土曜・日曜日は、兵庫県豊岡市日高町の日高支部での支部法座。
年2回。11月の中旬と、4月初頭なので、だいたいまだ寒い日が多く、日本海側ということもあって、時雨れることが多い。それが今年は珍しく、快晴。しかも、動くと汗ばむほどの快適な気候だった。紅葉にはまだ少し早い。
いまは豊岡市になっているが、もともとは豊岡のご縁が古くて豊岡支部があり、隣接する兵庫県日高町は、JRの駅名をとって、江原支部と称していた。共に、華光有数の強信な同行を輩出した地が、創刊号からの唯一の同人がひとり存命されるだけになった豊岡支部は、かなり早くから高齢化や逝去が相次いで、支部活動は消滅した。そんな支部・地域は他にもあって、和歌山、冬野(和歌山市郊外)、堺、大和(支部ではなかったが)などは、古い創刊時や創建時に活躍された同行の地だったが、いまはご縁が尽きている。
ご法とは、ひとりひとりが目覚めである。だから、そのめざめた方が、往生の素懐を遂げられたら、その仏法は滅んでいくといていい。あくまで、組織ではなく、個のめざめこそが、大切なのである。その意味では、やはり寂しいのだが、たまたまその地域で後継者が育っていなくても、遠く離れた地で、そのめざめた方の信火が飛び火して燃え盛っていくことがあるから、仏法はある種、厳しくも、ある種、面白いのものである。
その意味で、この地の古参の同人たちは尊い。その強信ぶりもさることながら、長らく借地だった華光会館の境内地の購入や、華光会館再建の時には、事業の促進役になって尽力をくださった皆様方なのである。いまの華光会館にお参りの方には、たとえ直接のご縁がなくても、大恩がある先輩方であり、そんな方の仏法弘まれの執念が、連続無窮の絶えないお働きとなって結実し、いまの私のところにも、この尊い、まことのお念仏の教えが届いて来ているのである。
毎回触れることだが、年々、激しく高齢化が進み、亡くなる方、お参りにこれなくなった方の方が多くなってきた。お参りの人数は半数、いや1/3程度まで減ったかもしれない。いろいろなことがあったが、ここの皆さん方にぼくはお育てをいただき、今日のぼくがあるのだ。父が30歳の時からのご縁だからもう55年近くになる。ぼくは初めて布教(子ども会だった)にお邪魔してからでも、30年は経っている。
月忌参りがたいへんな時もあった。なかなか新しい人や若い人が増えず、いつも同じ愚痴話や言い争いになってしまうこともあって、このままでいいのかと考えた時期もあった。でも、ある時から、たとえ、新しい方がこなくても、「もうお招きできません」と言われる日がくるまでは、しっかりとお付き合いし、その現実の姿を見届けさせてもらおうと思った時があった。当然、皆さん、老苦、病苦、死苦のオンパレードなのて、皆さんがお参りにこれないのなら、こちから向かっていけばいい。さいわい、小さな地域にすんでおられるので、ほとんどが歩いてお参りにいける。しかも心待ちに待ってくださっている。
今回は、これまで華光の運営委員長として活躍されていた方のお宅を訪問した。もう満身創痍というのはこの方のことである。足も手も不自由になれら、目も不自由なられておられる。痛みもあって辛いことだろうが、それでも、頭はあいかわらずシャープさで、いろいろと深いお話を聞かせてくださった。移動もたいへんだというので、襖を開けたまま、隣の仏間でお勤めをしたら、背後から号泣と大声のお念仏が聞こえてきた。御文章は、仏壇を離れて目の前で拝読した。
「あれもダメになり、これもダメになり、たよりになると思っていたものが、なにひとつ頼りにならなくなってく。でもダメになればなるほど、逆にますます光り輝いていく、このお念仏さまによくぞ遇わせてもらいました。ほんとうにこれだけです」と、また泣きお念仏される。まさに、凡夫の無常の身を抱え、その病苦、老苦の現実を通しての身業説法をいただいたようであった。
支部法座も有り難いし、子ども会も尊いのだが、法座をお世話してくださる姿や、一緒に食事をしたり、勤行をしたり、なんとなく近況や雑談が法義話になったりするような、いわば法座と法座の間の触れ合いに、一層の尊さを感じるようになったのである。いわば、文章なら、その文字のある行、行よりも、その間の行間の部分に深い味わいを感じるのである。
今回のお宿にしても、決まっていたお宅の方が緊急手術とって、急な変更になった。月忌参りに入った先でも、お約束の時間なのに誰もおられない。お隣の方にお尋ねしたら、数日前に転んで肋骨を骨折して入院されているのだという。それでも、お二人とも、ご法礼はちゃっと言付けてくださっている。
しかもお宿がダメなら困るだろうと、急遽、もう自分の体さえももままならないのに、わざわざヘルバーさんをたのんで掃除し、お宿をしてくださった。ぼくだけでなく、京都と福井から若い人がお参りされているのも、喜んで歓迎してくださった。それでいて、「何もできしませんようになりました。でも、支部長さんが忙しい中でも、ほんとうによくやってくれて、迷惑ばかりかけてます」と言われる。
その老婆ふたりと手料理の鍋をつついた。ひとりの方など完全に耳が聞こえなくなっておられる。でも、さいわい、口はまだ達者なので、あれこれとお味わいを聞かせてくださるのであるが、最後は、何も残らない人生、すべてがダメになっていく現実の中でも、仏様に出会った喜びと、その真実に導いてくださった先生に出会った悦びを、涙ながらに語ってくださる。そして、「いまは楽しいだけです」と、不自由な体で喜んでおられる。この方の生き方は、ほんとうに恩徳讃のとおりである。
それに、ほんの少しずつではあるが、次ぎの世代の方にも、その法水が、一滴、一滴と垂れ始めている。月忌に参ると、30、40代の息子さんやお嫁さんも、一緒に勤行してくださるようになった。ここまででも、かなり年数がかかっている。それが、今回は、初めて大人の法座にもフルで参加してくださり、懇親会でも楽しく話させてもらった方があった。もちろん、同世代の支部長さんの働きが大だし、巡回テープの作業のご縁もなど、いろいろとご因縁が整ったおかげだ。もろちん、この先、彼が自分の問題として聞法されるかどうかはわからない。でも、まずここからだ。ほんとうに畳の目を一つ、一つを進むかのような歩みであっても、誰もがその一つ一つを懇切丁寧にお育てをいただいきて。人に勧められ、導かれ、褒められ、おだてられ、ときに厳しく叱れしながら、歩ませてもらってきたのてある。それが、いまでは偉そうな口が利けるようになったぼくのほんとうの姿である。
私が仏法を悦びるようになったのは、おかげでないものは何一つないのだ。
もちろん、その背後には、如来様の大きな大きな願いがかかっているのである。