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信心の顧問

 久々に伝道研究会の話題。

 毎月1回あるのに、わりと触れることが少ない気がする。

 今回で、長々と読んできた、羽栗行道先生の『心身の革命』~他力信仰の極致~がやっと終了した。時間がかかったのは、内容を深く読むというより、その都度、その都度、大きな行事の話題や、ご法の勧め方、また折々で刺激を受けた話題提供などがあって、あっちこっちにいくので、時間がかかっていた。

 それにしても、いいタイトルですよね。心身の革命にしても、他力信仰の極致にしてもそう。真の自己に目覚めることを徹底的に説かれていきます。

 本編も、最初は、徹底した、罪悪の事実、悪人の自覚を、微に入り細を穿ち、しかもきわめて具体的な、我が身に引き寄せたところでお示しくださる。まさに、仏願の「生起」のところ、弥陀の本願にお目当てを徹底的に説かれていかれます。そして、最後の1/10程度に、40年近く「響かそう、響かそう」と求めてきた婦人の例話のあと、やっと南無阿弥陀仏のお働きを、無量寿如来、無量光仏という形で、最後の最後に締められる。

 ご法を勧める者としては、この展開は、なかなかすごい。功を焦った下手なお勧めは、すぐに念仏を勧めたり、また法を出してしまうもの。説き手にも、予定概念ありますから、結果がほしい。でも、説き手が法悦で酔ってしまわないで、まず機の方から徹底的に押していく。徹底して、誰がお目当てなのかの、「誰」の物柄をしっかり聞いてもらう。そして、ここひとつのところで、法の働き、南無阿弥陀仏の働きを、ピンポイントでズバーッと伝える。まあ、そんな教科書どおりに行ったことありませんが、ただ、あまり軽々しく、お念仏を勧めるものではないことは、肝に銘じておいていい。すぐに握ってしまいますからね。有り難くなったのも、念仏出たのも、イコール信心じゃありませんからね。ここは要注意。

 それで、自分ひとりぎめにしてしまわないで、善知識、導き手に相談をしていたかねばならないと、本書でも「信心の顧問」と称して注意されている。要約すると、
 「信仰問題は一点の疑義が残ってもダメなので、九百九十九点まで卒業していても、あとの一点がぼやていると、全部が偽物となる。自分でも大丈夫と思うていても、信仰の先輩者、すなわち善知識の信心の顧問に打突かっていかねなならないところだ。そこを、蓮師も、「仏法には微細にこころをもち、こまかに心をはこぶべきよし」(128条)と仰せられ、また、「同行善知識には、よくよくちかづくべし。親近せざるは、雑修の失なり…」(150条)とある。同行知識にちかづいて、破ってもらう。しかも、よくよく近づけとおおせらる、「よくよく」のお言葉に注目され、同行、知識にどんどん打突かっていかねばならない」とされて、そのあとで、「音声法説法」の一段を設けられている。すなわち

 「大悲の親様のひとり働きは、盡十方無碍光をもって照らし破ってくださるが、私達のオゾイ眼では、その光明を拝むことはできないので、その智慧の光明が、音声法説法となって、耳から入り目覚めをさせてくださる。この6日間(連続であった)の説法は私がしているが、その声は弥陀如来の直説法なのであり、これを羽栗の言うこと、人間同士の会話として聞いていたら、大きな間違い。そのおごりたぶりよこしまで、一向に眼をさまさないものに対して、遂に親さまの念力が凝って、人間の口を借りて声となってくださった。阿弥陀仏は最初、まず釈迦如来の口を借り、それが文字となって三国に広まり、その文字が、また信者の声となり、常に弥陀如来の音声を聞くことが出来るのだといのうである。」

 そして、そこから、やっと南無阿弥陀仏のお働きで結ばれていく。ほんとうは、最後の無量光仏のお働きについて感じたことを述べたかったが、ちょっと脇道から進んだ。

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