお参りさせていただいて、先ほど帰ってきました。
平日のご法座にもかかわらず、20名ほどのお参りでした。
ご法話と座談、法水をいっぱいいっぱい浴びさせていただいて、有り難くて、申し訳なくて、勿体なくて、嬉しくて、もうどうしようもないです。
投稿: Anne | 2009年11月27日 (金) 21:59
皆さん、華光大会の余韻まだ覚めぬというところですね。有り難いコメントが続きます。わたしは、すぐに今生ごとにうつつをぬかしていくけれど、阿弥陀様は、ずっと喜び護りどうしなんですからね。
尊かったのでさん>とても有り難かったので、ぼくも、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏、「万歳!万歳!」と悦びながら、「長い間、寂しい辛い思いをさせてきたね」と迎えてくださる方がおられたんですよね」と返信しました。ほんとう、わが身「一人」に、影が形に離れないように、決して離れずについていてくださっていたのですからね。
かーぷさん>ありがとう。これだけでも、ほんとうに聞かせてもらいます。最後のお念仏は久々に強烈でした。ああじゃなくちゃなー。
Anneさん>法座つづますね。お友達の反応はどうでしたか。さて次は、高山かな? こちらも賑やかなようです。
投稿: かりもん | 2009年11月28日 (土) 00:13