高台寺の紅葉
白馬社から、浄土和讃の3校が届いた。 やっと2段組の形式が整ったもの。でも手元には高僧和讃の再校が作業中。まず再校が先。うまくいっても日曜日まではかかるだろう。12月は布教に、華光誌と年賀広告と続くが、こちらも年内の〆切日のリミットがあるので、ますますタイトなスケジュールになる。連れ合いも、修士論文が1ケ月ほどに迫って、かなり必死のご様子。お察しいたします。それでも、ぼくは、自力整体も、映画も観たいなー。講演や会合もある。ブログ? 申し訳ないが、いちばんこの時間が制約されるかもしれない。ますます時間配分と集中力が必要になってきた。
夜には、華光大会で延びていた母の誕生日のお祝い。食事をすることになっていたが、要望が出て、5時をすぎてからライトアップされた紅葉を観に行くことになった。自分の時間なら惜しまないのにね。えー、忙しいのにナーと思う。日頃から当たり前にしてきてご恩徳のかけらもないことが、恥ずかしい。
まあ、こんなときは、京都は場所に事欠かない。でも混雑は必至。すぐ近くに東福寺がある。ある塔頭の方からいただいた招待券があるが、夜間拝観はない。東山沿いなら、清水寺か、高台寺か、聖人ゆかりの知恩院や青蓮院もある。少し足を延ばして永観堂もいまが見頃のようだ。けっきょく、ライトアップの時間もゆるやかだってので、ぼくはまだ未見の高台寺に 決めた。
高台寺は、豊臣秀吉の菩提を弔うために、秀吉夫人の北政所(ねね)が慶長11年、創建したお寺。06)に創った寺。ねねの寺として、寺院周辺のお店と協力して、まわり景観や小路もに気をつかい、集客のためにいろいろと工夫されていることは聞いていた。
八坂の塔(法観寺)が見えている。祇園閣や霊山観音も近くだ。
ライトアップも、さまざまに工夫されている。臥龍池の水面に映し出される紅葉が美しかった。まるで透明な鏡に映っているようだった。でも、枯山水の庭園など、人工的なやりすぎ感が強烈。「エー、興ざめ」というまわりの声も聞こえてきた。色鮮やかなLEDの電飾を多用して、確かにクリスマスじゃないしなー(写真はとれなかった)。まあ、それは差し引いて
も、いろいろとライトアップの演出には趣向をこらしている。でも、どんどん観光バスやマイカー入ってきて、長蛇の 行列。ゆっくりと鑑賞とはまいりません。トイレまで長蛇の列。そして、6時すぎにはそうそうに引き上げて移動したが、ますます人の波は増えていた。
おひとりさま600円也。この期間だけでも、それはそれはたいへんな収益でしょうなー。もちろん、寺院や庭の維持もたいへんな労力のたものでしょうが…。拝観料は、宗教行為なので非課税にな るんだったかなー。うらやましいことです。あやかりたいですなー。
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コメント
ブログの話題と関係ない暗い話ですみません。
年間3万人の自殺者は死んだら楽になれると思って、死んでいったのだと思います。僕もそう思っている節があります。しかし、「従苦入苦、従冥入冥」ならば死ねません。だから、生きて求道しなければならない。死んでも楽になれない。僕の求道の動機はそこでした。
「従苦入苦、従冥入冥」について詳しく教えて頂けますか?
投稿: 阿波の庄松 | 2009年11月28日 (土) 21:32
>「従苦入苦、従冥入冥」について詳しく教えて頂けますか?
ぼく自身は、ここをご讃題にあげたことはないので、ネットで検索したら、ある会ばかりが出て来ましたね。ということは、単純に意味がお尋ねになりたいのか、少し意図があって尋ねておられのが、問題の根のところがわかりませんが、単なる知的なところでもなさそうかなと感じています。
これは、『大無量寿経』の釈尊の勧戒の部分で、五悪段の最後、「大命、まさに終わらんするに悔懼こもごも至る」のところです。この世の中の者が、欲望や怒りの煩悩に振り回されて、疑いに囚われ、因果の道理を信ぜず、真実を求め聞くものがないことを嘆くあまり釈尊が大悲のお心で、仏法を聞いてくれ、こんなチャンスは二度とないぞと叫ばずにおれないお勧めと戒めの部分の一部ですね。
「そして悪人は悪い行いをし、より苦しい世界へと生まれ変り、ますます深い迷いの世界をへと沈むのである。この道理はだれも知ることがなく、ただ仏だけが知っている。そのため、わたしはこの道理を人々に教え示しているが、信じるものは少ない。それでいつまでも生まれ変り死に変りして、迷いの世界を離れることができないのである」(本願寺出版の現代語訳より)
というこことは、決して脅したり、無用な恐怖に陥れるためのご説法ではなく、その釈尊の大悲のお心を聞かせてもらわなければと思います。
なぜ、仏のみが知る道理を述べてくださっいるのか。それは、このわたしが自業自得とはいえ、雨あられのように地獄に落ちていく姿が哀れで、不憫でたまらないからでしょう。それで、どうぞこの人間の身にあるうちに、どうか仏法が聞けるうちに、もう二度と苦しみの世界に戻らぬ身になっておくれ。その迷いを離れる唯ひとつの道である南無阿弥陀仏に出会っておくれという涙ながらの大悲心から出ているわけです。
この世を生きるのでも、ほんとうに苦しんでおられるんですからね。その「生死の苦海ほとりなし、久しくしずめるわれら」を、如来の願船にのせて超えさせてやろうという如来様のお心は、決して、無用な後生の恐怖で苦しめるためではなく、ほんとうの姿に目を向けさせ、逆にそのわたしにこそ深い深い大悲の願いがかかっている、そこに焦点を当ててお聞かせに預かってみてはどうでしょうか。
投稿: かりもん | 2009年11月29日 (日) 00:22
話は変わりますが、なぜ、この人間界においても格差があるのでしょうか? はっきりいって座談においても腹が立って仕方がなかった。おまえらと俺は境遇が違うんじゃ!という怒りしか出てこなかった。若いO先生がふと、中村久子さんのことに触れられたので、以前、知ってるつもりで見ていましたが真宗の信仰を持っておられたとは知りませんでしたので、本を読んでみようと思います。アフリカに生まれ、すぐに死んでいったなら、仏法すら聞けません。その子らよりかは恵まれていると思いますが、割り切れない思いで一杯なのです。このようなしんどい思いが阿頼耶識の中に一杯、溜まっていっている。なんだか、毎回、同じことばかりいっているような気がします。まぁ、交流が目的で華光に参っているのではないのですけれど…。
投稿: 阿波の庄松 | 2009年11月30日 (月) 23:40
>なぜ、この人間界においても格差があるのでしょうか?
というより、格差や差別が生まれるのが、畜生や人間界でしょう。悲しいけれど、自分の生き方をみてもわかりますが、慈悲や智慧はなく、「俺が」「俺が」の自己中心で生きているものね。
「人生は苦なり」とお釈迦様は立ち上がられた。この娑婆と迷いの世界、差別の世界。だからこそ、どうかその苦しみから離れて、差別のない平等、安楽の世界に生まれてくれという願いを阿弥陀様は起こされた。それを説き、教えてくださるのが、お釈迦さまの出世の本懐ということなります。
その究極が、「南無阿弥陀仏」という、自利と利他円かにそなわり、慈悲と慈悲と智慧が欠け目ない、平和そのものの現れなんですから、そのお念仏を申すしかないわけなんでしょう。でも、私達は、その清浄・真実の世界までも、この罪悪と差別の心で利用するしかないわけですが、それにすら妨げられたり、ケガされることのない世界があるわけですよね。
南無阿弥陀仏」と称名申すしかないですよね。
投稿: かりもん | 2009年12月 1日 (火) 00:48